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「こんにちは。古屋一世の弟です」

 地域活動支援センター「ひなた」の玄関で雅哉がそう呼びかけると、奥から職員の小津野智也おづのともやがふらりと現れた。

「やあこんにちは雅哉くん」

「兄貴、いますか?」

「いるよ。今、住吉さんとお喋り中。どうぞ、入って」

「失礼します」

 と、雅哉は靴を脱ぎ施設内に入る。

「今日は?」

 と訊ねる智也に、雅哉は弁当箱を見せた。

「兄貴、お弁当を忘れたから届けに来ました」

「学校は休み?」

「創立記念日です」

「それはラッキーだったね」

 中央の部屋に入ると、兄の一世は同じ利用者仲間の住吉直亮とチェスをしていた。

「あれ雅哉?」

 雅哉に気づき、チェスを中断し彼の方を見る。

「お弁当忘れたでしょ。届けに来たよ」

「あ! そうか。ありがとう〜」

「学校はサボったの?」

 という直亮に、

「いえ、創立記念日で」

「ラッキーだったね」

「そうですね」

「こんにちは雅哉くん」

 と、事務室から職員の饗庭あえばゆかりが現れた。

「こんにちは饗庭さん」

「こんにちは。ゆっくりしてってね」

「僕は利用者じゃないですが」

「せっかく来たんだから」

「ありがとうございます」

 頭を下げると、ゆかりも智也もニコニコしている。

 ふと雅哉は智也を見る。智也としてはたまたま視線が自分の方に来ただけなのだろうと思い、特に何も気にせず事務室に戻る。まさか雅哉が自分をゲイアプリで発見していることなど夢にも思わず智也は事務仕事に戻るのだった。

 智也がゲイなのか、あるいはバイセクシャルなのか、コンタクトを取ったことのない雅哉にはわからない。だが智也がゲイのマッチングアプリに登録していること自体は間違いないためいずれにしても異性愛者ではないのだろうと思っていた。結婚しているはずだが、要するに既婚のゲイまたはバイなのだろう。友達の進藤文彦は既婚ゲイだ。この智也も、文彦と同じように、あるいは自分と同じように世間とのすれ違いに色々と悩んでいるのだろうと思うと、一世が世話になっていることに加えて智也に個人的に親近感を抱いていた。

 十五歳の雅哉は年齢を二十一歳と偽ってアプリに登録している。そして今のところ文彦以外の人物とコンタクトを取ったことはない。未成年であることがわかったらアカウントを削除されることは免れないし、かといって文彦というはっきりとした友達ができたことでそれ以上のマッチングを望んでいるわけでもないため、今の雅哉にとってアプリは登録しているからチェックするというただそれだけのものとなっていた。あと三年経って、そして高校を卒業すれば堂々とゲイ活動ができるのだが——だが一方で、自分がゲイやバイセクシャルではない可能性も考えると、最終的にどのような形に収まるのかが雅哉にはよくわからなかった。今の雅哉はクエスチョニングの状態だった。

 そんな中でたまたまコンタクトを取った文彦に、「自然に落ち着くからね」と言われたことで雅哉は安心している。雅哉がなぜ文彦にコンタクトを取ったかというと、文彦がプロフィールで既婚ゲイであることを明かした上で活動していることが決め手だった。この人だったら、自分が未成年であることがわかっても、そう公にはしないでくれるのではないかと思った。それでも直接会うまで自分が十五歳であることは秘密にしていた。雅哉の抱いていたゲイのイメージとは異なり、文彦は“ガツガツ”していなかった。それで会ってみたいと思うようになった。やり取りの中、既婚ゲイというのは結婚に逃げたのではなく“逃げられなかったから”落ち着いた人生であることを雅哉は何となく思った。

 そしてある日。待ち合わせ場所に中学生が現れたものだから文彦としては相当びっくりしたものだが、しかしすぐに雅哉が真剣であることがわかり、未成年の今は派手な活動をしないようにと注意し、そして交流が続いている。雅哉としてはセックスをしてみたかったが、アラフィフの文彦が十代の雅哉に性的関心を抱くわけもなく、二人は健全な友人関係を築いている。

 智也ともそうなれるかどうか、雅哉はよくわからなかった。プロフィールを読む限りではどうも智也は文彦ほど真面目ではないように見えたのだ。具体的にどのような文言でそう思ったのかは自分でもわからない。だが、とにかく“遊んでいる”ように雅哉には思った。それでも既婚ゲイの文彦の結婚生活並びにゲイとしての人生を聞くと、智也のスタイルも否定できないし、そもそも、ゲイとしての智也のことなど何もわからないのだ。今は一世が日々お世話になっている地域活動支援センターの職員として感謝しつつ、いつか邂逅の日が来るのであれば、その日を楽しみに待っていようと思うばかりだった。

 ちょっと思考を切り替えようと思い、雅哉は一世に訊ねる。

「兄貴、最近どう?」

「何が?」

「ひなたで」

「それはもう、直亮さんは親切にしてくれるし、饗庭さんたちも話を聞いてくれるし」

 一世はうつ病を患っている。高校生の頃に発病し、二十歳の今、相当寛解状態にはあるが完治はしていない。一世の言葉によれば、主治医は今後のことはわからないけど多分完治するからのんびりやりましょうと言ってくれているそうだ。“多分完治する”とは無責任な言葉のように思えたが、しかし一方で“治るか治らないかわからないけど”と言われるよりは心強いとは言える、とも思う。とにかく主治医がそう言うのであれば、いつかのその日のためにと一世は日々治療に励んでいる。その一環としてのひなたであり、あるいは就労支援B型「ハロー・ファクトリー」であるのだった。

「古屋さんは話が面白くて」朗らかにゆかりはそう言った。「だいぶ落ち着けてるって感じですね〜」

 この文言はまずいのではないかと微妙に見抜き、雅哉はすぐに言葉を発した。

「どんな話ですか?」

「仕事の話だったり洋画の話だったり」

「なるほどね。話の合う人がいてよかったです。それより兄貴、住吉さんと仲良くやれてるかね」

 ゆかりに話を振らないように、雅哉は一世に話を振った。

 雅哉は精神医学のことも精神福祉のことも何も知らない。でも、ゆかりが“まだまだ”であることは何となくわかっていた。彼女はまだ実力不足の経験不足であり、それは家で一世が度々「饗庭さんはちょっと何かが違うんだよね〜」と愚痴のようなものを発することで余計にそう思うようになっていた。ただ、実際に現場に出ているとはいえまだ二十代半ばのゆかりに完璧な対応を望むのも野暮ではあるとも思う。とにかく自分がいる限りはゆかりに「ちょっと何かが違う」対応は取らせまいと、雅哉はほんの束の間の時間を思うのだった。

 雅哉に話を振られた一世は、うん、と、頷く。

「住吉さん、いつもお喋りに付き合ってくれて」

「家がつまんないんだもん〜」ニコニコしている。「他の地活もそうだけど、家なんか比較にならないぐらい楽しくて」

「家がつまらないんですか?」

 と訊ねると、直亮は、

「それはもう」

 と即答する。

「本当、親なんか早く死んでほしいね」

「楽しいときもあるんでしょう?」と、一世が心配そうに訊ねた。

「うん。楽しいときもあればそうではないときもある」

「週末は庭掃除のお手伝いがあるんでしたよね」

「小遣いもらえるからね〜」ニコニコが絶えない。「すずかけのYさんなんかも、Yさんの親はもう死んじゃってるけど、Yさんの親もダメダメだし、地活に来るような人たちはみんなそんな感じなんじゃないの」

 そうだろうか。少なくとも一世は違う。一世の、つまり自分の親は、いい人だ。人としても、親としても、いい人だ。しかし雅哉はとりあえず、そうかもしれませんね、と、言っておく。一世は複雑そうな表情だが、雅哉の意図が読み取れないわけではない。とにかく直亮は我田引水な性格だったから。

 すずかけのYさん、という話は、度々聞いていた。普段雅哉がここに来るときは一世の体調が悪くなり迎えに来るというときなのだが、そのときそのとき束の間の会話で「すずかけのYさん」という人物の話を直亮からよく聞く。どうも話を聞くと、彼は小説家をやっているそうであり、直亮は彼に友達同士としてだけではなく強烈な関心を抱いているようだった。その言によると、Yさんは家族並びに親戚に“助けてもらえなかった”人だそうだ。

 細かい事情はわからない。Yさんからしょっちゅう家族親戚の愚痴を聞いている直亮ではあるが、決定的な部分以外は割と忘却しているため、直亮にも細かい事情はよくわかっていないのかもしれない。だが、とにかく家族親戚と馬が合わない人、であるようだった。そしてそれを言うならそもそも直亮だってそうなのだ。そこで雅哉は考える。

 どうも直亮の家もYさんの家も、“原則”を持っていないのではないか。

 もうしばらく過ごしたら帰宅しようと思う。とにかく雅哉にとって、一世が楽しくひなたを利用できていれば、とりあえずはそれでよかった。

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