運用主任のお仕事
――乗務日誌 Z時間 二四一三年八月三一日日 一六〇〇時記入
――我々は地球の周回軌道を離脱し、火星へと出発した。
「自動操縦に切り替えました」
主任パイロットのクレイ中尉が、ほっとした表情でコンソールパネルから手を離した。
「ご苦労」
カエルム船長も、ようやく一息が付ける、と背もたれに身体を預けた。
私たちは、これから約六日で火星に到着することになる。ブリッジクルーは期待に目を輝かせているが、しかし私には重大な懸念があった。任務への志願に必要な基礎能力試験に合格できるかどうかということだ。受験をギリギリまで引き延ばすとしても、実質五日間しかない。
この時ばかりは、ホーマン軌道で数ヶ月かけて火星に向かっていた昔ながらの旅路が羨ましくなった。エネルギー効率を無視して七日で火星に向かうなんて、放漫軌道ではないか。
……なんちゃって。
そんなことを言っている場合ではない。
クレイ中尉が、半ばからかうように私に尋ねた。
「そうだ、ヒカリ少尉。ルナ准尉に特訓してもらっているんだって?」
「あ~それ私も見ましたよ~。ルナズ・ブートキャンプ」
と、運用主任のサリー少尉も同調する。
「……で今日は何の訓練をやってるんだ?」
「気になる~」
クレイ中尉もサリー少尉も興味津々だ。しかし、どう答えたものか。
「今朝はホログラムシミュレーターで、サリー少尉の役割の訓練をやりました」
しかし、まさか、全員死亡という衝撃の訓練結果になってしまったことは口が裂けても言えない。
「ふふふ、運用主任、中々難しいでしょう」
そう、難しいのだ。
運用主任は船内で発生する多種多様な事象に同時並行で対処しなければならない。トイレの水詰まりから、船内空調の調整、連結や解結、果ては事故発生時の負傷者報告の取りまとめまでもが運用主任の職掌だ。基礎能力試験で出題されるのが運用主任の業務なのも、その業務範囲の広さに理由がある。基礎能力が何一つ欠けていても務まらない。言い換えれば、何が欠けているかを実技で炙り出す試験なのだ。
「はい。でも、世界の解像度が上がりました。今サリー少尉が何しているか分かるようになりましたし」
そう、サリー少尉はこうして雑談に応じているように見えて、ちょくちょくコンソールに視線を落としている。任に就いている間、一切の気が抜けない仕事なのだ。
「そう? 私何してるか当ててみて?」
そう言うサリー少尉の笑顔は少し怖い。どことなく黒いオーラを纏っているからだ。若干挑発するような、値踏みするような、そんなニュアンスが混じっている。いや、それ、この前「友達」と言っていた相手に向ける表情じゃないでしょう。
ひょっとして、ブリッジクルーの中で一番怖いのは、シエラ副長ではなく、実はこの人なんじゃないだろうか。運用主任は縁の下の力持ち的な存在だから、前情報が全くないんだよなぁ、と背筋が寒くなる。
まあいい。
私は遠目にそのコンソールの表示内容を見て、大体の状況は分かっていた。
「食堂車で原因不明の電圧降下が起きているので、今は使用していない訓練車と荷物車から電気を回すように対処しているところです。それと並行して、地球の重力圏を出たので、この機会にセンサー類のキャリブレーションも行なっているんじゃないですか?」
すると、サリー少尉は少し驚いた表情を見せた。
「……正解」
「席を奪われないようにしろよ」
クレイ中尉はニヤニヤとしている。
「奪われませんよ。簡単な仕事じゃないんですから」
彼女は、ああ見えても自分の椅子を守るのに必死なのだろう。そんな気がした。ここにいる誰もが自分の努力でここにいる。政府意向というチートでここにいるのは、私だけなのだ。不本意ながらそれは否定できない事実である。
私たちが談笑している間、シエラ副長はカエルム船長に今後の航行に関する情報について報告していた。
「今朝の時点の航行情報です。特に問題はなさそうです」
「小惑星帯の状態はどうだ?」
「遠距離センサーには、大型の小惑星のような影が一つ映っています。ただ、昨日時点の位置との比較から軌道から計算すると、明日には通過する見込みですから、実害はないでしょう」
「一応監視を続けてくれ」
「はい。シフトごとに確認させます」
……小惑星か。
できれば訓練以外では出会いたくないものだ。
その時、私の個人端末が鳴った。
『こちらルナ。ヒカリ・サガ少尉は、訓練車に出頭せよ』
ルナの可愛らしくもぶっきらぼうな声だ。
その声がカエルム船長の耳に入ったらしい。彼までもが私をからかい始めた。
「鬼准尉様がお呼びだぞ。早く出頭しないと打首獄門だ」
「……はい。では、失礼します」
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