10十話『奪われし書物は都の中枢を指し示す』

 帝國圖書館と内務省の緊密な付き合いは、明治末より続く。検閲の事業化により、図書館に納本される諸々の出版物は先ず内務省の検査を経る。以前は発禁処分を受けた書籍は官報に掲載されたが、大正期を通じ、内々で処理されるようになった。


「地下に禁書庫があるとは興味深い」


 特高警察の頭領は、その職務柄、喧嘩上等の渡世人のように怖れられることが多いと聞き及ぶ。だが、夜盗侵入事件の捜査に介入した男は、強面ながら、物腰も丁寧な人物だった。案内する者が奏任官*の身分であると認めておもんぱかったのかも知れない。


「実際に書架をあらためねば、逸した本も見当が付きませぬ」


 忠嗣がそう申したところ、付き従う恰好で禁書庫を検証する次第となったのである。侵入現場では尚、鑑識班の調べが続いていたものの、内務省の男は相当に格上なのか、断りもなく足を踏み入れた。


「こんなに沢山の禁書があるとは、当方としても驚きを禁じ得ない」


 出版物検閲の当局者がのたま科白せりふではないが、明治期や旧幕時代の書物は管轄外だった。また、発行部数の少ない雑誌や地方の出版社が世に送った書籍には漏れも多く、洋書に関しては事実上の野放しである。


「その本棚の最上段ということか」


 泥汚れが検出された書架を捜査員が指し示す。日頃の調子で忠嗣が近寄ろうとしたところ、制止された。引き続き現場保全中で、触れてはならぬと釘を刺す。


「単純に盗まれた本の種類を知りたいのだ」


「ええと、奥の左から二つ目……何だっけかな。あ、そちらは第五門の政治や法律に社会です」


 堅苦しい書籍ばかりが背を向ける書架だ。暇にかこつけて渉猟しょうりょうしたこともなく、その甲斐があってか、番号札を一瞥しただけで忠嗣は思い当たった。踏み台を使わなければ手も届かぬ最上段。ぼっかりと書籍が抜き取られた隙間がある。


「矢張り、政治書か。これは当方の見込みが的中したやも知れん」


 内務省の御偉方は色めき立った。彼の第六感に基づくと、侵入した賊はアナキストやトロツキストの運動家、若しくは研究者及びその門弟で、発禁となって押収された重要資料を狙ったのだという。即ち、警保局保安課の出る幕だ。


 特定の思想を持った者に限定する大胆な推理で、聞く分には面白いが、忠嗣が記憶する限り、共産黨関連は別枠の労働区分。政治思想に至っては第二門の哲学に振り分けられている。その分野も触らぬ神に祟りなしとばかりに、終ぞ試し読みした機会がない。


「あのう、最上段は政治ではなく、経済か統計……いや、違うな、社会部門だったかと。東北地方の農村の祭りとか、他愛もない感じの本ばかりのような」


「そうなのか。蘇緯埃革命史ソヴィエトかくめいしとか、そんな本はないの」


「一揆も革命も歴史方面で第四門だっけかな。手前の書架になります」


 男は詰まらなそうに顔を顰め、次いで問題の荒らされた書架に接近して背表紙を見上げた。これ幸いと隙を見て、忠嗣は文机の上にある佛和辞典を掠め取り、素早く抽斗ひきだしに中に押し込んだ。 

   

 直感だか第六感だか知らぬが、特高の頭領は当てが外れたと自覚した模様で、唸り声ひとつ、腕を組んで思案するばかり。最上段のほかの書籍名を見れば、筋違いと理解できる。忠嗣も昨秋に踏み台を用いて、その最上段に祭事関係の本を収めたことを思い出した。実に地味な書棚だ。


「なれば抜き去られた本は、何冊か知らぬが、村祭りとか民俗学的な類いであって……ううむ、君はおよその見当が付くのかね」

 

 亦もや難しいことを曰う。不在の書籍など知る由もなく、想像も及ばない。忠嗣は即答を避け、首を少し傾げる仕草で場を取り繕ったが、問い糺した当人も急に覇気を失くし、文机の椅子に腰掛けた。酷く気落ちした風で、座席の主も文句が言えぬ。

  

 いい加減、面倒極まりなく、立ちっ放しも疲れて来た。特高の御偉方と交わす会話の種もない。しかも、午睡に打って付けの頃合いだ。知らぬ存ぜぬで押し通し、用便と偽って逃げ去ろうと決意したが、言い出す機会に欠く。


 嫌な沈黙が続き、鑑識班も撤退の準備を始めた時、台車をく音が聴こえた。騒ぎで忘れ掛けていたが、本日、最も面を付き合わせたくない人物。入って来たのは、九鬼須磨子くき・すまこだった。


「窃盗された書籍について、今よりつまびらかにします」


 大胆不敵にも、彼女はそう宣言した。部外者と思われる年増の女性を伴い、何やら普段以上に気丈な様子だ。台車には、簿冊ぼさつうずたかく積まれている。


「私が発禁書籍等の管理をしている担当者でます」


 身も蓋もないことを言う。禁書庫の自称室長を前にして告げる文句ではない。椅子に腰掛けたまま舟を漕ぐ有り様だった特高の男も飛び起き、入り口のほうに向き直り、そして少し驚く。


 恐らく、明るい室内燈に照らされて、須磨子の偽眼いれめが光ったのだ。多忙につき整える余裕がなかったのか、彼女の髪は乱れ、本来であれば隠しているはずの左眼が剥き出しだった。


「これは丁度良かったかも。今から目録を検分して紛失した書籍の探し当てる作業に入ろうかという矢先。好都合な事この上ない」


 そう語り掛けた忠嗣を無視し、須磨子は台車にあった簿冊を文机に移すと、連れの女と一緒になって調べ始めた。どさりと紙の束を置かれ、特高の男は居心地も悪そうに畏まる。


「この書類の山は何かね」


「当館が保存管理しております発禁処分相当及び閲覧保留書籍の全記録になります」


 禁書庫の専任司書ですら聞いたことのない代物だった。そんな記録があったとは露知らず、忠嗣が簿冊をひとつ取り上げようとしたら、須磨子に手をはたかれた。


「問題の書架は社会区分の最上段ですね。それならば該当する簿冊はこちら」


「貴君は保安課の方でしたわよね。何故ここに座って惚けているのか。男性二人、作業の邪魔です。後に控えなさい」


 手を叩くだけではなかった。連れの年増はいきなり座り込む男を怒鳴り付け、追い払った末に自ら椅子に臀を落とした。世間では軍人以外に怖いものなしとされる特高の頭領を児童のように叱責する……一体、何者なのか。


「あれ、図書課の偉い人なんだ」


 禁書庫の入り口に逐われた特高の男は、小声で囁く。女の気迫に押され、忠嗣も逃げるように部屋の隅、そして開け放たれた扉の脇に居場所を移した。大の男二人が廊下に突っ立っている恰好である。


「同じ内務省の警保局じゃないのですか」


「そうなんだけど、彼女の実兄が我が省の偉い人なんだ。次の次の人事異動で局長になるかも知れなくって、口答えなぞ飛んでもない。ここは君も我慢の為所しどころ。参らぬ仏に罰は当たらぬだ」


 本気で怖がっているようだった。年増自身も上級職だが、それにして家柄が誉高く、抵抗も反抗も出来ず、見て見ぬ振りで遣り過ごすのが吉と言う。


 文部省でも身分が高く、鬼課長の異名を持つ女官吏が居たが、何処の官庁も似たようなものであるらしい。特に近頃は民間でも女性の進出が目覚ましく、近くで猥談をしただけで訓誡の対象になるとも聞く。


「判明致しました。巌谷司書も刑事さんも入室して下さい」


 相変わらずの威丈高な口調だったが、年増に比べて須磨子が優しくも見えた。入り口の二人は許可を得たといった雰囲気で、共に物腰低く、恐る恐る忍び寄る。


「自分は刑事じゃないんだけど、まあ、その点は宜しいか。仕事がお早いですね」


 数分と経っていない。刹那の早業に思える。忠嗣は適当に発禁書籍を見繕って騒ぎを収集させる心算だろうと踏んだが、あらずだった。


 簿冊には書籍名や著者のほかに出版時期と版元の所在地まで細々と銘記されている。須磨子は禁書庫に書籍を運ぶ前、丹念に記録を取っていたようだ。


「盗まれた書籍は、杜若文庫かきつばたぶんこです。全部で十巻。間違いありません」


 堂々と、そう言い切った。現場を取り仕切っただけで、特に殊勲もない隣の年増も偉そうに男二人を見上げる。勝ち誇った感じが、少々気に触るが、杜若文庫とは何か。零細出版社だとしても全く聞き覚えがない。


「杜若は蔵書の持ち主の苗字で、版元ではありません。寄贈を受けた際、当館ではそうした俗称を与えることが多いので御座あます」


「はあ、それは別にして、掠取された本って政治思想とかではないのかね」


 特高の中間管理職は、尚も政治関連に拘泥しているようだったが、御門違いだった。手元の資料に基づく須磨子の説明によれば、惨殺事件などの詳細を綴った寫眞満載の豪華本だという。


「検閲対象の区分は、風俗壊乱に相当する残虐性と猟奇性。それらの記述多数で、添付された寫眞及び図説に著しき問題有り」

 

 事務的な口調で、年増の女が言った。何冊かの版元は大阪の老舗だが、申告漏れか検閲を擦り抜けたか、一部が市中に流通した模様だ。大正期の古い出版物ではなく、比較的新しいとも付け加えた。


 警保局図書課にとっては由々しき事態らしいが、忠嗣が関心を抱いたのは、検閲事業の不始末ではなく、嗜虐性に満ちたとされる本の内容と寄贈元だった。奇妙な屋号の書肆しょしである。


 帝都の富士見町に店舗を構える古本屋。その名をグラン=ギニョヲルという。

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