これがつり橋効果と言うやつですか?
事務棟の一番下にある保健室へ向かうと、ちょうど扉の向こうから、保険医の金沢先生が救急箱を手に廊下へ飛び出してきた。そして私たちを見ると、一部の男子生徒がキャバ嬢と呼ぶ派手目な顔を驚かせる。
「君たちどうしたの!?」
そう言われて自分たちの姿を見れば、彼の制服の上下はもちろん、私のスカートも赤く血に染まっている。
「けが人の手当てをしていました。ですが、彼女がガラスで手を切ってしまって」
柊くんの説明に、金沢先生がハンカチを巻いた私の手をちらりと見る。
「ごめんなさい。自分たちで手当てをしてもらえないかしら」
大した傷ではないと思ったのだろう。そう告げると、白衣の裾を翻して階段を駆け登っていく。私たちはその後ろ姿を眺めつつ、保健室の中へ入った。まだ昼休みが終わってすぐのせいか、保健室には誰もいない。
「消毒液と包帯はどこかな?」
柊くんは私を椅子に座らせると、保健室の戸棚の中を眺めた。そこにおいてあった包帯を取ろうとして、手を止める。
「ごめん、ちょっと待って。流石にこのままだと、辺りに血がついてしまう」
そう告げると、いきなり制服を脱いで、血だらけの上着をプラスチックの籠へ放り込んだ。予想した通り、すらりとした体をしているのに、痩せた印象は全くない。むしろ鍛えている感じだ。柊くんはその下のワイシャツも真っ赤になっているのを見ると、私に苦笑して見せた。
「これも脱がないとだめかな……」
柊くんがワイシャツのボタンに手をかける。
『えっ! もしかして、それも脱いでくれるんですか!?』
私の耳には救急車が近づいてくるサイレンの音も響いて来た。彼がシャツを脱ぐ姿とサイレンの音が重なり、不謹慎なことにそれが効果音にすら思えてくる。
己の欲望と理性の間で悶える私をよそに、柊くんはあっと言う間にワイシャツを脱ぐと、Tシャッツ一枚の姿になった。やっぱり鍛えている。おなかの辺りが割れているのがはっきりと分かった。
柊くんはシンクで血を洗い流すと、ガーゼと消毒液を手に私の前へひざまずく。ガラスの靴を王子様の前で履いたシンデレラって、こんな気分だったのだろうか?
「真美さんも上着を脱いだ方がいいかも。傷が深いかもしれないし、裾のところへ血がついてしまっている」
「えっ! そっ、そうだね」
慌ててダークグリーンのじみ~~な上着を脱ぐと、柊くんの制服が入っているとなりの籠へそれを入れた。
二人の制服が並んで籠に入っているのを見て、温泉のお風呂場みたいだなんて、どうでもいい考えが頭に浮かぶ。でもよく考えれば、他に誰もいない保健室で、超イケメン男子を前に、制服を脱ぐと言う行為を行っているのだ。
その超イケメン男子はTシャツ姿で私の前に膝まづいており、窓から差し込む救急車の赤い光が、その姿をあやしく照らし出している。
『なんてエロいの!?』
広告で流れてくるエロ漫画の冒頭シーンみたいです。これはおかずどころの騒ぎではありません。そんな謎の妄想に浸りきっている私をしり目に、柊くんは私の手を取ると、真っ赤に血がにじんだハンカチへ手をかけた。
「痛む?」
柊くんが心配そうに声を掛けてきた。私は首を横に振る。痛みなど全く感じない。いや、自分の体がここにあるかどうかすら、よく分からない。
「しみるかもしれないけど、がまんしてもらえる」
そう言うと、柊くんは消毒薬を染み込ませたガーゼで傷口を拭いた。傷はそれほど大きくはないが、少し深かったらしく、まだ血がにじんでいる。
「縫う必要はなさそうだけど、このままだと傷跡がのこるかもね。湿潤式の絆創膏はあるかな?」
「柊くんのお父さんって、お医者さん?」
「えっ、どうしてそう思うの?」
「だって、血を見てもあんまりおどろかないじゃない」
真っ青な顔をして、廊下の血だまりを見ていた一年生たちの顔を思い出す。
「僕の父さんは考古学をやっていてね。歴史的に重要な遺跡が見つかったとかで、ここへ引っ越してきたんだ」
「大学の先生?」
「そうだね。古い陶器のかけらとか、建物跡とかを調べて、そこでどんな暮らしをしていたのか想像するのが好きみたい。でも半分は当たりかな? 僕の母さんが医者なんだ」
「やっぱり。柊くんも将来はお医者さんになるつもりなの?」
「どうかな。歴史が好きだから、どちらかと言えば父親がやっていることの方に興味があるよ」
そう答えると、口元に笑みを浮かべて見せる。でもなんだろう。今までの屈託のない笑顔と比べると、ちょっとだけ違和感みたいなものを感じた。もしかしたら、歴史が好きと言うのはお父さんに対する遠慮で、本当は違うのかもしれない。
でもお父さんやお母さんの話まで聞けるだなんて、ほんのわずかな時間なのに、彼へとっても近づけた気がする。
『もしかして、これがつり橋効果というやつですか!?』
「あった。これなら傷跡は残らないと思うよ」
柊くんが大きめのちょっと変わった絆創膏を私の手のひらへ張った。怪我をした一年生には悪いけど、顔が思いっきり緩みそうになる。しかし再び響き始めたサイレンの音と、廊下から聞こえてくる会話が、再び私を現実へと引き戻した。
「はい。ご両親には私の方から連絡しました。ええ、搬入先は市民病院だと伝えてあります」
ガラ!
誰かと話を終えたらしい金沢先生が、保健室の中へ入ってきた。いつもはばっちり縦巻きに決めている髪も、流石に今は乱れて見える。
金沢先生はTシャツだけの柊くんと、上着を脱いだ私を見て少し怪訝そうな顔をした。だが籠に入った血まみれの制服へ目を向けると、納得した顔をする。
「柊くんでよかったかしら? 応急手当をしてくれたのは君でしょう?」
「はい。2Aの柊です」
それを聞いた金沢先生が私の方を見る。
「同じく、2Aの伊藤です」
「二人ともありがとう。救急隊員の人たちが感心していたわよ。的確な止血処理だって」
「ありがとうございます」
金沢先生はこちらへ歩いて来ると、私の手を軽く持ち上げた。
「痛む?」
「ほとんど感じません」
「こちらの処置も的確ね。念のため、放課後は医者へ行って、治療を受けてください」
「はい」
「では、教室に戻って授業をと言いたいところだけど、そのかっこうでは無理よね。あなたたち、今日は体操着を持ってきている?」
首を横に振った私たちを見ると、金沢先生は机の上の電話機を取り上げた。
「はい。保健室の金沢です。そちらに予備の体操着とジャージはありますか? サイズは男子がLで、女子は……、Mですね」
そうとうに疲れたのだろう。受話器を置くと、金沢先生はそれはそれは大きなため息をついて見せた。
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