第1話「あるイブの雪の日に」
一二月二四日、クリスマスイブ。
その日の朝は、珍しく晴れていた。
まだ一二月だというのに、一週間以上も雪が降り続く異常気象の日々。その中でやっと訪れた、温かな日差しと晴天の空の下。
「……はっ……はっ……!」
空色と雪に包まれた白銀の世界にサクサクと足跡をつける、可愛らしい姿の「少年」がいた。
「わっ、とと……ふっ!」
シュシュで括ってもなお足下に届きそうなほど長く、くすんだ灰色の髪。肌を隠す厚手の長袖に、色褪せた藍色のマフラーを首元に巻き付けただけの少年「日松綾葉(ひまつあやば)」は、同級生と交わした約束の為、雪が降り積もった道を急いでいた。
「……〜〜っ! ……よし、かくご、覚悟をきめろ……!」
積もった雪が固まる間もなく溶けてしまいそうなくらい、ほこほこと綾葉は顔を赤くしている。今まで彼の気分がこれほど高揚し、また彼がこれほど楽しみにしていた日も他にはなかった。何故なら、
「〜〜〜〜っ!」
綾葉にとって初めてとなる、デート。クリスマスイブの今日が、その日だからだ。
普段の日々を「忙しく」している綾葉にとって、この日は何の変哲もない、至って普通の一日。……こんな日を、彼はどれほど待ち侘びていたことか。
「……早く、はやくっ……!」
約束の時間に遅れている状況でなければ、嬉しさを全身で表現したいくらい。
そんないじらしさを紛らわそうと、頭の中で同級生に会えるまでの時間を計算する。
(駅に着くまで五分。列車に乗ると一五分はかかるから……ええと)
結果、飛んでいきたい。と思わずそう考えてしまう綾葉だが、同級生からは「一時間もかからない距離なんだから、公共の交通手段を使って待ち合わせ場所に来ること」と約束させられている。
「べつにいいけど。でも、早く会えるならもっと別の……」
今朝になって急に指定された、待ち合わせ場所とそこまでの移動方法。
事前に教えてくれたなら、綾葉はその場所で一晩でも待てたのに。しかし、彼が多少遅刻する事になったとしても……と、待ち合わせの仕方をあえてこの方法に決めたのは、綾葉が楽しみにしていた今日のデートを彼の中で一番にするためだという。
携帯端末を取り出し、朝から何度も確認しているメッセージアプリを表示する。そこには、最後に同級生から送られてきた「待ち合わせ場所への行き方」があった。
綾葉の自宅から最寄りの駅に向かうまでの順路、駅への入場の仕方、何番線の列車に乗れば良いのかなどなど。こと細やかに待ち合わせ場所への道順が示されたメッセージの後に、こう締め括られている。
『がんばれ。綾葉なら、やればできるから。あとそれと――』
最後の「楽しみにしてる」という言葉が、ただでさえ暴走中の綾葉の胸中をさらに熱くしていて。
(……ダメだ、調子に乗るな調子に乗るなああでもつまらなそうにはするな……!)
どこまでも、いつまでも幸せで。綾葉がこれから過ごす幸せな時間は、人生の第一歩にも等しい、輝けるものになる――筈だった。
不意に、身を包む静寂に綾葉はようやく気づいた。
「…………?」
……初めは、ほんの小さな違和感。
急ぎつつも新鮮な雪道に足跡を付けることを楽しんでいた綾葉は、いつの間にか自分のもの以外にも足跡があることに気づく。
「あれ……?」
一四歳にもなって落ち着きの無い様子を形の無い誰かに嗜められた気がして、少し気恥ずかしく――そうではない。
「道を、間違えた……?」
手元の端末を確認する。……いつの間にか、綾葉は指定されたルートを外れて脇道に進んでいた。――それに。
「……いや、これは……」
足下に、嫌なものを見つけてしまう。
デコボコに凹んだ雪につけられた、靴の足跡。それは血の痕跡であり、恐怖の爪痕だ。
歩調の揃わない足跡に、強く踏みつけた跡形。専門家の知識なら、その辺りから情報を拾ってくるのだろう。しかし綾葉にそんな知識は無い。
「…………」
足跡の主は、強い恐怖心を抱いて、この雪を踏みしめていたことが、綾葉にはわかった。
必死に走っていたと思われる何者かが強く残したその痕跡は、綾葉がキッカケとなる足跡を見つけただけで、彼にその事実を教えてくれていた。
万象に触れることでその情報が辿ってきた軌跡を読み取る力、「ホルファノス」。
「…………」
ただ、その異能が教えてくれた答えは、「足跡」を辿った先で、どれだけの重大な事件が起きていようと、それは綾葉にとって、
見てしまわなければ、それか無視をしてしまえば……彼の人生には関わる事のない、ありふれた不幸の筈で。
「…………っ」
数秒後、綾葉は己の葛藤を噛み潰し、駆け出す。
「……ごめん……っ!」
――口から零れた謝罪は、誰への懺悔か。
その足跡は、楽しさの予感よりも確実に、不幸の香りを漂わせている。
――雪が、降り始めた。
△◯
たった今まで晴れていた筈なのに、いつの間にか日差しは雪雲によって遮られ、雪がしんしんと降り始めた。
「……」
数歩で足跡が途切れていても、警察犬が見えない匂いを辿るように、綾葉は何者かが逃げた先を追っていく。
「……」
右に曲がって、何かにつまずいて転んで、尻餅をついたあとにまた走り出している。
追手を撒こうとしてか、複雑に曲がりくねった道順で逃げている。それでも、徐々に追い詰められていて。
何度目かわからない曲がり角を曲がった先。……助けを求めているであろう「その人」は、
「――――――――え」
鉄錆の臭いがはっきりと感じられるほどに酷く血に染まった雪の中で、倒れていた。
「……なんで」
しかも。
綾葉はひと目で、倒れている人影が誰なのか理解していた。
綾葉がこれから会う「同級生」ではない。……そんなことに安堵する暇すら、残されてはいなかった。
普段から目深に被っていたフードはボロ布のように斬り裂かれ、綾葉が以前可愛いと褒めた服装は赤黒く色を変えている。
綾葉にとって見間違えることのない知り合いの一人で、彼を「先輩」と慕ってくれる少女。
そんな彼女が死にかけて――いや。
「なんで
急いで倒れている春牙のそばに駆け寄り、膝をついて容体を確認する。
「……、…………」
呼吸はほぼ止まっている。折れて腫れ上がった腕と脚に、胸元を深く抉られた傷は明らかな致命傷で。
外科手術は勿論、「医療魔術」での治療でさえ、間に合わない。
すでに死んでいるとさえ感じてしまう、――明らかな、命のおわり。
「……ちくしょう、いやだ、ダメだ……!」
口で何を呟いたところで結果は何も変わらない。ここが病院でたった今運び込まれたのだとしても、数分後には司法解剖が始まっている。
だが。
(
「……………………」
綾葉が彼女の下に到着した時点で、彼が何をするべきかは決まっていた。
綾葉が持つ「異能」では人の死を無効化することはできない。だから、彼の肉体に刻まれた「技術」を行使する。そのために綾葉は着ていた服のボタンを外した。
寒空の下、綾葉は上着を全て脱ぎ捨てて半裸になる。いかにも寒そうな格好だが、白い息を吐く彼に弱音を吐く暇などない。「錫杖」の一言を呟きつつ、すぐさま己の胸に右手の親指を押し当て、その熱のこもった指先を傷だらけの春牙の身体にも優しく、撫でるように乗せる。これで、二人の間に通り道ができた。
(余裕があればもう二、三本は通り道を繋ぎたいところだけど……時間がない!)
「……戻れ、
技術を形にするための術式を体内で練り上げ、声で補助しながら、綾葉は汗をかく。
雪が降り積もるほど低い気温の中で滝のような汗を流すのは、集中力を研ぎ澄ませているためでもあり、氷点下にもなる気温の中で汗が垂れるほど高温のエネルギーを、彼の体を伝って春牙へと放出しているからに他ならない。
綾葉が春牙に渡しているのは、傷を癒やす治癒力だけではない。この先に綾葉が巡り合わせたであろう運命力、
それが何を意味するのか、何故そこまでするのか。
「…………」
綾葉の春牙に向ける眼差しは、何も語らない。
その後数分、雪の降る音と溶ける音が交互に繰り返される。春牙が負っていた傷はわずかな痕を残して全て塞がり、微かにしか聞こえなかった呼吸も、規則正しい安らかなものへと変わっていた。……生気を取り戻した少女とは対照的に、道の塀に背中を預けて座り込む少年の瞳からは、輝きが失われていた。
△◯
「…………は、あ」
「術式」の実行を完了して、綾葉は雪の舞い始めた空に少し想う。
術式の影響か、綾葉にはもう、空の色彩は見えない。それでも、彼の瞳が映し続ける彼の空を、彼は見上げた。
たった今、綾葉が春牙と自分を繋いだ術式。それは、術式を使われた者は莫大な恩恵を受けるが、術式を使った者がどうなるかは……語られることはない、綾葉にとって最期の秘奥義。
彼のとった行動に意味はない。ただほんの少し、未練があっただけだ。
今日は一緒にクリスマスを楽しむ予定だった同級生に、申し訳ないな、とか。
自分にとっての奥の手を使ったのに、春牙に傷を残してしまった、とか。
でも。春牙のことを無視していたら同級生は怒っていたかもしれないし、綾葉の背中を押してくれた少女の運命を悲惨な結末で終わらせていたかもしれない。
自分が最悪な選択をしたという自覚はある。……ただ、道を間違えた時に感じた不安を無視して道を引き返していたら、自分はもっと後悔していたに違いない。
(……そうだ)
最期に、一言くらいは。
「……は」
そう思って綾葉は懐から通信端末を取り出す。……端末を握る感触も、周囲の音でさえ、何も感じないことに気づいて……連絡先を、変えた。
端末を一旦閉じて、画面を閉じたまま、何百回と繰り返してきた手順で画面に表示した連絡先をコールする。そして綾葉は
「……よう。第三〇六
『…………、…………!』
何かが、綾葉の鼓膜を叩く。でも、どれほどに何を叫ばれても……綾葉にはもう、届かない。彼から発信することしか、できない。
「何言ってるか…………わかんねぇよ。……それ、より……あいつに、……っ。『約束破ってごめん』……て、伝えて、くれ」
『……! …………!?』
その言葉も、流氷のように詰まって、弱々しく、たどたどしいものになる。
「…………あと、…………できれ……きばを、ころした……はんに……………………」
…………。
…………。
…………。
…………。
……空から落ちてくる雪が、綾葉の肌に触れても溶けなくなった頃。
クリスマスイブ。後輩の少女に僅かな奇蹟というプレゼントを遺して、日松綾葉は、その短い人生に幕を閉じた。
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