(11)賢人と月

 パーシー・アダムス医師は、鞄からワーロック伯爵デニス・オールドリッチ氏の指輪が出てきた事で、さすがに観念したように見えた。裏通りの古い石段に座り込んで、それまでの落ち着いた紳士の態度はなりを潜め、オドオドしてアーネットの反応を待っている。

「アダムスさん。指輪を盗んだ事を認めますね」

 ナタリーもブルーも、まさかここで食い下がる事はないだろうと思った。晴れて事件は解決、また退屈な日々に戻るのであろう、と。


 しかし。


「私は盗んでなどいない。そんな指輪が鞄に入っていた事など、今まで知らなかった」


 そう、まさかの返答が返ってきたのだった。ここまで見苦しいと、もう尊敬していいのではないかとブルーは思った。アーネットが諭すように言う。

「アダムスさん。もう、これ以上は意味がないですよ。病室でも言いましたが、まだ示談で済む可能性はあるんです。ワーロック伯爵邸は出入り禁止になるでしょうけどね」

 もう、おとなしくワーロック伯爵立ち会いのもとで全てを白状して、楽になってはどうか。アーネットはそう言った。

 ここで、ブルーが口を挟んだ。

「こいつ、どうする?病室を抜け出した件、ひょっとしたらもう病院で騒ぎになってるかもよ」

「まあ、この男もそれを防ぐために夜中に抜け出したんだ。今しばらくは大丈夫だろう。しかし、バレるのも時間の問題ではあるだろうな」

 アーネットは頭を掻いた。ワーロック伯爵は、指輪の件が表沙汰にならないで欲しいと言っているのだ。

「アダムスさん。あんた、俺達が病棟の下のベンチで会話してた話を聞いてたな」

 いよいよ、アーネットの口調もつっけんどんになってきた。

「残念だが、ありゃ全部ウソだ。伯爵は真の財宝が別などこかにあるなんて、一言も言ってない。あんたを引っかけるために、わざわざ聞こえるように嘘を言ったんだ」

「なに!?」

 声を上げたのは、アダムスでなくブルーである。

「そんな話を仄めかせば、あんたが何らかの動きを見せると思ったんだ。入院中に動く可能性は低いとは思ったが、予測不可能な行動を取る可能性もある。今夜から張り込んでいて正解だったぜ」

「なんで僕にもウソついたの!?」

 またしても抗議の主はブルーである。

「そりゃ、あれだ。敵を騙すにはまず味方から、ってやつだ」

「とんでもねー刑事だ」

 ブルーを無視して、アーネットはアダムスを向いた。

「アダムスさん。これは俺の予想なんだが、あんた今夜中に誰かと連絡を取るつもりだっただろう」

「えっ!?」

 目に見えるほどギクリと動く人間も珍しい、とブルーは思った。

「俺が言った財宝があるというポイントを、調査させるためにな。そして、再び今夜中に病室に戻る予定だったはずだ。あんたは昔、国立病院で勤務していた。あの病院の、24時間出入りできる職員用のドアは熟知している」

「そ、そ、そ、そんな事は…」

「朝になって、入院患者がいなくなっていれば騒ぎになる。それは避けたかった筈だ。このホテルは小さいが、個室に電話がついている。盗掘業者か誰かは知らないが、こっそり呼び出して話をつけるには最適だ」

 なんでそんなにホテルに詳しいのか、ブルーは聞かない事にした。ナタリーが険しい顔をしている。触らぬ神に祟りなしだ。

「仮にあの指輪がないと財宝が手に入らないとすれば、指輪が自分のもとにある限り、俺達には手出しができない。前もってお膳立てをしておいて、俺達を出し抜く形で財宝をせしめてしまおう。あんたが考えていた計画は、そんな所かな」

 そんな所も何も、完璧にアーネットの推理どおりだったようで、アダムスは今度こそ観念したらしかった。


 ただ、アーネットの予想外だったのは、アダムスは保険をかけて国立病院の当直医に催眠をかけ、自分のフリをさせてベッドに寝かせて来た、という自白であった。そんなに簡単に、人は催眠にかかってしまうものなのか。自分が診察している入院患者に催眠をかけられる医者というのも、どんなものだろう。

 アーネットが頭を悩ませているのは、アダムスの身柄をどうするべきかだった。警察は指輪に関する秘密は保持できるが、仮に拘置所に入れたら、拘置所に入ったという事実だけは隠す事はできなくなる。

「やむを得ない」

 アーネットは思い付いた対策をブルーに指示して、アダムスを拘束したまま、当の国立病院に戻る事にした。



 その数十分後、国立病院の入院病棟。一人の医師が、廊下を歩いていた。

「あら、ちょっと先生!さっきからどこに行ったのか、みんなで探してたんですよ」

 一人の看護婦が駆け寄ってきた。

「いや、すまん。ちょっと気分が優れなくて、夜風に当たってたんだ」

「外に出られたなら教えてくださいまし。患者に緊急の事があったらどうするんです」

 

 そのやり取りを、廊下の向こうで観察している人影があった。ブルーとナタリーである。

 ブルーはアーネットの指示で、アダムスの代わりに寝かされていた医師に催眠の魔法をかけ、記憶を何もなかった事にしたのだ。やっている事はアダムス医師と同じであり、上にバレたら始末書では済まない。ブルーは「責任はアーネット」「僕は指示されただけだよ」などと10回くらい念押ししたのち、ようやく取り掛かったのだった。

 そしてアダムスは、元通り病室のベッドに夜のうちに戻された。事件を表沙汰にせず、後日ワーロック伯爵に身柄を直接引き渡して、伯爵の判断を仰ぐためである。

「逃げようとしても無駄だよ。いま、完全追跡魔法をかけたからね。地球のどこに隠れようが秒で居場所は特定できる。事件が終わった時に解除してあげるから、それまではこっちの言う通りにするんだよ」

 空恐ろしい事を簡単に言われて、アダムス氏は目の前の少年に逆らうべきではない事を学習したようだった。もはや、どっちが犯罪者かわからない。

「規則違反のバーゲンセールだわ」

 ナタリーは、これで全員懲戒免職になったら3人で探偵事務所でも開くか、などと考えていた。




 それから何日かしてパーシー・アダムス氏は退院し、魔法捜査課の保護のもとワーロック伯爵デニス・オールドリッチ氏の邸宅を訪れた。のちに同氏が述懐する所によれば、正門をくぐる瞬間は、西の大陸で従軍していて砲撃音を聞いた時の百倍胃が痛かったらしい。

 

 アダムス氏は、少し広い応接間に通された。左右をアーネットとブルーに挟まれながら重厚なドアを開けると、すでにワーロック伯爵が椅子に座っていた。表情は穏やかそのものである。

「やあ、アダムス先生。回復されたようで何よりです」

 その伯爵の出迎えは、まったくもって予期せぬものであった。伯爵がメイドに手で退出するように指示するとドアが閉じられ、部屋には伯爵とアダムス氏、アーネットとブルーだけが残された。ナタリーは何かあった時のため、邸宅の執事やメイドと共に廊下で警戒に当たっていた。


 伯爵に勧められ、アダムス氏は正面の椅子に座った。

「全てを聞きました」

 オールドリッチ氏はあっさりしたものである。

「品物は…いや、先生には今さらぼかす必要もありませんな。指輪は先日、確かに魔法捜査課より当方に返却され、再び金庫に保管されました」

「は、はあ…」

 やっと声を発したアダムス氏の額には、脂汗が大量ににじんでいた。焦ると本当にこうなんだな、とブルーは思ったものである。

「これはいつもの診療室から発見された、ペンダントのような品物です。私のものではありません」

 そう言って伯爵が取り出したものは、細いチェーンに水晶のトップがついた、ペンダントのようなものだった。アダムス氏は口を真一文字に結んで、目を丸くして驚いた。

「出入りの業者に訊いたところ、ペンデュラムと呼ばれる占いや催眠術に使われるものだそうですな。いや、私は全く記憶にないが、これを用いて私は催眠にかけられていたのでしょう。まあ正直なところを申しますと、やはり残念です。あなたの事は医師として5年ほど信頼しておりましたので」

 アダムス氏は、胃が締め付けられるような思いでそれを聞いていた。本当に誰かが胃を締め付けているようにさえ感じられた。ペンデュラムをいつ落としたのか。そういえば、最後に訪れた日に鞄をひっくり返しかけた。あの時だ。

「色々考えました。この事態を、どのように収めれば良いのかを。しかし、全てを表ざたの事件にしてしまえば、当家に伝わる宝物の存在を、少なくとも今よりは多くの人間に知られる事になってしまう。それは困ります」

「はい…」

 言葉らしい言葉を言う余裕は、今のアダムス氏にはなかった。ただ黙って、オールドリッチ氏の言葉を待っていた。

「そこでです」

 オールドリッチ氏はひと呼吸置いて、誰もが全く予想もしなかった提案をした。


「私はあなたを許そうと思っております」


 アダムス氏は、何が起きたのかよくわかっていなかった。そして、アダムス氏と同じくらい、ブルーも伯爵が何を言っているのか、わからなかった。

 許す?いま、許す、と言ったのか。聞き間違いではないのか。医者に耳を診てもらうべきだろうか。


「まだ飲み込めておられないようですが、私にはアダムス先生、あなたを許す用意があります。示談ではありません」

「そ、そ、それは…本気で仰っておられられるので??」

 あまりの衝撃に、アダムス氏は呂律がきちんと回っていなかった。

「本気です。何故なら、それが物事を、誰にも迷惑をかけず、当家にも何の影響もなく収める、唯一の方法だからです。それ以外に何か方法があるのなら、拝聴しましょう」

 その選択に、アーネットは敬服していた。この人は本物の貴族だ。権威や権力をかさに着て横暴に振舞うような、名ばかりの貴族ではない。真の度量を持った人間だ。本来、貴族の称号とはこういう人に与えられるべきものなのだ。

「で、では、私はこれからどうしろと…どうすればいいと仰るのでしょうか」

「決まっているではありませんか。今まで通り、定期的に訪問診療してください」

 ただし催眠術は勘弁してくださいよ、と伯爵は笑ってみせた。

「伯爵…私は何という事を…」

 アダムス氏は落涙しながら、自分の罪を床に跪いて悔い始めた。ワーロック伯爵は椅子を一歩も立たず、ただそれを聞いていた。

 ブルーは、全く理解できないという顔でアーネットを見た。アーネットは、いつになく真剣な顔をしている。


 伯爵の提案は、以下のようなものだった。まず、パーシー・アダムス医師の一連の行動は全てを不問とする。ただしアダムス氏は、指輪の存在を決して誰にも口外しないこと。もし今回の件で当家以外に迷惑をかけた人物がいたなら、その人に謝罪すること。そして、ギャンブルから足を洗うこと。これが条件だった。訪問診療の代金は今までどおり支払うという。

 アダムス氏の表情は、それまでのどこか裏があるようなベールが消えて、真人間のそれになっていた。たぶん、約束は守るだろう。アーネットはそう思った。


「わけわかんない」

 食堂に通されてアーネット、ナタリーとともに席についたブルーは、憮然として腕組みしていた。

「あんなやつ、ボロカス言われて泣く泣くこの邸宅を出て行くべきだったんじゃない?それを許すとか、ちょっと信じられない」

 ブルーの言う事は、感情面から見ればもっともではある。それに、あの医師に数日間振り回された苦労は何だったのか、という気持ちもあった。

 だが、アーネットとナタリーは伯爵の選択を理解していた。許す、という行為は多くの物事を解決できる最大の方法なのだが、その許すという事が何よりも難しいのが、人間という生き物である。それを選択できるワーロック伯爵は、伯爵の称号に恥じぬ人物であった。

「ブルー、今は理解できなくてもいい。その感情は大事にしろ。5年経って、10年経って、今日の出来事を振り返った時にどう思うか、それが大事なんだ」

 アーネットの言葉にナタリーも頷く。

「まあ、あなたの気持ちもわかるけど。この何日か、大変だったものね」

「そうだよ。やっとこさ捕まえた犯人が無罪放免なんて、あり?」

「無罪なんて事はないわよ。あの医師は、心の重荷をこれから抱えて生きて行かなきゃならないの。他人を許す事より、自分を許す事の方が難しいものよ」

 それでも、殺人を犯すよりは何十倍もましだろう、とナタリーは言った。


 ブルーがまだ納得できていないところへ、ワーロック伯爵が現れた。

「皆さん、お待たせしました。本当にご苦労様でした」

 席に着いた伯爵はそう言って三人を労った。

「ティム・サックウェル枢機卿より下賜された指輪は、皆様のおかげで無事、戻ってきました。本当に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました」

「我々は、職務を果たしたのみです。伯爵よりそう言っていただけるのは、光栄です」

 アーネットの受け答えも堂々としたものである。

「アダムス医師は、先程お帰りになりました。来週から、また診療に来ていただきます」

「そうですか」

「彼の事は、彼自身が選択していく事です。私は何も言いますまい」

 そう伯爵が言ったタイミングで、ドアが開いて3人のシェフがカートを引いて現れた。

「まだディナーには早いですが、どうぞお召し上がりください。当家自慢のレシピです」

 それぞれの前に置かれたのは、生ハムと真っ白いチーズ、何種類かのパン、魚介類の盛り合わせ、緑色のソースがかかった白身魚に、よくわからないが鮮やかなピンクのローストされた肉、などだった。これは、東の大陸のさる名家から各国の貴族階級に伝わっている料理であるという。

 アーネット達は互いの顔を見た。これが貴族の料理か、と顔に書いてある。

「さあ、どうぞ。冷めないうちに」

 大人二人は出来る限り平静を装いながら、13歳の少年は感激を一切隠さずに料理を口に運んだ。普段我々が口にしているものは何なのだろう、という思いを抱きながら。犯人に正義の鉄槌は下せなかったが、それを補って余りある体験だった。


 食事が進み、大人組にワインが振舞われるタイミングで、伯爵が口を開いた。

「今回の事件をきっかけに、例の指輪に関する言い伝えについて色々考えてみました」

 ワインを一口飲んで、伯爵は続ける。

「言い伝えには、当家が立ち行かなくなった時にあの秘密箱を開けよ、とあります。あれは、どういう意味なのだろうかと」

 グラスに指をかけたまま、伯爵は思案していた。

「今回の事件は、私に指輪の謎を思い起こさせるために、神が仕向けた出来事だったような気がしてきたのです。あの指輪には何かがある」

 すると、そこでブルーが口をはさんだ。

「伯爵、実は僕もこの何日か、考えてたんだ。枢機卿から伝えられた言葉の意味を。それで、僕なりにひとつの結論に到達した」

「ほう?」

 伯爵は、興味深そうにブルーの顔をぞ覗き込んだ。

「どういった結論なのでしょうか」

「枢機卿の言葉を注意深く読んでみて。『箱を開けよ』って言ったんだよね。中にある指輪の事は、ひと言も言っていない。違う?」

 ブルーの指摘を、全員が興味深く聞いていた。伯爵は頷く。

「確かに」

「言っていい?これは、伯爵のお家が秘匿する宝物に関わるけれど」

「もはや、あなた達は知ってしまっている。今更構いませんよ、どうぞ」

 伯爵に促され、ブルーは話を続けた。

「東洋の古い諺に、こんなのがある。『賢人が月を指差した時、愚者はその指を見た』ってね。かつての枢機卿は、言い伝えで何かを指差していた。言い伝えを聞いた僕らはどうしても、箱の中身である指輪に注目してしまう。けど、真に向き合うべきなのは、指輪じゃない」

 ブルーが言わんとする事が、何となくその場にいる人々にもわかってきた。そこで、ブルーは結論を言った。


「あの秘密箱を開ける過程そのものに、謎を解くカギが秘められているんだ」

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