或る家族

鬨丸—ときまる—

 とりの小気味よい囀りが届く晴天、棚橋たなはしの屋敷の裏庭でのことである。九歳の少年男子は、竹の筒をくちびるにあてると、腹の奥から息を吹き込んだ。勢いよく飛び出した矢は鈍い音を立てて的に突き刺さった。木に刺した紙に書いたうち、中央の最もちいさい円にふれている。

 「うまいじゃないか、鬨丸ときまる」と八助はちすけ。鬨丸——のち愁棚橋シュウ・タナハシ——の五歳離れた兄である。頭髪も虹彩も、青の色素は弟より濃い。父に似た八助の青が四回か五回、浸けた藍染めの手ぬぐいであれば、白っぽい色素の母に似た鬨丸の青は、真昼の空に雲をとかすことができるなら、そうしたような青である。ごく薄い雲を透かして見た空というのが無難な表現かもしれない。

 鬨丸は高く結った髪を揺らしてよろこんだ。六歳になってから二月ふたつきの頃に思い立ってからこちら、年に一遍、誕生日にのみ髪を切ると決めてこだわっている。十回目の誕生日が近いこの春のはじめ、鬨丸の頭髪は女子おんなごと並ぶほどの長さにまで育っている。むしろこれより短い女もすくなからずある。

 「おれもいよいよ、兄さんに勝てるようになりましたね!」

 八助は大げさに弟を見下ろして笑った。じきにおなじような身長に落ち着くことだろうが、八助は五歳差の弟に対してこの身長差を誇りたかった。「いいや、鬨丸。五つの歳の差を甘く見ちゃいけない」

 八助は弟から吹筒ふきづつを受け取ると、弟の退いたところに立った。的を見据えて筒を構える。からだの深いところに吸い込んだ空気を、筒にあてたくちびるから一気に吹き出した。矢は、鬨丸の吹いたものがかろうじてふれている中央の円の、より中心に近いところに刺さった。

 八助は満足して吹筒を下ろした。「おれの二勝だ」といって口角を上げると、素直な弟は不満げにくちびるを尖らせた。

 「五回勝負です、兄さん!」

 「ほう。このあと三度続けて、おれに勝つわけかい」

 鬨丸はむっとして、足音を立てて兄に近づくと吹筒を奪い取った。兄は大らかに笑って弟に場所を譲った。

 鬨丸は兄が抜いてきた矢を込めて、吹筒を構えた。口惜くやしさを鎮めて的を見据える。意識のすべてを的の中央に向ける。目的には構わず、的の中央を射ることだけを考える。兄に勝ちたい、兄の口惜しがる顔を見たい、そういうのは不要な目的である。必要な目的は最もちいさな円のより中央に近いところを射ることである。やわらかな風にのって届くとりの愛らしい囀りも、膚触はだざわりのよい陽光も、ないものとして的を見る。

 鬨丸は深く息を吸い込んだ。吹筒にくちびるをあてて、胸にあるたけの空気を吹き込んだ。飛び出した矢は果たして、ちいさな円の中央から右にずれたところを刺した。ふらつく頭に酸素を取り込みながら、鬨丸は満足した。

 悪くない、これで兄さんにも勝てるぞ!——

 八助は黙って吹筒を受け取った。先ほど抜いてきた矢を込めながら位置につく。自分のありとあらゆる為種しぐさから、弟が緊張を感じ取っていなければ御の字だ。

 八助は乾いた口の中で緊張を飲み込んだ。的がずいぶんとちいさく見える。深く息を吸い込んで、そのままゆっくりと吐き出した。負けることがこわいのではない。弟に越えられるのが怕いのだ。五歳の差はおおきい、歳上のほうが十四歳なんて歳頃ではなおのことである。的がこれほどちいさく見えるのも、勝利をより近く感じるために自分で決めた距離のせいだ。弟のちいさな體ではこれほどの距離を取って的の中央を射るのは簡単なことでない。——要はこの八助、弟に不利な条件を与えた上でからっぽな優越感に浸りたかったのである。それを弟のやつが立派にちいさな的のいいところに矢を突き刺したものだから焦っているのである。十四歳と九歳となると経験だけでなく體のつくりにもおおきな違いがあるわけだが、弟がそれを踏みつぶして自分の上に立とうとしている。八助にとってこれほど怕いものはない。負けるはずのない条件をつけた競技で、幼い弟に負ける。そんなことがあっては弟が化け物かなにかに思われてくる。弟には弟であってほしい、鬨丸の前では兄の八助でありたい。

 八助はようやく吹筒を構えた。

 なんてことはない、万に一つこの一度負けたところで、おれが二勝、鬨丸が一勝だ……——。

 八助は矢を吹いた。矢はちいさな円に収まりはしたが、その中心までには弟の吹いた矢よりずっとおおきな距離があった。


 濡れたような黒色こくしょくをしたおおきなとりが、紐を振り回すような音を立てて頭上を飛んでいった。あのあと、鬨丸にさらに一点取られた。最後の最後で一点取れたから勝ったことは勝ったものの、二本の矢の中心までの距離におおきな差はなかった。

 あれでは誇れない——……。

 ため息をついた八助のそば、鬨丸が縁側を振り向いた。「母さま!」と声が弾ける。八助が見たとき、母は膝を揃えてすわり、ごく淡い灰色かいしょくの着物に覆われた大腿から、湯呑みをのせた盆を下ろすところだった。

 「母さま。おれも、直に兄さんに勝てます!」

 「まあ!」母はおっとりとした声で応じた。「すごいわ、鬨丸。八助の見ていないすきに鍛練しているものね」

 母は二男を揶揄うように微笑して、「さあ、お茶をお飲み」とふたりの息子にすすめた。

 八助は縁側に腰かけると、母から湯呑みを受け取って一口飲んだ。すぐ隣に坐っ

た弟に、母から受け取ったもう一つの湯呑みを渡した。喉を鳴らして飲む弟を見る。「練習していたのか」

 鬨丸は口の中でくちびるを舐めた。「いいえ、兄さん。これはおれの才能です」

 八助は内心そうかそうかといって、おとなぶって笑ったが、ふと冷静になって、心から「そうだろうな」と応じた。鍛練であそこまで変わるとは、八助にはどうしても思えなかった。鍛練の結果といえばたしかにそうであるのかもしれないが、しかしその大事なところには、鬨丸の才能というべきなにかがあるように思われた。鍛錬したところで五年前の自分があの距離からあれほど正確に的を射ることができただろうか。八助は、できただろうと自答するだけの自信と根拠を持ち合わせていなかった。

 「鍛練に励むのにもまた、」母がおっとりといった。「才が要りますからね。鬨丸はそういう才を賜ったのね」

 八助はふと幼い嫉妬に駆られて「ふん」と鼻を鳴らした。「母さま、九歳の子どもであの技量じゃ、此奴こやつはアヤカシかなにかでさァ」

 「おれは吹き矢の神さまってことですか?」と鬨丸がじょうずに煽るので、八助は「なに、乱暴に扱われた吹き矢の怨霊だろうよ」と返した。

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