第51話 駿府に越してまいれ
まさに間一髪。
武田軍から撤退の使者が来て、お館様たちが守備隊を残し駿府城に引き上げて来る、そのわずか半日前に井伊宮内少輔と宮内少輔の末妹
五郎八郎は二人を連れて寿桂尼の元へ行き、井伊家は此度の反乱を心から悔いていると説明した。
お詫びでは無いが両家の結びつきを強固なものとする為、お館様に井伊家の姫を側室に貰っていただこうと思っていると。
寿桂尼にもそれなりに情報は入っており、井伊家が戦犯かのような扱いを受けるであろう事は想像に難くない。
何とかそこを一緒に説得して欲しいと五郎八郎は言いたいのであろう。
寿桂尼は五郎八郎の若干焦った顔を見て口元に袖を当てくすりと笑った。
「五郎八郎殿、お館様たちが戻られる前にお二人が到着して良かったですわね」
五郎八郎の笑顔は完全に引きつった。
隣で宮内少輔は床に額を擦り付けん勢いで平伏している。
城に戻って来たお館様と雪斎禅師は非常に機嫌が悪かった。
戻って早々に五郎八郎は二人から呼び出しを受けた。
どうやら寿桂尼もらしく、その粗略な扱いに若干機嫌が悪い。
四人中三人が機嫌が悪く、室内は非常に空気が重い。
堀越治部少輔さえ余計な事をしなければ、防衛線を築かれる前に興国寺城を包囲できたのに。
お館様も雪斎禅師も怒り心頭である。
ああでもないこうでもないと愚痴を言いまくった挙句、そのとばっちりが五郎八郎に向かって来た。
そなたがあの時、堀越と井伊を処分するのに反対しなければかような事にはならなかったと。
「ならば伺いますが、もし両家をあそこで処断していたとして、此度の一件が本当に防げたとお思いですか? 私には他にも致命的な原因があったように感じるのですが?」
五郎八郎の冷たい一言に雪斎禅師がぐっと喉の奥を鳴らして悔しがった。
たが、どうやらお館様はその発言で五郎八郎が何か交渉したい事があると感じたらしい。
目を細め、そう簡単には説得はされぬという意志を示す。
実際、全ては堀越治部少輔の野心に起因しており、お館様の愚痴はあながち間違いでは無い。
つまり蒲原城にいる間、お館様と雪斎禅師で出した答えがそれであったのだろう。
確かに今にして思えば、あの時、堀越家だけでも処分しておくべきだったと五郎八郎も思わなくはない。
ただ、あの段階で堀越治部少輔を処分したら、間違いなく井伊家も同罪とされていたであろう。
そして今回、堀越、井伊の両家が背いたという報のせいでお館様たちが身動き取れなくなった、それもまた事実。
一人では間違いなく井伊家存続の説得は困難であっただろう。
事前に寿桂尼様を抱き込んでおいて本当に良かったとしみじみ思う。
「さすがに今回は堀越家にしても、井伊家にしても取り潰しに反対したりはしないであろうな?」
お館様は少し拗ねたような顔をして睨むような視線で五郎八郎に言った。
謀反は鎮圧されたというざっくりとした報告しか、どうやら二人の耳にはまだ入っていなかったらしい。
堀越治部少輔を自刃させた事を報告すると、雪斎禅師と顔を見合わせかなり驚いた顔をした。
「それと井伊家ですが、戦わずに降伏し、その上で三河の奥平、戸田、鈴木の三家の誘引に成功しております。それだけの功績を無視して、一時旗色を変えたという点だけを見て処断なさるおつもりですか?」
お館様にしても雪斎禅師にしても、まだ駿府に戻ったばかりで遠江戦線の詳しい情報が入っていない。
それだけに反論が難しかった。
その功績は本当は五郎八郎の案なのだろうと疑いの目を向けるので精一杯であった。
だが例え他人の案であっても功は功と寿桂尼からも指摘され、ぐうの音も出なかった。
おまけに、片や領土を取られ、片や支配域を増やしたと比較されてしまっては、もはや歯噛みするしか無かった。
「どうせ今回は形勢不利だとみてこちらに尻尾を振っただけで、また何かあれば牙を向けてくるのと違うか?」
お館様は明らかに信用に足らんという態度を取った。
さらには雪斎禅師まで、二度あることは三度あると昔から言うと冷たい目で五郎八郎を見ている。
「確か以前、お二方は一族の誰かをお館様の側室に差し出せるならば信用できるとおっしゃってましたよね? 宮内殿は妹御を連れてこの城に挨拶に参っていますよ?」
五郎八郎がそこまで言ってもお館様は、どうせ行き遅れか
自分から見てもかなりの美女だと言ったのだが、雪斎禅師は五郎八郎の内儀が美女だという話は聞いた事が無いと言い出す始末。
さすがにそれには寿桂尼が黙っておらず、人様の内儀の容姿を馬鹿にするとは何たる非礼と雪斎禅師に説教をかました。
「手の届かぬ柿を見てやれ青いだの渋いだのとおっしゃらず、実際に会ってご覧になられたら良いではありませぬか」
そう寿桂尼に叱られ渋々という感じで、お館様は宮内少輔と木蓮に対面する事となった。
木蓮の顔を見たお館様は、ほうと言ったまま視線を釘付けにしてしまったのだった。
後日の評定では、井伊家は功有りとしてお咎め無しとなった。
また、松井五郎八郎、久野三郎四郎、天方民部少輔、天野小四郎、山内対馬守には感状が発行された。
こうして河東郡が北条家に奪われたまま、そこから大きな動き無くその年は過ぎ去った。
明けて正月。
新年の挨拶評定を前に、五郎八郎はお館様の呼び出しを受ける事になった。
一足早く新年の挨拶をすると、寿桂尼はまずは一献と言ってお屠蘇をかわらけに注いだ。
お館様のかわらけにも雪斎禅師のかわらけにもお屠蘇を注ぎ、自分も少しだけ注ぐとまずは喉を潤した。
お屠蘇を飲み終えると、雪斎禅師が唐突に千寿丸君の元服と祝言の準備は順調に進んでいるかと聞いてきた。
兄山城守の遺児千寿丸は今年で十三歳。
五郎八郎が元服した歳である。
他方から誘いを受けており、烏帽子親は岡部左京進にお願いし、婚儀の相手は飯尾豊前守の長女の
暖かくなった三月頃、桜を見ながら元服をし、それから祝言をあげてはどうかと花月院とは話をしている。
「なれば二俣城はもうその者に任せれば良かろう。奥方と何人か家人を連れて駿府に越してまいれ。正式にそなたを側近に取り立てる。雪斎禅師とそなた、義母上、三人でそれがしを支えて欲しいのだ」
お館様はお屠蘇の入った銚子を五郎八郎に差し出し、どうかなと尋ねた。
五郎八郎はかわらけを差し出し、注がれたお屠蘇を飲み干すと平伏し謹んでお受け致しますと述べた。
こうして千寿丸を二俣城代として、五郎八郎は駿府に移り住む事となった。
横見藤四郎、薮田権八、魚松弥次郎といった亡き兄上の家人たちは二俣城に、和田八郎二郎、常葉又六、篠瀬藤三郎は駿府に来る事となった。
福島孫二郎は姓を
女性陣では、花月院は二俣城に、
輿に揺られ駿府城下の屋敷までやってきた菘は籠から降りると早々に嘔吐した。
そういえば菘は乗り物酔いが酷く堀江城から二俣城に来た時もそんな感じであったと、最初はその報告を気にも止めていなかった。
だが翌朝、五郎八郎は八郎二郎からとんでもない報告を受ける事となる。
実は菘は懐妊しているのだそうだ。
五郎八郎が見たのは布団で寝ている姿だったので気付かなかったのだが、実はもうお腹も少し目立つくらいなのだとか。
「何でそんな状態で駿府に連れて来たんだよ! 何かあったらどうするつもりなんだ!」
五郎八郎の怒りに八郎二郎は申し訳ございませんと平謝りであった。
八郎二郎の話では今回の菘の駿府行きを家人は全員で止めたのだそうだ。
出産して
だが菘のたっての希望という事で押し切られてしまった。
花月院と舞の懇願があったらしい。
舞は八郎二郎に嫁いでからは露草と共に菘の侍女をしている。
当然、菘と五郎八郎の仲が上手くいっていない時期の事を知っている。
菘は妊娠で気分が不安定になっていて、また知らない女性を妾として連れて来るのでは無いかと花月院に何度も相談していたのだそうだ。
その都度、花月院はそんなことは無い、前回よく言って聞かせたからと菘をなだめたのだが菘の不安は払拭できなかった。
文を送って懐妊した事だけでも知らせてあげてはと花月院は助言したのだが、お仕事の邪魔をしてはいけないからとそれもしない。
まさか菘を差し置いて花月院が文を送るわけにもいかず。
そんな時に駿府への転居の話が入って来たのだった。
菘は絶対に行くと言って聞かなかった。
駿府でこの子を産むんだと言って。
つまりは菘が無理をしたのは自分のせいであった。
あの時の静との件が原因であった。
そう考えたら誰も責める事はできなかった。
こうなったら無事子供が産まれてくる事を、ただひたすらに祈るのみ。
それから数か月後の事。
大広間では五郎八郎、父上、源信がどこか落ち着かない面持ちで無言で腰を据えている。
そんな三人を前に、家人たちもどうにも落ち着かない様子である。
父上は千寿丸元服の際、千寿丸に兵庫助を名乗らせ、自分は父と同じ山城入道を名乗っている。
五郎八郎と山城入道は、交代で立ったり座ったりを繰り返し、何かあったのではないか、少し遅いのではないかと言い合っている。
それを二人とも少し落ち着かれよと源信が笑ってたしなめている。
そんな雰囲気の中、とたとたと小さな足音が近づいてきた。
「殿! おめでとうございます! 此度の
汗だくになった露草と舞がそう伝えに来たのだった。
待望の嗣子の誕生に五郎八郎以上に山城入道が大興奮している。
山城入道は感極まって、上着を脱ぎ上半身裸になって縁側で雄叫びをあげた。
その状態で誰彼構わず抱き着き、屋敷の下女が次々に悲鳴をあげる。
家人たちも飛んだり跳ねたり叫んだりと、まるでお祭り騒ぎである。
菘の下に向かうと、やっと嫡男が産まれたと言ってほろほろと涙を流していた。
「よく頑張ったね。待望の嫡男だよ。さっき源信和尚に考えて貰って『徳王丸』って名前にしたんだ。どうかな?」
菘は顔を布団で隠して震えている。
非常にか細い声ながら素敵な名前と言う声が聞こえてきた。
布団を無言でぽんぽんと叩くと、恥ずかしそうに菘は顔を見せた。
そこに祝い酒だと言って左手に銚子、右手にかわらけの状態で酒を飲みながら山城入道が現れた。
父上少しは自重くださいと源信にたしなめられながら。
完全に酔っぱらって脱いでいる上半身まで真っ赤に火照った山城入道は、母上に耳を引っ張られてすぐにその場から追い出された。
その日の夜は、駿府城下にすむ今川家中の方々がお祝いの挨拶に訪れて、大広間はまさに大宴会場と化した。
山城入道は近侍として松井惣左衛門尉を連れて来ており、宴会を大いに盛り上げてくれた。
翌日、父の山城入道は少し話があると言って五郎八郎の部屋にやって来た。
山城入道は小姓の弥三に退出するように言うと誰も近づけるなと厳命。
山城入道は昨晩の完全に羽目を外した顔とは打って変わって真面目な顔をして茶をすすった。
「五郎八郎、それがしは近々隠居しようと思う。惣領をそなたに任せようと思うのだ」
今のままではいづれ兵庫助と徳王丸とで二俣城の家督をめぐって争いとなってしまう。
五郎八郎はこれまで兵庫助を嗣子として扱ってきており、ここに来て元服も果たした。
兵庫助も自分が本来の嗣子だという思いは少なからず持っているだろう。
だから兵庫助には堤城を継がせ、二俣城は徳王丸に継がせる。
惣領を五郎八郎に譲ったとなれば、兵庫助も自分は嗣子ではないと諦めがつくであろう。
山城入道の説明を聞き五郎八郎は目を伏せゆっくりとお茶をすすった。
湯飲みを床に置き細く息を吐いた。
「まだ徳王丸は生まれたばかりですよ。この先どうなるかはわかりません。兵庫もそう頻繁に嗣子にされたり外されたりでは気持ちが落ち着かないでしょう」
徳王丸の元服が近づいたら、その時に改めて考えれば良い事。
もしかしたらその頃には松井家の領土は遠江だけでは無いかもれしれないのだから。
「それに、父上にはこれからそれがしの父として、もっと今川家の施策に携わっていただかねばなりません。そんな隠居などと爺むさい事をおっしゃられては困りますよ」
差し当たってこれからは外交方面で動いていただく事になると思うと言うと、山城入道は心労で早死にしてしまうわと大笑いした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます