番外編 清らなる影
夏のことはあまり好きではなかった。7月生まれの癖に暑さに弱いんだねと祖母によく笑われた。小学生の頃は肌が白いのが嫌でたまらなくて、少しでも男らしくなろうと陽射しの中駆けずり回った結果、灼けずに真っ赤になって風呂はさながら釜茹でだった。そういう苦い思い出も夏嫌いの一端をなしている。
日光の白と木漏れ日の黒、モノトーンのコントラストの中跳ね回る同級生を、僕はいつの間にか黒の奥から眺めるようになった。灼くことへのトラウマもあったし、日に日に強く逞しくなっていく人間というものに対する根源的な恐れもあったのだろう。他者はどうしてそうも快活に成長していくのか。子どものころから不思議でならなかった。
しかし、悲しいかな、僕は人間嫌いではなかった。むしろ人が好きで好きでたまらなくて、好意を表現するためか口ばかりが達者になった。恐れを抱えつつ愛する、という高度な芸当を強いられていることを僕は呪いだと思っている。
こうなった原因はわかっていた。小学生のころからプールが苦手だったのも、同世代の猥談に乗れなかったのも、全てそのせいだった。
中学1年の時、年上の好きな人ができて、その気持ちはひた隠しにしていたはずなのに、知らない間に本人に伝わっていた。彼は僕を体育館裏に呼び出して、僕に「男が好きなのか」と訊いた。
口でNOと答えても、僕の態度が雄弁なのは自覚していたから、僕は正直にはい、と答えた。
「そうなんだ」
思いがけない安堵の声色。断わられるのを覚悟していた僕は驚いて彼を見つめた。
彼はふふ、と笑った。
「僕もそうでね、おおっぴらにはしてないんだけど、分かるもんだね。ちょうどいいじゃん、付き合おうよ」
それから始まった憧れの人との日々は、慢性的な地獄の日々だったと言い換えてもいい。
言葉を交わすときも、肌に触れられるときも気持ちは食い違っていた。
僕は先輩が好きで、先輩は男なら誰でもいい。
断れなかった僕が悪いのだ。ちょうどいいじゃん、と言われた段階でこうなることはなんとなく分かっていたのに、僕は拒むことをせず2年間ずるずると爛れた関係を続けてしまった。
先輩が卒業した日、第2ボタンを欲しがる女子達に適当に制服のボタンを全部やると、彼は僕のところに歩いてきて、
「ありがとう、楽しかったよ。……悪かったね」
などと言った。僕はこれ以上心をえぐり取られないように俯いていたっていうのに、悪かったね?僕が先輩のことをどうしようもなく好きであることを先輩は知っている、ことを僕は知っている、でもこんな仕打ちってないんじゃないか。ここで謝ったら、僕の気持ちを弄んでいたことを認めたようなものだろ。瞬間体の血が逆流したようになって彼の頬を殴るために振り上げた手を、気を変えてそのまま彼の胸元の花に伸ばした。
一瞬目を瞑った先輩は(恐らく一発二発は殴られるつもりだったのだろう)、ぱちくりと瞬きをした。
花をひらひらと振って僕は笑った。
「貰っていきますよ、先輩」
彼は我に返って、そんなものでいいのか、と訊いてきた。いまさら何か高価な何かを渡すことで罪滅ぼしをしたと満足させるわけにはいかなかったから、「僕にはこれくらいがお似合いだって、先輩も内心そう思っているんでしょう」と周りには談笑している体で笑顔で言い残し、華やかな別れの場から去った。
急ぎすぎていることは当時から分かっていた。何から何まで、この前まで短パンを履いていた中坊がやることじゃない。
父親は温和で、母親は心配性で優しかった。妹は僕によく懐いていて、環境に原因があったとは思えない。
だから、影から日向を眺めているのも、成熟を急いだのも、僕にもともと備わっていた素因なのだろう、と結論づけた。
本当はわかってる。幼い頃に芽生えた違和感が今や自分の人生を支配していること、その違和感こそが僕の中の何かを歪めたこと。
時折心の中に得体の知れない感情が渦巻いていて、それがともすれば躰を引き裂きかねないほどに膨れ上がり、制御できなくなる。それが大きくなればなるほど、虚無感という揺り戻しがくる。僕は泣きたいんだろうか、笑い出したいんだろうか、それさえもわからないまま、暗がりでただ息をするだけで精一杯になる。
もう誰も好きにならないでおこう。中学を卒業するときそう密かに誓った。何かを期待する恋情なんて苦しいだけだ。見返りのない愛ならともかく。そんな高尚な感情があればよかったけれど。
しかし、その誓いはわずか数カ月で揺らぐことになる。
高校に入ってすぐ、女子に告白された。大きな瞳を潤ませて気持ちを伝えたその人――高槻美織さんの真っ直ぐさと一生懸命さは僕の心を揺らした。女性を愛することができたなら、僕は変われるのではないか。そんな希望も胸に宿った。
彼女は当たりが柔らかく、愛らしかった。髪はさらさらで、睫毛が長くて、近づけば甘い香りがした。十人ノンケの男がいれば九人は好みだと答えるだろう。彼女なら抱きしめたいと思うだろう。僕はそう推測した。そこまではできた。
でも、だめだった。本能が疼かない。先輩の肩に頬を埋めて嗅いだ汗の匂いにはあれだけ簡単に反応した体が、彼女の花のような香りには無関心を貫いた。
「横峯くん、私もっと可愛くなるからね」
美織は僕によくそう言った。
僕が彼女にいつまで経っても欲情しないことに、彼女は薄々気づいていたのだと思う。それを、恐らく自分の魅力の不足のせいだと考えたのだ。
ごめん。そうじゃないんだ。君はそのままで素敵だよ。
彼女は寂しげに微笑んだ。
「うそ。横峯くんは理想が高いのよ。私努力するからね」
紫陽花の季節には、僕らのすれ違いは決定的になっていた。
そして同じ季節に、僕は立花と出会ったのだった。
立花は帰宅部である、ということは同じクラスの誰かがそう話しているのを聞いて、なんとはなしに覚えていた。
僕も帰宅部だったし、帰宅部の人間は珍しかったから。
顔と名前が一致したのは、廊下ですれ違ったとき彼が立花、と呼ばれていたからだ。
切れ長の眼や、ゆっくりめの瞬き、穏やかな曲線を描く唇なんかが印象的だった。
次会った時は声をかけてみようと思い、実際そうした。うるさくしたのは習慣みたいなもので、案の定初対面の人が僕に対してよくする表情を立花もした。
違っていたのはそこから先だった。
彼は「うるせえ奴だな」と、思うだけじゃなく声に出したのだ。僕は思わず「いやぁ」と照れ、「そんなはっきり言われたの初めてでなんか嬉しいなぁ」と返した。ほんとうに嬉しかった。
素直に思ったことを口にする人が好きだったから、今思えば僕はその時点で彼に惹かれていたのだと思う。
あの夏休みが来るまでは、立花と僕は確かに友情関係を築いていた。帰宅部同士一緒に帰って、彼が独学でデザインを学んでいることを知った。演劇部のフライヤーを手がけているらしく、実は僕は手にとったバックナンバーをファイルして保管していたので、そのことを話すと彼は喜んでいた。
僕が帰宅部である理由を聞かれたので、正直に作曲が趣味であることを伝えると、聴かせてほしい、と言ってくれた。音楽プレイヤーを貸して聴いてもらうと、彼は曲が流れている間中じっと目を閉じていた。僕は彼の面立ちをまじまじと見る機会を得て、長い睫毛の影が頬に流れているのを、すらりとした頬の稜線を、きりりと整った口元をぼうっと眺めていた。綺麗な人だ。
ふいに睫毛がふわりと上がって、どきりとした。
「……もう終わりなのか?」
名残惜しそうな響き。最大の賛辞だと思った。
「他にもあるけど……」
「聴きたい」
間髪入れずに立花はそう言った。どきまぎしながら僕は立花の手元にある音楽プレイヤーを操作し、次の曲を流す。彼はまた眼を閉じる。僕はその横顔を見つめる。電車が揺れる。彼の睫毛が少し上下する。目を離せない。
あ、と思った。傾く。落ちていく。
立花がほうっと息を吐く。眼を開ける。僕を見つめる。
長く目を瞑っていたせいか瞳が潤んでいる。
「よかった」
短く彼は言った。その時にはもう、だめだった。恋の始まりなんてあっけないものだ。
夏休みの1日前のことだった。
リピート・サマー はる @mahunna
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★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 15話
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