格好いいポーズ
エレノアが戻ってくるまで、私たちは自室で時間を潰すことにした。どうせミニツアーの運行日以外に私たちの仕事はないからね。
ルナはソファーで紅茶を片手に、タブレット端末の書類を読んでいる。
私は物陰から飛び出し、非殺傷銃を構える。
「P.S.I.R.Tだ! 両手を挙げろ!」
「……」
ルナは私を一瞥しただけで、何事もなかったかのように紅茶を一口含み、再び端末に視線を落とした。完全に無視を決め込んでいる。
もっと格好いいポーズじゃないとダメか。
左手を突き下げ、右手で階級章を引っ張る。
「
「…………」
反応なし。
じゃあこっちかな?
私はおもむろに腕を交差すると、深淵の黒炎を宿しし右眼を、手のひらで隠した。
「そうかーーそれが
刹那、その響きは時空間の海と共鳴し、久遠の彼方へと――。
「フーッハッハッハッハッハッハッげぼっ」
気づいたときには、ルナの手刀が私に振り下ろされていた。
「このダメ姉」
「えぇ~格好いいじゃん」
「何百年前の流行ですか。このっ」
手刀が何度も振り下ろされる。
「痛い、痛いって」
「姉さん、少しは真剣に生きたらどうですか? それからVルナ、出てきてください」
ふわりとホログラムが投影される。手乗りサイズでデフォルメデザイン版のVルナである。Vルナは、 ルナを模したAIエージェントで私の脳内に常駐しているプログラムなのだが、私の知る限りホログラムインターフェースはなかったはずだ。Vルナが自分で開発したのだろうか。さすが我が仮想の妹、優秀である。
『はい、Vルナですの。悠久の時を超えてやって参りました。抵抗は無意味だ』
ルナは眉間にしわを寄せる。
「あなたは姉さんに毒されすぎです。だいたい、姉さんの中にいて姉さんを支える羨ま……重大な立場でありながら、何事にも詰めが甘いんですよ。さっきの交渉は何ですか」
あちゃー、ルナの説教モードのスイッチが入ってしまった。
『当然のことをしたまでです。私はリアルのルナに次いで頭が良いので』
えっへんと胸を張るVルナ。だめー、それはルナを怒らせちゃう。
ルナは深い溜息をつく。
「……いいですか、交渉の基本は、利害調整です。一方的な主張は聞き入れられなくて当然です。まず交渉相手のニーズを深掘りする。提案はその後です。エレノア様の身の安全がニーズなら、我々がその手段を提案する。利害はそうやって一致させるんです」
『なるほど、ルナ。ところで、私がお姉様に毒されるのは、お姉様と常に精神的に繋がっているからです。当然です。むふふ』
ルナの顔色が変わった。ここまで嫉妬に満ちた表情は、久しぶりに見る。
「む……」
『私経由で無線通信で常時接続をさせてあげてもいいんですよ? お姉様に』
Vルナさんったら、勝手に私を交渉のネタに……。
「ぐ……要求は何ですか」
早速Vルナに手玉に取られるリアル・ルナさん。でもこれって交渉じゃなくて脅しに近いアレなんじゃないだろうか。
『お姉様のために音の鳴る配管を用意してください。お姉様は冷静さを失おうとしています』
えっ、Vルナは自分の要求をするんじゃないのね。そっか、もう私の人格の一つみたいになっているのかもしれない。
ってことは、私がルナをコントロールしようとしてるってこと? これってつまり。
――イモウト・コントロール!
ルナがこめかみを押さえた。
「……はぁ、それで最近は挙動不審だったんですね、姉さん。でも、熱水管や高温スチーム管しかないんですよ、簡単にアクセスできる配管は。耳を当てたら火傷しますよ」
そう、ここ火星のコロニーでは、集中暖房とメンテナンス性を兼ねて熱水管や高温スチーム管の露出配管が多い。温泉から湧出する熱湯や地熱発電の副産物の高温スチームが管をそのまま通っている。街のあちらこちらで湯気が上がっているのは、管からの漏洩そのものよりも管に触れた水分が蒸発している場合が多いらしい。つまり直接触れば火傷は避けられない。
他にあるとすれば、下水管ぐらいか。しかし、これに耳を当てるのはルナもVルナも許してくれないのである。『記憶を同期される身になってください』とか何とか。別に流れているのはトイレの排水とは限らないのだが。
『ではこの話はなかったことに』
「そう簡単に配管が転がっているわけ……転がって――」
ルナはハッとした表情でソファの片側をあけ、私に背中を向けた。
「ヒカリ姉さん……これで我慢してください」
耳が真っ赤になっている。
「え?」
「……胃管もガストリック・コンジットといいますから」
「……コンジッ……ト」
……。
…………。
いかん、胃管。
意識が飛んでしまった。
意識を取り戻したとき、私はルナの背中に飛びつき、そこへピタリと耳を当てた後だった。
「あぁ~!コンジットの音ォ~!」
聴覚の入力を最大に増幅。
ルナが口に紅茶を流し込むと、嚥下された液体が食道を通る音が聞こえる。蠕動運動の音がそれに続く。彼女が呼吸をすると気管支に気体が流れ込む音。そして血液を体内に巡らせる心臓の力強い鼓動の音――。そういえば、コンジットの音を聴いたのはいつぶりだろうか。しかしこれは、今まで聴いたどのコンジットよりも柔らかく、複雑で、どこか懐かしい音だった。
――そういえば、生まれる前に聴いたのかもな。
ルナは純粋な新人類、つまり人工生命体だが、それは間違いなく愛おしい生命の音だった。
ふと部屋に入ってきたエレノアと目が合う。彼女は半歩退き、しばらく視線を泳がせた後、目を背けた。
「のわっ!? あ、あの、お邪魔?でした?かしら??」
「エレノアも一緒に聴く?」
「遠慮いたしますわ」
即答だった。
ああ、エレノアも妹だったらいいのにな。
何となくそう思った。
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