第7話『デイ・イン・アモローソ』
「おかえり——って、どうしたんだカノア? ボロボロじゃないか……」
カノアが扉を開けると、大広間を掃除していたアイラが出迎えてくれた。
「ちょっとな。アイリは一緒じゃないのか?」
「今は部屋に戻ってるよ」
アイラはそう言いながら親指で二階を指し示す。
「あの子は元々あたし以外の人と一緒に居たがらないんだ。あたしが無理言って着いて来たせいで、あの子にも無理させちまってるんだ」
アイラは申し訳なさそうに懺悔する。
「てな訳で、
しおらしさを見せたのも束の間、アイラは悪戯な笑顔を浮かべてカノアを
「なるほど、やかましいのが居なくなってやっと落ち着けるということか」
「何だとコラ!」
アイラに負けず劣らずカノアも減らず口を叩くと、アイラは持っていた箒を投げ捨ててカノアにヘッドロックをかました。
アイラの腕がしっかり決まったところで、アノスが帰って来る。
「おいおい、いちゃつくなら部屋に戻ってベッドでやれよ。こんな人目につくところで
アノスは煽るように二人を
「そ、そういうんじゃねーし!」
そしてアイラはヘッドロックを外すと、カノアを突き飛ばすようにビンタした。
「理不尽だ……」
カノアは手の形に赤くなった頬を擦りながらそう呟く。
アノスはアイラの
「そういえば、お前たちはこの町を出たら何処に向かうんだ?」
「クサントス帝国の方に別れた仲間が向かっているので、まずはそこに合流する予定です」
「そうか。なら、通行証が必要だな」
アノスはそう言って再度立ち上がる。
「
そう言いながら、アノスはかつてギルドの受付として使われていたカウンターテーブルの方へ歩いていく。
「とりあえず、俺の名義で仮の通行証を作ってやるからこっち来い。正式なものは、帝都に着いたら向こうのギルドにでも頼めばいい」
カノアとアイラも受付の方に歩いていくと、アノスが受付の中から一枚の紙を取り出す。
「んじゃ、まずはここに二人とも名前を書け」
テーブルの上に置いてあった羽ペンを差し出されるも、カノアはそれを手に取ることを
「どうした?」
「いえ、実は文字があまり得意では無くて……」
得意ではないどころか、カノアはこの世界の文字については読み書きが出来ない。
何故か言葉だけは通じるので今までやり過ごしてきたが、果たして事情を説明して理解してもらえるものかどうか。
カノアが悩んでいると、アノスは案外珍しくも無いと言った様子で話を進める。
「そうなのか? まぁ、珍しいことでは無いがな。こんなご時世だし、まともに読み書きを教えてもらえない奴も多いさ」
アノスがひとまずの理解を示してくれたことで、カノアはこの場で日本のことを口にすることは無かった。
「アイラは書けるか?」
アノスがアイラに話を振ると、アイラは羽ペンを手に取りサラサラっと自身の名前を紙に書く。
「ほい」
「お、綺麗に書けるじゃねぇか。書き慣れてる感じがあったが、何か教育を受けてたのか?」
「別に。偽造の通行証とか良く作ってたから、それでだろ」
サラっととんでもないことを言った気がするが、スラム街に居たことを知っているカノアは突っ込むことも無く聞き流す。
「んじゃ、カノアには俺が文字を教えてやるか。自分の名前くらい書けるようになっておいた方が便利だしな」
そう言ってアノスは、紙に書いて見せた文字を写し取るようにと、カノアに文字の書き方を教える。
「そうそう。まぁあんまり上手くは無いが、とりあえずこれでいいか。んじゃ、こっちの紙にも同じように——」
そう言ってアノスは何かの紙を取り出すと、名前の記入欄っぽいところを指で差してそこに記入するように促す。
カノアは言われるがままに、先ほどと同じ文字列を記入した。
「よし、じゃあその名前の横に拇印を押して——」
アノスが朱肉らしきものをカノアの前に差し出す。
カノアがそれに親指を付けようとしたところで、黙って見ていたアイラが口を挟んだ。
「はぁ……。カノア」
「何だ?」
「お前、ホントに文字が読めないんだな」
「え?」
「それは『アノス』って読むんだ」
「な!?」
カノアは事実を知らされ固まった。
「言うなよアイラ。もうちょっとでこいつをアノス二世に出来たのによう」
アノスはそう言って子供のように笑った。
「変な文字を教えないでください……」
「変なとは失礼な! 世界一かっこいい男の名前だぞ!」
三人が受付の所で騒いでいると、大広間の奥の扉が開いた。
「何を騒いでるの?」
そう言いながら大広間にルビーが入って来た。
ゆっくり休んで元気になったのか、ひとまず今朝のような泣き顔では無くなっていた。
「今こいつに文字を教えてやってたところなんだ。ルビーちゃんも見てみるか?」
アノスに誘われるようにして、ルビーが三人の所に歩いてくる。
そして紙を受け取ると、少し笑いそうになりながらカノアの書いた文字を見つめる。
「へたっぴな文字ね! 私の方が上手に書けるわ!」
ルビーはそう言うと、羽ペンと紙を手に取る。
受付のテーブルはルビーには高かったので、近くにあった低い机に移動してササっと文字を書いた。
《アノス=アリスィアス》
紙に書かれたその文字を見て、アノスは歓喜の声を上げる。
「おおぉぉぉ! 流石ルビーちゃんは賢いなぁぁぁ!!!」
アノスは堪らないと言った様子でルビーに頬ずりをするが、ルビーはものすごく嫌そうな顔をして引き剥がそうとする。
「パパ! こんなことくらいで、いちいち引っ付かないで!」
拒絶よりも感動の方が大きかったと、アノスは満足そうにしている。
そして頬ずりを済ませるとルビーが書いた紙をカノアに渡す。
「お前もこれくらい書けるようになったら、認めてやるよ!」
「あなたの名前ではなく、自分の名前の書き方を知りたいんですが……」
もはやアノスはカノアの言葉に聞く耳を持っていないようだ。
「さぁ、今日もうまい飯作るぞー!」
そう言ってアノスはキッチンの方へと消えて行った。
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