あき
@koyuki-taira
あき
物ごとに秋ぞ悲しきもみぢつつ
うつろひ行くをかぎりと思へば
いよいよ秋も深まってきたある日のことである。夜明け前から降り続ける陰雨が庭の楓を濡らすさまを漫然と見ながら、
「僕はもう呆けてしまったのだろうか」
「そうかもねえ」
妻は朝食を食卓に運びながら、子どもを遇らうような調子で言った。
「君の声は、実にいい声だ。秋雨に似合うよ。あの楓が歌を歌えるとすれば、きっと君のような声で歌うだろう」
「あら。この間は、君の声は若鮎のように瑞々しい、春の小川によく似合う、なんて言ってたのに」
「そうだったかな」
山上は俯き気味に少しはにかんだ。
「なあんにも覚えてないんだから」
妻は山上の顔を覗き込んで、悪戯っぽく微笑した。今月に入ってからというもの、しばらく塞ぎ込んでいた妻がいつになく快活であるのが嬉しく、山上はひとつ道化を演じようという気分になった。
「でも、君の声の良いことはほんとうだ。僕は第一に、そこに惚れたんだから。それに、声というものには、どこか秋めいたところがあることには相違ない」
「気障ね。いや、お莫迦さんなのかしら。さ、冷めないうちに頂きましょう」
「恥ずかしがるなよ。僕はね、君の声が消えてしまうのをいつも惜しいと思ってるんだ。君がおやすみと言ったあと、僕はそのおやすみの残響を閉じ込めてしまおうと、耳を塞いだこともある。もちろん無駄だったけどね。顔や身体だったら、飽くまでじっと見ていられるだろう? たとえ君が嫌がったとしても、だ。でもね、声ときたらそうじゃないんだ。君が自発的に喋らないと、僕は君の美しい声を聞けないんだよ」
「じゃあ、聞かせてあげないっ」
妻が少女のような無邪気さでそう言ったあと、声を出さずに口だけで、いただきます、と言い、焼き魚に箸をつけ、朝食を食べ始めたので、山上もわざとらしく不服そうな顔をして食事を始めた。食卓のしじまに、雨の音が遠く聞こえる。僕は仕合わせだよと、山上は独り言のように呟いた。
先日定年退職を迎えた山上は、自分の人生に飽きていた。高校を卒業して、大学には行かずに働き始めた彼の人生は、ほとんど仕事の人生であったと言える。これといった趣味もない山上は、退職後は、読書家の妻から借りて古今東西の名著を読んでは暇を潰していたのだが、決して愉しくはなかった。妻のお気に入りの『山月記』を読んだときには、「今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ」という台詞に気が滅入ってしまった。
少年時代の山上は、画家を志していた。小さい頃から虚弱だった彼は、絵を描くことに慰めを見出していたのである。それは振り返ってみれば、かつて自分自身が画家を目指していた母親の影響によるものだった。両親の似顔絵や、当時飼っていた犬の絵などを描いていた頃には、両親も彼の絵を褒めてくれたのだが、ある一枚の絵をきっかけに、両親は彼が絵を描くことをよく思わなくなった。それは、火事になった実家の中でもがき苦しむ両親を描いた絵であった。もちろん現実には実家は焼けてなどいないし、山上少年がそれを願ったわけでもない。だが、彼の両親はこれを重く捉え、悪の萌芽を摘み取るようにして、彼から絵筆を奪い取ったのである。それでも母は同情的な方で、息子を不憫に思ったのか、父に隠れて彼に画材を買い与えた。山上少年は、父の不在を見計らって、思うままに絵を描いた。何か自分が悪いことをしているという罪の意識や父への反抗心によって、絵に対する彼の情熱はいっそう滾ることになった。彼が焼ける実家を描いたことは、言ってしまえば単なる偶然の悪戯であった。しかし、それによって一度絵筆を奪われた少年は、取り戻した絵筆によって死や苦悶を描くことが自らの使命であると思い込み、小鳥の死骸を拾ってきて真夏の庭の片隅に放置し、それをモデルにして九相図のごときものを描いたりもした。
しかし、秘密はいずれ露顕してしまうものである。ある日、彼が絵を描いているということが父親に発覚してしまった。当時すでに山上少年は中学生になっていたが、やはりまだ大人の男に腕力で勝つことはできない。ひどく打擲された少年は、父が自分の描いた絵を火中するところを見せつけられた。
息子の裏切りを知った怒りの矛先は母親の方へも向けられ、それ以来、夫婦仲は次第に悪化してゆき、山上少年が高校生の頃、両親は離婚した。彼は母と共に、新潟にある母の実家へと引っ越した。母はしきりに、お前のせいではないんだよ、と言っていたが、少年にはどうもその言葉が信じられなかった。
父の検閲を逃れたのであるから、描きたいものを自由に描ける悦びが湧いてくるはずだった。母も、なんでも好きなものを好きなだけ描きなさいと、新たに画材を揃えてくれたのだが、少年はどうも気が進まなかった。当時は、彼自身そのわけが分からなかった。エディプス的な欲望が彼の創作欲のすべてであったのだと、もっともらしい理屈を立てはみたものの、彼はそれに現実味を感じることができなかった。
買い揃えた画材には一切手をつけず、日がな一日怠けてばかりいるうちに、母の仮面は徐々にひび割れ、本性が垣間見えるようになった。かつては息子の最大の庇護者であったはずの母は、一向に絵を描こうとしない息子に対する鬱憤と幻滅とを募らせ、彼に対して日毎に強く当たるようになっていったのである。このようにして、はじめは桃源郷に思われた新潟の実家も、暗雲漂う泥沼のごとき様相を呈するようになった。母親にとって、息子は自分の世界を構成するひとつの歯車、あるいは自分の思い通りに動かすことのできる傀儡のごときものだったのである。
「どうして絵を描きたくないの」
母はしばしば責めるような口調で言った。
「別に描かなくたっていいだろ」
どうして描きたいと思わないのかを知りたいのは、むしろ少年の方であった。
「せっかく新潟まで来たのに、そんなわがまま言わないでちょうだい」
「俺のせいで離婚したって言いたいのかよ」
「もう、莫迦なこと言わないの」
大人はいつも綺麗事で子どもを宥めようとする。青年期に典型的な反権威主義的気質を身につけていた少年にとって、母のこうした利己主義は胸糞が悪かった。お前のせいではないんだよと言っていたではないか。あれは嘘だったのか。少年には、子どものやりたいことをやらせたいという陳腐な教育方針の欺瞞が暴かれたように思われた。あれは、子どものやりたいことであればなんでも応援するという意味ではない。やりたいと思う価値のあるものは何で、やりたいと思うべきではないものは何か、ということは依然として親が決めているではないか。結局のところ、子どもには本人がやりたいと思うことをやらせてあげたいなどと得意な顔でいう「立派な」親たちも、終日部屋に籠って惰眠を貪るような懶惰な子どもを認めはしないのである。
「もしもーし」朝食を終えた妻が口の横に手を添えて、山上に呼びかけた。「呆けちゃったの?」
「ああ。ごめん。ちょっと昔のことを思い出していてね」
「もう、ほんとにおじいちゃんみたい。お年寄りは昔のことを思い出してばっかりって、ほんとうなのね。で、どんなことを思い出してたの?」
「新潟に引っ越してきたときのことだよ」
山上は、彼女と結婚してからもしばらくは、自分がかつて画家を志していたことや両親が自分のために離婚したことなどを、妻には話したことがなかった。妻の方も、夫の両親が離婚したわけを詮索するほど野暮で無神経ではなかったため、両親が離婚して母方の実家に引っ越してきたという事実だけで踏みとどまり、それ以上夫の過去にあえて闖入しはしなかったのである。
「僕はね、運命というものを信じている」
「さっきまで廃人みたいにぼうっとしてたかと思えば、今度は詩人みたいなこと言って」妻はくすくすと笑った。「運命がなあに? それが新潟と関係あるの?」
「いやいや、詩人ならこんなこと恥ずかしくて言えないよ。君とは新潟で出会っただろう。僕はそれを運命と言ってるんだ」
「もう、莫迦なこと言わないの」
山上は、妻のこの言葉にも運命じみたものを感じた。
「でもね、私も運命を信じてるわよ」
妻は真剣な顔で言った。
山上は新潟の高校を卒業したのち、松風園という当時できたばかりの老人ホームで働き始めた。当時は大学へ進学するひとも少なかったし、画家になる夢はすでに諦めていたので、彼が卒業後に社会人として働き始めることはいたって自然な成り行きであった。老人ホームで働くことを選んだのは、彼が忙殺されることを望んだからである。母との関係はあれ以来悪化の一途を辿り、ほとんど口もきかなくなっていた。とはいえ、それが平気に思えるほど、当時の山上は大人にはなっていなかったのである。老人ホームの業務は身体的にも精神的にも過酷であるということは仄聞していたため、家での孤独や寂しさを塗り潰すことができるかもしれないと踏んだのであったが、あるいは、当人の預かり知らぬところで、あの死や苦悶への憧憬が彼を導いたのかもしれなかった。
山上が彼女と出会ったのは、その老人ホームにおいてであった。彼女は職場の先輩で、介護について何も知らなかった山上に、介護に携わる者としての心構えから、日々の細かな業務のことまで、手取り足取り教えた。
「ねえ、私の話、ちゃんと聞いてた?」
「すみません。声を聴いていました」
というやりとりが、たびたび繰り返された。一耳惚(ひとみみぼ)れだった。ひととの関わりに飢えていただけかもしれないが、山上にとって、彼女との毎日は仕合わせそのものであった。彼女の方も、声を聴いていました、と言われて厭な気はせず、むしろ素直にそう告白する山上に好感を持った。
「午後から晴れるみたいよ」
朝食の食器を台所の流しへ持っていきながら、妻は山上に言った。
「男心と秋の空はなんとやら、だな」
「女心じゃなくって?」
「君はもう僕のことが好きじゃなくなったの?」
「そんなこと言ってるんじゃないの。分かってるくせに。じゃあ、あなたは私のことが好きじゃなくなったの?」
妻は蛇口を捻り、水が温かくなるのを待ちながら言った。
「食器は僕が洗うからね」
山上は、よいしょ、と言って立ち上がり、流しの方へと歩いていった。幸いにも妻はこれを聞き逃したようで、今度は「おじいちゃん」と揶揄されなかった。それを狙って言ったわけではなかったものの、山上はそれを少し寂しく感じた。
「午後は一緒にどこかへ出かける?」
「私はうちで本を読むから、ひとりで行ってきたら?」妻は間髪を容れずに答えた。「じゃあ、あとはよろしくね」
そう言って自室へと向かう妻の背中に、山上は、
「僕の心は変わってないよ」
と言った。妻は振り返ることなく、ただ右手を軽く振って部屋へと消えた。
妻の言った通り、午後の空はまるで秋雨に洗われたかのように清らかで瑞々しく冴え渡っていた。日差しは強く、庭の草葉や梢に結ばれた水滴に降り注ぐ秋陽は跳ねるように燦爛と輝き、山上はその宝石のような美しさに打たれた。このような日に家に籠っていることはなんだか罪な気がして、山上は外套を羽織って外出した。とはいえ、特に行くあてもなかったので、彼は駅の方向に向かって逍遥した。
約三キロ先の最寄駅に着くころには、山上の脇や背中は汗ばんでいた。秋風は冷たいが、日差しはやはり強く、彼は厚い外套を羽織ってきたことを後悔していた。「おじいちゃん」になってなお、その日の気候に合った恰好をすることができないのである。
山上は少し休憩しようと、駅前のカフェに入った。休日にはたいてい満席なのだが、今日は平日ということもあり、店内はわりあい空いている。レジの前には、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に描かれているような大きなテーブルが設られており、そこに合計で十脚ほどの椅子が並んでいる。一組の若いカップルを除いて他は一人客のようで、座席をひとつずつ空けて座っている。山上はアイスコーヒ―を注文した。彼も両脇の空いた座席に座りたかったのだが、そういう座席はもう残っていなかったので、仕方なく客と客の間の空席へ腰掛けた。右隣には彼と同年代かそれよりすこし歳上に見える女性、左隣には四十歳くらいの女性が座っていた。次に正面をちらと見ると、そこには二十歳くらいの若い女性が座っており、山上は周りに女性ばかりが座っていることに一瞬どきりとして、辺りを見回した。特に「女性専用席」などという掲示は見当たらない。それに、テーブルの右端に男女のカップルも座っていることであるから、きっと自分が座っていても問題はないだろうと、彼は考えた。それでも、なんだか申し訳ないという気持ちは拭えず、少しだけ背中を丸めて自分の身体を小さく見せようとした。
休憩のためにカフェに入ったというのに、山上の精神はかえって摩耗した。さっさとコーヒーを飲んでしまって家に帰ろうと、彼はストローを脇によけてグラスをぐいと傾けたのだが、ちょうどその時、彼の眼には若い女性の姿が再び映った。山上はグラスを置いてなお、その女性から目が離せなかった。彼女は暗めの茶髪をうなじのあたりで一つに結っている。A4の大きなノートと参考書を広げ、何かの勉強をしているようだ。俯いているためはっきりとは見えないのだが、わずかに覗く肌は絹ごし豆腐のように滑らかで瑞々しい。右手に置いてある電卓の上で踊る指は、さながら象牙でできているようにきめ細やかで美しく、それでいてすぐに壊れてしまいそうな脆弱性をも香らせていた。山上は自分の指を見下ろした。指は短く皮がぶよぶよしていて乾燥しており、爪には何本もの縦線が入っている。指の関節のところには深い皺が幾重にも刻まれており、たいへん不細工である。彼は、自分の手は枯れた楓の葉だと思った。私の人生もその秋を終えようとしているのだろうか、などと考えていると、正面の彼女が大きなノートを持ち上げ、首を傾げながらページを捲り、あるページをじっと見たあと、ふっと軽く息を吐き、ノートを倒した。その風が山上の顔を優しく撫でた。声を聴きたい。そう山上は思った。
老人ホームで働き始めて二年ほどが経ったある日、山上は父の訃報を聞いた。膵臓癌だった。数週間前に危篤の知らせは聞いていたのだが、死の床で顔を合わせるのはなんだかお互いにとって良くないことであるような気がして、母の度重なる催促をも無視して一度も会いに行かなかったのである。行くべきだったのか、それとも行かずに正解だったのか、山上にはいまだに答えが分からない。自分が顔を出したなら、父は何と言っただろうか。棺の中で眠り、決してものを言わない父を見下ろしながら、山上は考えた。しかし、どれだけ考えても、お互いに後顧の憂いの残らないようなやり取りは交わせなかったのではないか、という思いだけが濃くなった。自分は父に何を期待しているのだろう? 父は自分に何を期待しているのだろう? そして相手の期待を悟ったとき、自分はその期待に応えて相手の望む言葉をかけるべきなのだろうか? 自分にこのような底心がある時点で、何を言っても嘘になってしまうのではないか? いつまでたっても答えはでなかった。
一週間の忌引きの間、山上は自宅に籠ってこのようにぐるぐると悩乱していた。そのとき彼はすでに実家を出て一人暮らしをしていたのだが、彼がそうして塞ぎ込んでいる間に彼の身の回りの世話をしてくれたのが、現在の妻だったのである。彼女は毎日仕事終わりに彼の家にやってきては、その日職場で起こった珍事件などを語って聞かせた。利用者の頭になぜか入れ歯が乗っていたことや、老人ホームのマドンナを巡る泥沼の恋愛関係などについて聞いている間は、不思議と山上の心も朗らかになった。
「ねえ、僕たちって付き合ってるのかな」
仕事に復帰して数日が経った頃、山上は彼女に尋ねた。いつの間にか、山上は敬語で話すことをやめていた。
「違うの?」
山上の言葉がいつから敬語になったのかが分からないように、二人がいつの間に親密になっていたのかは、本人にも分からない。知らず知らずのうちに、二人は自然と恋人関係になっていたのである。
二人が結婚をしたのも、それと同じような具合で、そろそろ結婚するかい、そうねえ、というように、あたかもハマチがブリになるように、眼には見えない自然の摂理に導かれた必然的な帰結のようであった。「運命」などという仰々しい言葉が山上の口を突いて出たのも、あるいはこうした経緯が彼の念頭にあったからなのかもしれない。
「おかわりはいかがですか」
カフェの店員の声掛けによって、山上は追憶から閉め出された。ここに妻がいたなら、また揶揄われていただろうと、秘かに苦笑して、
「ありがとうございます。でも、もう出ますから」
と言って断った。彼は、おかわりを注文せずに、空のグラスの前でいつまでもぼうっとしている自分は迷惑な客だったのかもしれない、と思った。
グラスと外套を持って立ち上がり、ふと正面を見ると、例の若い女性は消えていた。ついぞ彼女の声を耳にすることはできなかったわけだが、山上は、かえってそれでよかったのかもしれないと思った。
グラスを返却し店を出ようとしたとき、ドアの向こうにベビーカーを押してこちらへやってくる女性が見えたので、山上はドアを開けて待った。
「すみません」
女性は軽く会釈をしながら言った。ベビーカーの中の赤ん坊が山上の目を凝然と見据えている。
「いえいえ」
こういうときには「ありがとうございます」の方が適切なのではないか、などと考えながら、彼は店を出た。
外はいつの間にか斜陽に染まっていた。無数の椋鳥が千変万化する隊列を成して空を飛び回っている。その一瞬を切り取れば、それはまるで夕景に散らしたゴマのように見えることだろう。また、電線に留まった千鳥の啼き声は、まるで自動車の急ブレーキのように聞こえた。一陣の冷たい風に身震いして、山上は外套の襟を立てた。
家に向かって歩きながら、山上はあの赤ん坊の両眼が忘れられずにいた。
結婚して数年が経ったある冬の日のことである。あらかた夕食を食べ終え、二人で炬燵に入ってテレビを見ながらお酒を飲んでいるとき、何の脈絡もなく、妻が、
「そろそろ子どもを作るかい」
と、山上の「プロポーズ」を真似して言った。当時彼女は二十六歳で、ひょっとすると彼女の両親にもいろいろ言われていたのかもしれない。口元まで持ち上げていたお猪口を炬燵の上に置いて、
「そうねえ」
と、山上も彼女の言葉を真似て言った。しかし、それが承諾ではなく逡巡の言葉であることは妻にも伝わったようで、
「嫌なの?」
と、彼女は呆気にとられたように言った。
山上はそのとき初めて、自分の両親の話を妻に打ち明けた。自分の両親が自分のために離婚をしたこと、ファリックな母親は自分の存在を愛してはくれなかったこと、そしてそうした経験によって、自分が子どもを持つということに前向きにはなれないということを、今振り返ればおそらくは幾分の誇張や被害妄想も含まれていたように思われるが、当時の彼としては、心のうちをそのまま彼女に曝け出した気持ちであった。
「でも、そういう経験があるからこそ、あなたはいいお父さんになれるはずよ」
「そんな単純な話ではないんだよ。親になるというのは、子犬を買うのとはわけが違うんだ。ひとがひとを産んで育てることなんて、そもそも無理なことなのかもしれない」
「そりゃ、子犬と子どもは違うでしょう。私たちで子どもを世界一仕合わせにして、ゆくゆくは立派な人間に育てるの」
「うん。やっぱり、君は分かってないと思う。仕合わせだとか立派だとか、そういう親の理想が子どもを苦しめることだってあるんだよ。それに、生まれた子どもには存在する義務が生まれるんだ。偶然がどんなに意地悪をしても、その子は生きなきゃいけないんだよ。君はちゃんと考えたのかい?」山上は早口で捲し立てた。「僕はね、生まれなきゃ良かったって、何度思ったか知れない」
そう言い終わると、彼は急に黙って、お猪口のお酒をぐいと呑み干した。妻とは目が合わせられなかった。沈黙が痛かった。
彼が徳利からお猪口にお酒を注ぐと、妻は、ダンという音を立てて炬燵に両手をつき立ち上がった。目は涙で曇り、鼻はひくひくしていた。
「でも、子どもが欲しいの」弱々しく震える声で彼女は言った。その声は、幽かな鈴の音のように美しく響いた。「私には子どもを産む権利もないの? 仕合わせになる権利は?」
お酒をまたぐいと呑み干して、空になったお猪口を人差し指と親指でくるくると弄びながら、
「もちろん、誰だって仕合わせになる権利はあるさ。でも、この世にはいろんな仕合わせがあることを忘れちゃいけない。子どもがいなくたって、僕たちはきっといつまでも仕合わせにやっていけるんだ」
と、諭すように、しかしそれでいてできるだけ説教くさくならないように注意して言った。
妻は涙を拭い、炬燵に入って言った。
「それでも、子どもがいないっていう不仕合せはきっと、いつまでもついてくるわよ。お友達の子どもの七五三だとか、入学、卒業、就職、そういうのを見るたびに、生まれなかった子どものことを思い出して、私たちの胸はずきずき痛むのよ」
「それは決めつけだよ。洗脳と言ってもいい。子どもがいなくたって、それで不仕合せが宿命づけられるわけじゃないだろう。それとも、あれかい。君は僕だけじゃ不満なのかい?」
「それとこれとは話が別よ」妻は語気を強めて言った。「あなただって、いつかおじいさんになって、あのとき子どもを産んでいればって思うはずよ。子どもや孫に囲まれてるお友達を見て、自分の寂しさが身に沁みるはずよ」
「そんな恐ろしい予言はよしてくれよ。僕はね、君がいさえすればいいんだよ。それだけできっと仕合わせなんだ」
「自分のことしか考えてないのね」
「自分のことしか考えてないのはどっちなんだ」一度は自制心を働かせ、妻の怒りを鎮めようと努めて穏やかに話していた山上であったが、醺然と酔っ払ってきたせいもあり、彼の語気もいつの間にか強くなっていた。「自分が仕合わせになりたいから、周りと比較して惨めな気持ちになりたくないから。自分、自分、全部自分じゃないか」
妻は背骨が抜かれたようにぐったりとして、囁くように言った。
「いいわよ。じゃあ、私はあなたのために生きてあげる」ゆっくりと顔を上げ、お猪口を呑み干して、二、三度咳をした。そして一度深く呼吸をしたあと、彼の目を見据えて、「忘れないでね」と言った。
──鼻先に雨の雫があたり、山上は空がいつの間にか暗雲に呑まれていたことに気づいた。女心と秋の空。彼はそう呟きながら外套に頭を入れて、家までの百メートルほどを小走りで急いだ。
「ただいまあ」
玄関で外套を脱ぎながら、山上は言った。
しかし、普段はすぐに返ってくるはずの返事がない。
「帰ってきたよ」
靴を脱いで家にあがり、リビングのドアを開けながらもう一度言った。電気は消えていて、リビングは薄闇に包まれていた。耳を澄ますが、聞こえてくるのは淅瀝と降り頻る雨の声だけである。部屋で寝ているのだろうかと考え、山上は妻の部屋のドアを開けた。すると──
山上の目の前には、縊死した妻の死体が浮かんでいた。
*
病室の窓から風に吹かれる楓を眺めながら、山上は思い出そうとしていた──妻の声を、妻があのとき言ったことを、妻の最期の言葉を、そして妻の名前を。秋が深まるにつれて、彼がこうやって頭を働かせることのできる時間も日に日に短くなっている。彼は、自分に残された時間が僅かであることを悟っていた。彼にはもはや、自分が仕合わせなのか不仕合せなのか、それすら分からなかった。いや、正確に言えば、そんなことどうでもよかったのだ。
「おじいちゃん」
山上は声のする方を振り返った。同部屋の老人を、彼の子どもや孫が囲んでいる。老人はベッドから起き上がり、嬉しそうに話し始めた。
山上は、再び窓の外をぼうっと眺めた。
あき @koyuki-taira
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