⑦
その質問には答えず、男は続ける。
「男の名前は、木村二郎…。三十八歳。女の名前は、望月里奈…二十六歳。男は女を独占したいと思っていた。でも、女はそんなことを微塵と思っていない。ただ、金のなる木だと思っている…。裏切られたと思った男は、女と一生一緒にいようと…、ホテルに呼び出し、そして、縛ったのち、火を放つんだ…。そして、二人はこれから死ぬ…」
恐る恐る振り返ると、夜の闇に、うっすらと煙が立ち込めているのが見えた。
火事って言ったら、今さっき起こったばかりだよな? それなのに、SNSも持っていないような男が、どうしてそんな細かい事情を知っているんだ…?
さすがに、適当を言っているだけだよな…。
そう思った瞬間、男がにやりと笑った。
「信用しなくて結構。ぼけ老人の妄言と思ってもらって結構。だが…、オレは本物だぞ? オレが与えた命は本物だ。本当に、お前は二回死んでもいい…」
その自信に満ち溢れた目に、僕は後ずさる。
まるで悪魔のように、男は囁いた。
「別に、死んでもいいじゃないか…。どうせ、これからのお前の人生は不幸続きだ。良いことなんて一つもない。死んで、巻き戻せたとしたら儲けもの。できなくても、それまでだ」
最後に男は、「へっへっへ…」と笑い、僕に片腕を掲げた。
「…握り飯、ありがとよ。これは、神さまからの恩返しさ」
その瞬間、僕と男の間を、風が吹き抜けた。
舞い上がった落ち葉が頬に当たる。砂埃が目に入り、一瞬、視界が暗転する。
再び前を見た時、男はまるで、最初からそこにいなかったように消えていた。
呆然と立ち尽くしていた僕は、歩行者に肩をぶつけられ、我に返った。
そして、逃げるように、その場を離れた。
※
別に、あの男の言葉を信じていたわけじゃなかった。
あの男はきっと、僕が見た幻覚だ。ずっと、「諦めたい」と思っていた僕が、その一歩を踏み出すために生み出した、都合のいい幻覚だ。
それで、良かったんだ。
気が付くと僕は、着古したダウンジャケットを身に纏い、取り壊しが決まった廃虚のビルの屋上にいた。
昼間の余韻を残した生温かい風を浴びながら、息を吸い込むと、落下防止の金網を乗り越え、向こう側の段差に立った。見下ろすと、誰も停まっていない駐車場が小さく見える。
まるで「頑張れ」「痛みは一瞬だよ」とでも言うように、風が僕の背中を押した。
僕は迷うことなく、ボロボロのスニーカーを履いた足を踏み出す。靴底は、空を切る。
ぐらりとバランスを崩し、世界が反転する。
重力が脳に押し寄せ、一瞬で意識が薄れた。
脳裏に浮かぶのは、今まで送ってきた悲惨な人生。
そして、あの事故で目の当たりにした、女の死体、地団太を踏む運転手、スマホのカメラを握る野次馬たち…。人間の、醜い部分。
ぼんやりと迫るのは、アスファルト。
次の瞬間、視界が暗転した。
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