第17話「惚れた弱みと愛した強み」

 聖女からしたら前時代的な考えが根づいているのが、中世ファンタジー風味な異世界である。

 女の幸せ、男の甲斐性。それらが素晴らしいと謳われて、ほとんどの者が疑問を持たない。定まった生き方ほど、まっすぐでわかりやすいのだ。

 それは貴族のように固定された社会を持つほど、顕著になっていく。淑女として幸せな結婚をすることが、令嬢にとって最上級の幸せだと。

 

 では淑女らしくない生き方とは、なんだろうか。

 男性の優位性を奪うような思想や癖、男役のイメージとされることを望む。

 ズボンを履く程度ならば服飾の流行を先取りしたと言えるだろう。

 

 ではキトラという社交会の花が口にした内容は、どれだけの冒涜だっただろうか。

 凹凸という体の仕組みごとひっくり返すような発言は、思考すらも凍らせる劇薬のように大勢の動きを止めた。

 一番驚いているのは魔導騎士である。知り合って十余年の付き合い。

 

 美しい元婚約者に「掘りたい」と言われたのである。

 しかも辱め要素も含まれている。悪夢の方が慰めてくれるに違いない。

 

「叶うのなら、前の純潔よりも先に後ろの純潔をいただきたいと考えております」

「……」

「どうぞはしたない女とお笑いください」

 

 別の意味で笑えなかった。

 とんでもない貞操の危機に瀕した魔導騎士の横、花壇の影から助言が放り込まれる。

 

「坊っちゃま、あれほど運命の愛だと仰っていたでしょう」

 

 自慢げに執事へあれこれ言っていた幼い自分を、今なら殴っても許される気がしてきた。

 言葉では言い尽くせない衝撃を味わいながらも、困ったことにケイジの愛が揺らいでないのが一番の厄介である。

 どんなに悩んでもキトラへの気持ちが変わらない。結婚するならば彼女しかいないのだが、夜の営みについては議論の余地がある。

 

 いっそのこと子作り問題は養子を迎えることで解決し、心で繋がる健全な夫婦仲を築くのも悪くないのでは。

 しかし奥方に触れない冷血貴族と囁かれてしまうのは、ケイジの本意ではない。キトラへの愛は変わらないのに、関係性だけを弄りたい。

 横から焚きつけてくる執事の助言に苛立ち始めた頃、洋燈の光が揺れるのが見えた。

 

 人型スライムが起き上がっていた。横顔は街灯に照らされており、太陽はいつの間にか姿を消している。

 渦中の二人に光を当てるように月が昇り、その輝きを受ける元婚約者の美しさは美神すら嫉妬するほどだ。

 洋燈の硝子扉は閉まっている。けれど糸車はカラカラと動いており、赤い糸が紡がれているのが白い炎の中で確認できた。

 

 それこそ女神が紡ぐ運命の赤い糸なのだろう。

 天の女神が結ぶ縁で、今まで以上の婚姻関係を固くすることができる。

 あとは人型スライムが扉を開くだけ。全てを有耶無耶にして、幸せな結婚を待つだけでいいのだ。

 

 最悪の結果だ。

 

 淑女として振る舞ってきたキトラの、おそらく初めて零した本音。

 それが女神の糸で縛られて消えてしまったら、彼女の意思までなくなってしまう気がした。

 

 赤い瞳で人型スライムを睨む。

 絶対に開けるな。

 

 女神信仰を捨てることになってもいい。

 これだけは自分で解決しなければいけないのだ。ケイジとキトラの問題で、二人が立ち向かうべき最初の壁だ。

 困難の壁一枚目にしては高すぎるし分厚いが、これから何度も乗り越えていく必要がある。

 

 野次馬達の理性が戻る前に、勝負を仕掛ける。

 華奢な細い手首を力強く引き寄せて、小さな体を腕の中に抱きしめる。これだけで折れてしまいそうなのに、性癖が末恐ろしい。

 突然の抱擁から逃げ出しそうなキトラへ、苦渋が滲んだ声で告げる。

 

「君の全てを受け入れる時間がほしい」

 

 今すぐ答えを返せるほど、気軽な問題ではない。

 しかし簡単に跳ね除けていい願いではない。淑女が恥を忍んで伝えた、いつかは叶えたい望み。

 それがどれだけ歪んでいたとしても、内側で燃え続けた心そのものだ。

 

 全てケイジの気持ち次第。受け入れるか、突き放すか。

 運命の別れ道。キトラが傍にいるかどうかだけの、誰かにとっては些細な違い。

 十歳の頃から蓄え続けた愛が津波のように押し寄せて、たった一つの答えに向かって心を押し流していく。

 

 キトラがいない人生は考えられない。

 これ以上の愛を見つけるのは不可能だ。

 もしもその瞬間が訪れたとしても、後悔しないくらいに好きである。

 

「だから俺を選んでくれ!」

 

 懸命な美形の告白に、見守っていた貴族令嬢やメイド達がときめく。

 もしも同じことが自分に起きたら、と考えるだけでお茶会を延々と続けられるくらい浪漫に溢れている。

 

「……手錠や鞭を使用しても?」

「そこらへんの詳しい内容は、結婚後に!」

 

 ここぞとばかりに要望を伝えてくるが、それに関しては本当に時間が必要だ。

 腕の中から小さい舌打ちが聞こえてしまったが、そっと聞こえないふり。ただ気持ちの強さを腕力で示すしかない。

 そのまま五分くらい抱きしめていたが、胸あたりをくすぐる笑い声に顔を上げる。

 

「どれだけ私に惚れたんですか?」

「この世全てと引き換えにしてもいいほどに」

 

 くすくすと笑う元婚約者の顔は晴れやかで、睫毛を濡らすのは嬉し涙。

 惚れた弱みを強さに変えた魔導騎士の夜風で冷めた両頬を手の平で包み、美しい淑女は妖しく囁く。

 

「私の恋は貴方に」

「俺の愛は君に」

 

 そして深い口付けを交わした瞬間、盛大な拍手が貴族街に響き渡った。

 貴族令嬢達は涙を流し、馬車から降りて立ちながらの歓声を送る。王宮騎士団は指や口の笛で囃し立て、メイドや使用人達からは祝福の声が上がる。

 ドラコー家の執事も楽しそうに手を叩いており、洋燈を手にしたまま呆然と立ち尽くす人型スライムが二人を見つめる。

 

 太い縄の編まれた糸がほぼ千切れて、かろうじて蜘蛛が作るような細い糸が繋ぎ止めていただけ。

 それを愛の力で一本ずつ結んでいき、最初よりも強靭な綱にしてしまった。

 

 女神の力も借りずに、縁を結び直した人類。

 糸車は沈黙し、周囲を飛ぶ声のやかましさに目を細める。

 

 ――なんて愚かで素敵なことなのかしら!

 

 絶賛と称賛。しかし見下すことは決して忘れない。

 それが魅力だと教えられても、スライムにはピンとこない話だ。

 けれど少しだけ。魔導騎士から元婚約者と繋がった赤い糸が、強固になって視界から消えていく最中。

 

「惚れた弱みで女神の力を越えるとは恐ろしい」

 

 恋愛から一番縁遠い魔物は、その威力を目の当たりにしてしまった。

 愚かな人類が奇跡を起こす時とは、こういうことなのだろうか。

 

「それにしても何の話であれだけ戸惑っていたんだ?」

 

 人型スライムからすれば、恋人の夜事情などどうでもいいもの。

 とりあえず上手くまとまったようなので、流れに乗って適当に手を叩く。意味もわからずに、青白い顔で将来に悩む魔導騎士を祝福するのであった。

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