後編 その3

 俺は食後にケーキがあることを思い出し、食事ペースを少し落とした。

 今回のケーキは俺と空音ががんばって作ったものだから、腹に余地を残しておいて味わいたかったのだ。

 テーブルの上に並ぶ料理もだいぶすっきりしてきた。

 食べ始めるとあまり喋らない父さんが、天ぷらを頬張っては、幸せそうに頬を緩めている。

 その天ぷらが何を揚げたものなのか、俺の脳内の引き出しにはないものだった。

「父さんが食べているの何天?」

「これはキスの天ぷらだな」

 キスってなんだ……?

「わかった! チューのことだ!」

 隣で自信満々に答える空音。

 俺はというと背中に冷汗を感じ始めていた。空音と思考が一致してしまったことを、周りにばれては兄としての威厳に関わる。

 にやにやする母さんが、

「キスは魚」

 と言うと、

「お魚の天ぷらってこと?」

 空音は目をぱちぱちさせていた。

 なるほど……。

「光紀、キスは何?」

「魚」

 母さんのいやらしい笑みが、俺の純なハートを嘲る。

 さかな、さかなと口ずさむ空音が、はっとして俺のほうを見た。

「おにいはキスしたことないよ! 絶対だよ! だって彼女いたことないし!」

 純粋無垢に「ねっ」と首をかしげる、にこやかな空音。

 可愛い顔でひどいことを言われた。俺はプライドが邪魔をして素直にうなずくわけにもいかなかったので、

「空音も未経験だろ」

 小学四年生の妹に対し謎の張り合いをした。

「うん、まだ」と答えた空音は胸の前で手を組み合わせ、瞳をきらきらさせた。

「ファーストキスはやっぱりロマンチックなのがいいな……! ちょっと暗めのところで肩をぎゅって掴まれてキスしたいんだぁ!」

 すごい夢見がちなことを想像しているようだった。

 まあ所詮は小学生といったところ。

「キスっていうのは、自分と相手の気持ちが高まりきって、思い出の場所とかに待ち合わせして、例えば夜の公園、小さな街灯の下、世界に二人っきりみたいな状況で、心の底からの勇気を出して初めて交わすものなんじゃないか」

「おにいがなんか語り出した! きもい!」

 隣で体を震えさせる空音。

 そこに同調するように、黙って聞いていた母さんが深いため息をついた。

「光紀は夢を見すぎ。思春期真っただ中なの? お酒も飲んでいないのに酔っぱらってるの? 空音は乙女チックで可愛いのになー」

「なぜそこまで言われないといけない……」

「キスに勇気……? 恋愛にそういう側面があることは理解しているけれど私からしたら言語道断ね」

 突如として母さんに謎のエンジンがかかってしまった。

 救いを求めて父さんに目を向けると、

「ママには悲しい子ども時代があったんだ。参考になるかはさておき、すぐ終わるからどうか話を聞いてやってくれな」

 父さんは天ぷらをいったん小皿に戻し、どこか神妙そうに言った。

 親の通った恋路に興味はないけれど、おそらくは若き日に痛ましい失恋でもしたのだろう。

 母さんは背筋を伸ばし、こたつを挟んだ向かいで引きつる俺ときょとんとする空音を見やった。

「いい? キスをするのに勇気ってのは、あまりにも甘っちょろい考え方なの。キスとは、とにかく真っ先にしてしまうものなのよ。最初はそこからで、キスしたことによって急速に互いを意識し始め、心には想いが芽生え、そんなふうにしてようやく勇気を出す段階になるの。あとは絶えず勇気を出し合いながら、二人の関係をじっくり深めていく……ってことだと思うの! ねえそうなんでしょ⁉」

 母さんの強みを帯びた声が耳にエコーを残す。

 その強引すぎる手法に真理を見出すに至った過程が、思いのほか気になった。

「一体何があったんだよ」

「私、せっかくのパーティーを暗くしたくないの……」

「わ、わかった」

 勝手に話し出して、勝手に終了した。本当に何だったんだ。

 空音が動揺していないか不安になり、ちらりと見る。

 その空音はぽんやりと小さく口を開けたまま、天井の隅に目線を向けていた。

 考え事をしている……?

「空音、猫みたいになってるぞ」

「……キス」

「キスの天ぷらならまだ残ってるけど」

「キス……」

「エビフライの最後の一本、食べようかな」

 途端、空音はすごい勢いで俺のほうを見て、

「あたしがもらうのー!」

 がおー、と言わんばかりの威嚇を俺に向けて放った。

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