幕間『interlude -Wings of Icarus-』

「――太平洋沖で発生した台風は来週にも関東に上陸すると見られ、今日は夕方頃から強く冷ややかな風が吹くことが予想されます。秋の到来を知らせるこの風は初嵐とも呼ばれており――」


 ピッと音を立ててテレビの画面が消える。

 銀縁の窓のわずかな隙間から淡い雪のようなカーテンを揺らした風は、病室のベッドに座っている少年に爽秋の訪れを告げた。

 

「よっ! カノア」


 病室のドアが勢いよく開かれる。

 カノアが振り向くと、見知った顔が遠慮もせずに入ってきた。


「ミナト」


「暇してると思ったから遊びに来たぞ」


 ミナトはそのまま部屋の中に入ってくると、ベッドの横にある椅子に座る。


「学校は?」


「学校? 今日日曜日だぞ? 寝過ぎて脳みそ溶けてないだろうな」


 小学校の夏休みが明けてすぐ、カノアは入院をした。

 場所は東京中枢大学付属病院。

 カノアがこの病院に入院するのは、幼少期から数えると五回目のことになる。


「今回はいつ頃退院出来るの?」


「さぁな。俺も教えて欲しいくらいだよ」


「可愛い看護師さんが名残惜しくて、仮病使ってるんじゃないだろうな?」


 ミナトは悪戯を吐き捨てるように、ニヤッとカノアに笑いかける。

 カノアはそれを受けて無言でナースコールのボタンに親指を乗せる。


「じょ、冗談だって! ここの看護師さん怒らせると怖いんだから勘弁してくれよぉ。……まぁ一番怖えのはお前の主治医の先生だけど」


 カノアはクスっと笑うと、ナースコールを元の位置に戻す。


「なぁ、体調悪いのか?」


「そこまで体調が悪いってわけじゃないよ」


「それなら良いんだけど」


 ミナトはカノアが入院すると、必ず見舞いに来ていた。

 初めは幼稚園の頃。

 カノアと出会って間もない時だったが、突然入院の話を聞かされ、カノアが死ぬんじゃないかと勘違いして泣きながら病室に駆け込んできた。

 ミナトが主治医の先生に怒られたのもその時が初めてのことだ。


「なぁ、カノア。体調悪くないんだったら、ちょっと探検しようぜ」


「探検?」


「ああ! ここの病院めちゃくちゃでかいじゃん? 何度も来てるけど、まだ行ったことない場所沢山あるから行ってみようぜ!」


「そんなこと考えているから毎回怒られるんだよ」


 カノアは呆れつつも、ベッドから降りてスリッパを履く。


「そうこなくっちゃ!」


「俺はお前の監視が目的だ」


 こんな掛け合いも、もう何度目のことになるだろうか。

 カノアはミナトと一緒に病室を後にした。


 ◆◇◆◇◆◇◆


「向こうの建物は前に行ったことあるから、今日はあっちの建物に行ってみようぜ!」


 二人は別の病棟に移動するべく、一階まで降りてきていた。

 ミナトは廊下の窓から見えるいくつもの建物を指差しながら、カノアを誘導する。


「入っちゃいけない所もあるんだからな」


「分かってるって!」


「絶対分かってないやつの返事じゃん」


 意気揚々と病院の廊下を歩くミナトは、まるでトム・ソーヤーになったように肩を弾ませる。

 カノアは窓の外を眺めながら、その少し後ろを着いて歩く。


「ん?」


「どうした?」


 カノアは窓の外から見える中庭に、ベンチで泣いている幼い女の子の姿を見つけた。


「あー。あのくらいの年の子は病院怖いよなぁ」


「俺らもそんなに年変わらないだろ」


「よし! あの子も探検に連れて行こう!」


 そう言うとミナトは、カノアが止める間もなく中庭を目指して走っていく。


「はぁ。廊下走ったらまた怒られるぞ」


 ミナトが走り去った後で、カノアは保護者のようにつぶやいた。


 ◆◇◆◇◆◇◆


「やっほ。どうして泣いてるの?」


 ミナトは泣いている女の子に話しかける。


「……っ。う、うぅ。……っく」


「あの~。もし良ければお話聞くよ~?」


 ミナトは声を掛けるがなかなか相手にしてもらえず、何処かの歓楽街の客引きみたいに顔を覗き込んでいる。


「言いたくないこともあるんだから、あんまりしつこくするなって」


 カノアは声を掛けていたミナトに合流する。


「急に声掛けてごめんね。俺たちもう行くから」


 カノアはそう言うとミナトの腕を掴み、その場を後にしようとする。


「手術、なの。……っ。明日、しないと、いけなくて」


 女の子は泣いていた理由を口にする。

 カノアは足を止め、女の子にもう一度話しかける。


「俺もここに入院しているんだ」


「え?」


 女の子は泣いていた顔をあげ、カノアを見上げる。


「今回で五回目。手術は嫌だけど、ここの先生たちは優秀な人ばかりだから。大丈夫だよ、きっと」


 カノアなりの励ましの言葉。

 入退院が多く、友達とのコミュニケーションをあまり取ってこられなかったカノアにとって、誰かを励ますというのは勇気のいることだった。


「でも、わたし初めてで。明日のこと考えると、どうしても怖くって」


 女の子はまた、今にも泣き出しそうな顔でカノアを見つめる。


「……分かった。一緒に行こう」


 そう言うとカノアは、女の子に手を差し伸べる。

 女の子は差し出された手の意味が分からず、問いかける。


「え? どこに?」


「明日のことを忘れるまで、俺たちと一緒に遊ぼう」


 そのまっすぐな瞳に吸い寄せられるように、女の子はカノアの手を取り立ち上がる。

 

「これでも俺たち、この病院に結構詳しいんだぜ!」


 横で見ていたミナトも白い歯を見せて笑顔を向ける。

 三人の少年少女は病院の敷地内を駆け回り、時に給湯室に潜り込んで看護師に怒られたり、時に困っているお爺さんを助けたりと、まるで冒険のような時間を過ごした。


 ◆◇◆◇◆◇◆


「こんなに楽しかったの初めて!」

 

 女の子はきらきらとした笑顔で、嬉しそうに話しかける。


「俺たちもだよ! まさか俺たちに着いて来られるやつがいるとは!」


「わたし、これでも運動は得意なんだ♪ って、もう一人のお兄ちゃんは?」


 面会用の休憩スペースで座って談笑していたミナトと女の子は、もう一人足りないことに気が付き、きょろきょろと辺りを見回す。


「はぁはぁ……。お前ら……、はぁはぁ……。少しは、……はぁ、ゆっくりと、歩け……。俺は、病人、なんだぞ……」


 二人が談笑していたところにカノアが合流する。


「カノアの場合、病人だからじゃなくてそもそも運動が苦手過ぎるんだよ」


「お兄ちゃん、今度運動教えてあげよっか?」


 悪びれも無く、けろっとした態度でカノアを迎える二人。

 カノアは呆れつつも、女の子が元気になった姿を見て安堵の気持ちを抱く。


「少しは不安な気持ちは無くなったか?」


「……うん。ありがと。だいぶ元気出た、かな」


 その言葉とは裏腹に、女の子の顔が何処か寂しげだとカノアは気付く。


「やっぱり、まだ怖いよな」


「え?」


「隠さなくてもいいよ。こんなことで怖くなくなったら医者も苦労はしないさ」


 カノアは慰めるように女の子を諭す。


「まぁ勇気なんて、出せって言われて出せるもんでもないしなぁ」


 ミナトの言葉に反応するように、カノアは不気味な笑みをミナトに向ける。


「そんなことは無いさ。人間死ぬ気になれば空だって飛べるさ、なぁミナト」


「おいおい、俺に何させる気だよ……。普段は理屈っぽいくせに、いきなり根性論出してくるとか怖えんだけど」


 ミナトは運動させ過ぎた腹いせに何かさせられると悪い予感がしたが、カノアはふふっと笑うと提案を投げかける。


「最後にあそこ行くか」


「まだ他に行ってない所あったっけ?」


「とっておきの場所があるじゃないか」


 ミナトはカノアの言っているところが何処なのか察しが付くと、宝物を発見した子供のようにその笑顔を輝かせる。


「確かに! あそこならきっと喜んでくれるな!」


「とっておき?」


 カノアとミナトは顔を見合わせてニヤッと笑うと、女の子を連れて最後の秘境へと足を進める。


 ◆◇◆◇◆◇◆


 ガチャリ、と音を立てて古い銀扉が動き出す。

 錆びた蝶番、汚れた小窓。開くに連れてギーっと軋んだ音を立て、少しずつ開放されていく。


「どうだ?」


「……誰もいない、みたいだ」


「よし、今なら俺たちで独占できるぞ!」


 汚れた小窓から顔を覗かせ誰もいないことを確認すると、カノアはその扉を最後まで押し開く。

 カノア、ミナトと順番にその扉を通り、最後に女の子が扉の先へと足を踏み出す。


「ここって……」


 女の子はその開放された先の青空を見上げ、目を輝かせる。


「ああ、屋上さ。本当は別の扉から出入りしないとダメなんだけど、あっちはナースステーションの前通らないといけないし、子供だけだと危ないからダメだって怒られるんだよ。でも、こっちの扉からだと俺たちだけでも入れるのさ」


「おまけにこっちは古くてもう誰も使ってない。鍵自体は掛かっているけど、建付けが悪いからちょっとコツを掴めば鍵が無くても開けられるんだよな」


 カノアとミナトは得意気に語る。

 二人の少年の悪そうな笑顔を見て、性格は違えど結局似た者同士だったのだと女の子も思わず笑みが零れる。


「こんな悪いことしたの初めて。何か、ドキドキするね」


 恐る恐る周囲を警戒しつつ、三人は屋上の端に設置されているフェンスまでやってくる。


「ベッドでずっと寝ているとさ、気持ちもどんどん落ち込んじゃうんだ。だからたまに病室を抜け出してこうやって風に当たりに来ているんだよ」


「うん。何か分かる気がする。気持ちいいね、ここ」


 風に吹かれながらカノアと女の子は感傷に浸る。


「……でもね、やっぱり、っ。わたし、どうしても、怖くて……う、うぅ」


 どんなに楽しい時間を過ごしても、やはり一時凌ぎにしかならない。

 だがそれが分かっていたからこそ、カノアは女の子をここに連れてきたのだ。

 

「なぁ、俺が勇気を出すところを見せたら、君も勇気を出せそうか?」


 カノアは女の子に問いかける。だが、それは同時に自分自身にも言い聞かせているようにも聞こえた。


「わかんない。わたし、勇気の出し方なんて、知らないもん」


 女の子は涙を浮かべては袖で拭い、時折鼻をすすっては、声を震わせる。


「そこで見ていてくれたらいい。これが、今の俺に出来る精一杯の勇気だ」


 そういうとカノアは目の前のフェンスを登り始める。


「っ!? おい、カノア! 流石にそれは危ないって!」


 ミナトもその危険性に気が付いたのか、慌てて制止しようと声を掛ける。

 だがカノアは一心不乱に、五メートルはあろうかというフェンスを上へ上へと登っていく。


「お兄ちゃん! 危ないよ!」


「怖くても、勇気を出せばこれくらい!」


「馬鹿、カノア! 早く降りて来いよ! そんな場所に登って何をする気……。っ!」


 カノアの目指す先にあったものを見て、ミナトは思わず息を吞む。


「もう少し、もう少しで!」


 そしてカノアはフェンスの上まで登り切ると何かを手に取り、足を跨いで落ちないように両足でフェンスを挟む。


「よし、俺だってやる時はやるんだ!」


 そういうとカノアは手に持っていた紙飛行機を女の子に見せる。


「紙飛行機?」


「この前二人で遊んだ時に俺があそこに引っ掛けちゃったんだ。あのままだとその内看護師さんに見つかって、俺たちが屋上で遊んでたことがバレちゃうから何とかしようって前に話してたんだよ。あの馬鹿、そんなことのためにフェンス登りやがって」


 女の子は両手をぎゅっと握りしめながらカノアを見上げて言葉を紡ぐ。


「……ううん。お兄ちゃんはきっと、わたしのために登ってくれたの」


「まぁ、あいつ不器用だからな。君に少しでも良いところを見せたかったのかもね」


 呆れたように見上げていたミナトがカノアに声を掛ける。


「おーい。バレる前に早く降りて来いよ!」


「この紙飛行機が見えなくなるまで飛んだら、明日の君の手術は絶対に成功する! だから見ていて!」


 カノアは大空へと目いっぱいの力を込めて紙飛行機を飛ばした。

 紙飛行機は風に吹かれて舞い上がり、本当に見えなくなるまで高く高く飛び続ける。

 やがて紙飛行機は、太陽に引き寄せられるようにその光の中に消えていった。


「本当に見えなくなっちゃった……」


「よしっ! これで君の手術は上手くいく! だから心配しないで!」


「すごい! すごい! あんなに紙飛行機が飛んだの初めて見た!」


「そうだろ! それに見てみなよ! 太陽がこんなに近くに……」


 カノアは興奮を抑えきれない様子で、紙飛行機が消えていったその光へと手を伸ばす。


「カノア、ヤバい! 早くフェンスに捕まれ!」


 ミナトだけは誰よりも早くに気が付き、先ほどまでとは違う逼迫した声を上げた。

 だがそれは、紙飛行機が高く舞い上がった時に気が付くべきだったのかもしれない。


「うわっ!?」


 突如、秋の到来を知らせる強く冷ややかな風が吹き荒れる。

 フェンスの上で足だけでバランスを取っていたカノアは一気に姿勢を崩した。


「お兄ちゃん!」


 カノアは姿勢を崩すと、踏ん張ることも出来ず真っ逆さまにフェンスから屋上へと落下する。


「ヤバイ!」


 ミナトはそれを受け止めようとするが、突風に吹かれたカノアは僅かばかりに横に流されており、落下まで間に合わない。


「カノア!」


 手を伸ばすが、後半歩足りない。仮に足りていたとしても、小学生の腕力で同世代の男の子一人を抱き止められたかは難しいところである。

 だが間に合わなかったからこそ、カノアは救われたのかもしれない。


「うぷっ!?」


 ミナトは手を伸ばした勢いそのままに、目の前に立っていた白衣の女性に突っ込んだ。


「ふぅ、危ないところだった。……この悪戯坊主どもめ! これから医務室連れて行くから覚悟しておきなさい!!」


 ミナトが恐る恐る顔を上げると、カノアの主治医が鬼の形相を浮かべてカノアを抱きかかえていた。


 ◆◇◆◇◆◇◆


「とりあえず、何処も怪我していないみたいで良かったわ」


 三人は医務室に連れて来られていた。

 カノアはひとまず怪我を負うことは無かったが、念のためと椅子に座らせられて、軽い診察を受けた。

 話が終わったのも束の間、医者は三人を問いただすように順番に顔を見る。


「で、どうしてあんな危ないことをしていたの?」


「それは……」


 ミナトは委縮してしまって、言葉が上手く出てこない。


「僕が悪いんです」


 カノアが口を開く。


「どういうことかしら?」


「普段寝てばかりだから、少し体を動かしたくて。二人には無理を言って着いてきてもらっていました」


「え、でも」


 女の子は何か口にしようとしたが、カノアは女の子の言葉を遮るように告白する。


「僕のわがままに付き合ってもらっていました」


 カノアは意固地な姿勢を崩さず、医者の目をまっすぐ見る。


「はぁ。そういうことならいいわ」


 医者は何か言いたげなミナトと、不安そうな表情を浮かべる女の子を交互に見ておおまかな事情を察する。


「ただ、君には一つお説教ね」


 どんなに取り繕っても、悪いことは悪いと言っておかないと示しがつかなくなる。

 医者はカノアの目をまっすぐ見つめて、諭すように言葉を掛ける。


「君はもう少し自分のことを大事にしなさい」


「え?」


 想像していたものと違う言葉に、カノアは少し間の抜けた声をこぼす。


「やんちゃなのは元気があって良いことだわ。だけど、危ないことをして得意気になるのは勇気ではないのよ?」


「……ごめんなさい」


「ふふっ。君はまるでイカロスね」


「イカロス?」


「イカロスっていうのは、蝋で固めた翼で空を飛んだ少年のことよ」


「それがどうして僕なんですか?」


「その少年はね、翼を手に入れられたことが嬉しくて、どんどん高く飛んでしまったの。翼をくれた父親からも、あまり高く飛ぶと太陽の熱で蝋が溶けてしまう、と言われていたのに。君も、太陽に近づいたんじゃない?」


「それは……」


 あの一瞬、カノアは確かに太陽に手が届きそうな気がした。

 輝きに魅入られた心に宿ったのは勇気か傲慢か。

 カノアはあの薄氷を敷き詰めたような空に浮かぶ、強かな光を思い出していた。


「その子、最後どうなったんですか?」


 カノアは問う。

 ほんのわずかでも、心情の重なった少年の行く末を。


「それはね――」


 爽秋の空に吹いた強く冷ややかな風は、移ろいゆく季節の旋律を奏でた。

 カノアが異世界へと旅立つのは、これより六年ほど後のこととなる。


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第一章幕間を読んでいただきありがとうございました。

次回より第一章後編開始となります。

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