第20話 一飯之恩

「まさか、魔獣に育てられたって言ったのか?」


 衝撃的な一言に驚きを隠せなかったアッシュを見て、リシュナは少し寂しそうな表情を浮かべた。しかし、アッシュの反応は、決しておかしなものではなかった。夜闇に蔓延る魔獣は、常に血に飢えていて人を襲うものだと、小さな頃から教えられてきたのだから。


「あ、いや、ごめん。そんなつもりじゃ……」


「大丈夫だよ。皆、そういう反応をする。シオンもグラトもそうだったし」


 膝を抱えるようにして座り込むリシュナの姿は、ひどく小さく見えた。


「本当の両親はもういないし、本当の故郷がどこかもわからない。気がついた時には、あたしは森の中で動物たちと一緒にいたの。動物たちはご飯を分けてくれたし、森の主だったフクロウの魔獣――アレラウルは、あたしに言葉と魔力の使い方を教えてくれた。彼は魔獣なんだけど、他の魔獣のような獰猛さがなかったの」


「フクロウの魔獣――アレラウルは言葉を話せるのか?」


「そう。彼は魔獣、動物、人間、すべての言葉を操る森の賢者だった。でも、あたしが教えてもらえたのは、動物と人間の言葉だけ。魔獣の言葉を理解してしまうと、辛いことの方が多いんだってアレラウルは言ってた」


 確かにその通りだろう、とアッシュは思った。アレラウルのような例外もいるのかもしれないが、大抵の魔獣は獰猛で、人に対して害意を持っているのだから。


「そんな感じで、あたしはアレラウルや他の動物たちと楽しく暮らしていた。でも、今から5年くらい前、あたしは人攫ひとさらいに遭った」


「えっ」と、驚くアッシュ。


「真昼間だったから、フクロウの魔獣であるアレラウルはぐっすりと寝ていた。そこへ急に現れた、があたしを攫ったの」


 聖血魔導会だ――リシュナには聞かせたくない話だとシオンが言っていたのはそういう理由だったのか。アッシュはぐっと前のめりになるような姿勢で、リシュナの話を聞いた。


「あたしが居なくなったことに動物たちが気が付くと、すぐにアレラウルを起こしてくれた。でも、彼が来た時には、既に人攫いは倒されていた。あたしは別の人に助けられたの。彼はあたしを優しく撫でて『大丈夫だよ』と言ってくれて、パンを一切れ食べさせてくれた」


 アッシュはあることに気が付き、ハッとした。


「もしかして、その人ってグラトさん?」


「うん、グラトが助けてくれたんだ。そこへアレラウルが飛んできたときが一番緊張したな。恩人同士が一触即発の雰囲気になっちゃったからさ」


 リシュナがにこりと笑って見せた。アッシュも思わず頬が緩む。


「まあ、近くに倒れていた人攫いの姿にアレラウルが気が付いたから、大丈夫だったんだけどね。それで、その後にアレラウルはグラトと少し話をしていた」


「何の話をしていたんだろう」


「あたしには聞こえない声で話していたから、細かいことはわからなかった。でも、そのすぐ後に、アレラウルはあたしに『人間と一緒に暮らしなさい』と言った。最初は嫌だった。人間は怖いし、信用できないから。でも、グラトは信用できると思ったし、賢いアレラウルが言うんだから、それが一番正しいと思ったんだよね」


「それで、グラトと一緒に魔法屋へ?」


「そんな感じ。魔法屋へ行ったらシオンがいて、最悪だった。目つきも口も悪いし、背も高くて怖かった。でも意外といい人でさ、気が付いたら慣れてた」


 リシュナの言葉に深く頷いて応えた。アッシュも、最初はシオンが少し怖かったからだ。でも、付き合っていくうちにわかったが、彼は驚くほどの善人だ。


「あたし、あの時グラトに貰ったパンの味が忘れられない。優しい味。パンは人の優しさを感じられる、大好きな食べ物。あたしはみんなが安心してパンを食べられるように、この仕事をきっちりやり遂げる。ランドの大切な水車小屋を守るんだ」


 そう言って、リシュナは静かに立ち上がり、ランドがテーブルの上に用意していったパンを一口齧った。小さな一口だった。だが、ランドが挽いた小麦粉で焼いたパンはとても優しい味で、口の中いっぱいに広がっていった。





 ――翌日、早朝。


 秋が深まり、冬が始まろうとしていたはずだった。しかし、この日は何かおかしかった。寒く無いどころの話ではない。季節外れの暖かさが訪れていて、まるで春が来たようだったのだ。

 アッシュとリシュナは部屋の隅にあった毛布をかぶって寝入っていたはずだったが、いつの間にか毛布を遠くに蹴飛ばしていた。夜の間に、気温が跳ね上がったのだ。


「おはよ~、起きて朝だよアッシュ。なんか、今朝は寒くないね」


 先に目を覚ましたリシュナが、寝ているアッシュの背中を何の遠慮もなくバンバンと叩いた。文字通り叩き起こされたアッシュは、片目を瞑ったまま気だるげに身体を起こした。


「わかった、わかったから、頭に響くからやめて」


 そう言うと、リシュナは口をとがらせてプイッと顔を横に逸らしてしまった。そして、頬をペチペチと叩いたとき、ほとんど同じタイミングで、アッシュも頬をペチペチと叩いて身体を目覚めさせたのだった。


 その時、バンッと勢いよく扉が開いた。リシュナが条件反射的に毛布を頭から被り、アッシュの視線が素早く扉の方へ向く。

 一夜明けて、ようやくランドが屋敷から帰ってきたのだ。ランドは汗だくで膝に手をつきながら、ぜぇぜぇと呼吸を荒げていた。


「ランド、どうした?」


 尋常でない様子に驚き、アッシュが訊ねる。


「はぁ、すい、はぁ、しゃごやの、はぁ……」


 なかなか呼吸が整わず、アッシュはランドの言葉を上手く聞き取れない。すると、縮こまっていたリシュナが毛布を被ったまま立ち上がり、テーブルの上に置かれた木製のカップに水を注ぎ始めた。そして、毛布を床に引きずりながらランドの元へ近寄り、「はい、お水」と小さく呟いて、カップを手渡した。

 カップを受け取ったランドは、すぐさま水を一気にぐいっと飲み干した。ふぅと息をついて、額の汗を袖で拭いながら顔を上げる。「ありがとう」と、毛布を被って顔を隠すリシュナに礼を言うと、すぐにアッシュの方へ向き直った。


「悪い、領主の説得に時間がかかって朝になっちまった。とりあえず、2人ともオレの友達で、遠くから会いに来てくれたってことで納得してくれた」


「ああ、それはよかった。だけど、何をそんなに焦っていたんだ?」


 そう訊ねた刹那、ランドの顔が一瞬で真っ青になった。


「そう、そうだよ! 水車小屋だ! 家に向かう途中、水車小屋の前を通ったんだが、その時に、小屋の中から何か聞き慣れない物音がしたんだ。確かめようと思ったけど、もし魔獣だったらまずいと思って、2人を呼びに来たんだ」


 ランドの話を聞き、アッシュはすぐに立ち上がった。振り向くと、いつの間にかリシュナはフード付きのローブを羽織っていた。そして、小さく右手を突き出して、親指を上に立てて見せた。


「よし、リシュナも準備OKだ。ランドは水車小屋が見える範囲で、できる限り遠くで待機していてくれ。そして、何かあったとわかったらすぐに逃げるんだ」と、アッシュ。


「わかった。それじゃあ、頼むぞ」と、ランドが言った。


 寝起きの身体に鞭を入れ、アッシュとリシュナは水車小屋へと向かった。





 季節外れの温暖な気候の中を駆け抜け、アッシュとリシュナは水車小屋の前に到着した。冬物の上着の下には汗がじんわりと滲み、アッシュは少し身体に重みを感じていた。一方で、ローブを纏っているリシュナはなぜか平気そうで、のほほんとしている。


「魔力の気配、感じるか?」


 いぶかしげな表情を浮かべたアッシュが、水車小屋の扉を見つめながら言った。だが、リシュナはアッシュの心配なんかお構いなしに、元気よく扉を開けた。


「どーん! ほら、アッシュ。中に魔力なんか感じないよ」


「ちょ、ちょっと待って。もう少し慎重に行かなきゃ!」


 シオンと共に倒した男――聖血魔導会の残党と言っていた、羊丸呑み事件の真犯人。あの魔法使いは、シオンの魔力探知すら掻い潜る技術を持っていた。同じことができる魔法使いや魔獣が、他にもいる可能性は十分にある。

 小屋の中に入っていくリシュナを止めようとしたが、もう遅かった。アッシュがリシュナの細い肩に触れた時には、既に2人は小屋の中に入ってしまっていたのだ。


「ん、何?」


 急に肩に触れてきたアッシュの目を見て、リシュナは怪訝な顔を浮かべた。その時、小屋に備え付けられた巨大な石造りの磨り臼の裏から不審な物音が聞こえた。

 張り詰めた空気感を察知し、リシュナのルビー色の瞳が鋭く光った。いつものほんわかしたリシュナとは別人のような、臨戦態勢時特有のオーラのようなものが放たれて、アッシュは思わず身をこわばらせた。


「何か居るのか……?」


「あたしが確認する。アッシュはフォローを」


 リシュナは目にも止まらぬ速さで魔力の弓を具現化し、同じく魔力で形作った矢をつがえ、引き絞った。いつでも魔力の矢を放てるよう構えながら、ゆっくりと回り込むようにして石臼の裏を覗き込む。

 石臼の裏を見た瞬間、リシュナはギョッとした表情を浮かべた。そして、どうしてか残念そうに目を瞑って、はぁとため息をつき、魔力の弓矢を降ろして消滅させた。


「な、何が居るんだ……?」


 アッシュがそう言うと、リシュナはもう一度大きくため息を吐き出しながら、石臼の裏を指さして「自分で見れば」と投げ捨てるように言った。


 恐る恐る、石臼の裏を覗き込む。そして、アッシュはリシュナがなぜため息をついたのか理解し、手を額に当てて大きくうなだれた。


 そこにいたのは、ガクガクブルブルと震えてしゃがむ、小さな人間の男の子だったのだ。そして、男の子の手には、使い込まれたトンカチが握られていたのだった。

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