記憶の片鱗
カインの槍に、柄の緋房をくいくい引っ張るような妙な感覚がした。
営巣に使えると思った海鳥が房を咥えて持ち去ろうとしているのか?そう思った。ので、対して気にも留めずに槍を軽く振った。
耳元で、ばさ、と厚手の生地がはためくような妙な音がした。そして、音がした辺りの空間が裂けたように見えた。
カインのすぐ脇、目の辺りの高さで、枯れ木の根っこのように見える、苔色の得体のしれない何かが空中に浮かんでバタバタはためいていた。カインの槍の柄のじっくり観察しようと距離を詰め過ぎた結果、うっかり光学迷彩コートの裾をひっかけてしまったうえにめくられておたおたする観察者の下半身なのだが、カインが知る由もない。ぱっと見、なんだか分からず、俺は疲れているのか変な幻覚が見える。くらいにしか思わず、カインはそれを槍の柄で小突いた。
ゴツ。
はずみで迷彩コートが外れて、観察者の全身があらわになった。
観察者は雷のマナの着いた柄で尻をど突かれると思っていなかったし、マナ放電の衝撃が想像以上に痛すぎたので悲鳴を上げた。
「キャアアアアアア」
カインも、宙に浮かんだ木の枝が幻覚だと思ったら手ごたえがあって、しかも正体は観察者というあまりにも突然すぎる遭遇に恐怖し悲鳴を上げた。
「うわあああああああああ」
カインの場違いな咆哮を耳にした皆全員が突如中空より現れ出た観察者の姿を目撃することとなり、魂消た行幸の隊、見つかってしまった観察者双方の悲鳴がシャイヤー湾に響き渡った。
「観察者だああああああああああああああああ」
「ミツカッチャッタアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
当然のことながら、どちらも戦闘などまったく望んでいなかった。
観察者は言わずもがなミアキスヒューマンがマナを使う瞬間の観察だ。こんな不本意な形で観察の中断と回避行為に及ぶ羽目になったのは全く想定外の事態だったし、行幸の隊も行幸の隊列は通常と違って絢爛豪華な儀礼用で実戦用の装備ではなく護衛も見栄え重視の儀仗兵だ。
こんな慶事の場に空気も読まずに出現するなんて誰も思ってもいなかったから、双方蜂の巣をつついたような騒ぎになった。観察者たちの視線がマナに集中していることに気付いたジウスドラが機転を利かせて観察者を追い払う妙案を閃いてなかったらどうなっていたことか。
マナの入った水晶を投擲することで観察者を追い払ったジウスドラが足を踏み外して崖から落ちかけた。ジウスドラはサピエンスだ。ミアキスヒューマンのように足場が脆くなっているといった察知能力は低い。そして、崖を転がり落ちる衝撃を最小限回避する身体能力も無いに等しい。表皮を保護する分厚い体毛も無い。
終わった。誰もがそう思った時だった。
「シャオチェお願い!」
朱赤と青緑の華やかな色彩が二つ、一陣の風となって翻った。
一つはシェリアル姫。まず姫が崖下に向かって思い切りダイブし、ジウスドラの片足首をしっかと掴んだ。重なるように侍女がシェリアル姫の腰に飛びつきしがみつく格好で、捕まえたのだ。
「シャオチェ、絶対に手を離さないでくださいね!」
「離しませんともおぉ!」
勇ましく返答する侍女だが、咄嗟に飛んで姫の身体を掴むのが精いっぱいだったので、おもいっきり腹ばい状態だ。
ふんばりの利かないこの態勢でどうやって引きあげれば良いのでしょう?今は覚えていないでしょうけれど、昔、アシルの森でも似たようなことがありましたよ姫様。あの時は子供の時分で体はまだ軽かったし、幸い崖っぷちに木の切り株があったから、なんとか引きずりあげられましたけど、もしかしてこれがうわさに聞く走馬灯と言うやつですか?そんなのあんまりですよ。
感情が昂ってしまい、ここで人生終わるのだと泣きじゃくりだした侍女の帯を何者かが掴んだ。ダキアの騎馬、白嶺が侍女の帯を咥えたのだ。
「いいぞ、白嶺、そのまま後退だ」
手綱を引いて指示すると、白嶺がゆっくり後退りを始めた。
なにか背中が生温かいんですがときゃんきゃん喚くシャオチェ侍女がまず引き揚げられ、一緒にジウスドラの足首を掴むシェリアル姫、シェリアル姫に足首を掴まれた状態のジウスドラも一緒に引っ張り上げられる。
泣き叫ぶシャオチェがうるさくて少々癇に障ったようだ。咥えた帯を離すと、耳を寝かせてかっかっと前脚を掻き、首を上下させ始めた。
「悪かった悪かった」
ダキアが白嶺を少し離れたところまで引いて、首筋を軽く叩いて労うと納得したのか、大きなため息を吐くようにぶるると鼻を鳴らしておとなしくなった。
「姫ぇ!?」
またシャオチェが叫んでいる。振り返ったダキアは違和感を覚えた。
シェリアルを抱き起したジウスドラが困惑した顔でこちらを振り仰いでいる。シャオチェは姫に縋りついて必死に名を呼んでいる。
シェリアル姫はこんな時に質の悪い悪ふざけをするような女性ではない。
「しっかりしてください姫ぇ!!」
何があった。
急いで駆け寄りジウスドラからシェリアルの身を預かる。衣服が濡れているわけでもないのに頬が、指がひどく冷たい。
「シェリアル姫が、変です、息をしてるのに全然目を合わせない」
血の気の無い白い貌で、焦点の合わない虚ろな眼を見開いたまま身じろぎ一つしないシェリアル。まるで人形だ。
「姫、姫?」
姫の喉元、襟のあわせの辺りで何かもそりと動いた。
まさか。
思い切ってシェリアルの襟を寛げさせる。シャオチェが殿下こんなときになにをなさってるんですかと本気で怒声を浴びせにかかってきたが、姫の胸元を一目見て拳を下ろした。
鎖骨の辺りに海のマナが付着していたからだ。
「カイン、リョウにマナを使うよう命じてくれ」
やや時間をおいて、ぼんやりした表情から次第に生気を取り戻したシェリアル姫が意外な言葉を口にした。
「知っている......ような気がするんです」
「知っている?」
黒い大きな目が、私を見ていた......観察者のあの黒い大きな瞳。あんな真っ黒い目が私を見ていた。それに、氷のように冷たい海のマナ。どこかで触れた事がある。
(大丈夫。僕がいるから安心して下さい)
そう囁かれた憶えがある。
大丈夫。
それだけ言って消えた。
おぼつかない夢の記憶を手繰るように思い出してはぽつりぽつりと辿々しく打ち明けていた姫が不意に口をつぐんだ。
シェリアル姫の肩が、握りしめた拳が震えている。
「何が大丈夫なの?」
シェリアル姫が放ったのだと理解するのに瞬き数回の時間を要した。そのくらい俄かには信じがたい激しい怒声だった。
「どうしてそう言いきれるの?私が記憶をなくした事で父様母様をは勿論、ダキア殿下シャオチェ、ラタキア将軍、ジウスドラ参謀、キンツェムのヴァルダナール様、大勢の人を巻き込んでまで何が目当てなの。今もどこかで姿を見せずに様子を窺っているのですか?」
姫の慟哭がシャイヤー湾に響き渡る。
「姿を現しなさい卑怯者。私を苦しめたいだけなら、私一人を標的にすればいい」
姫の記憶を奪った、消したのはサピエンスではなく観察者の可能性が?
ただこれには矛盾が生じる。
声だ。
記憶を奪った者は姫に話しかけた。そう言った。
観察者は奇妙な不快な音を立てるが、声を発しない。いや、多分発しているのだろうが甲高い汚い鳴き声のようなものだ。
しかし、真っ黒い大きな瞳と言うのは。サピエンスの目はまつげに縁どられた紡錘形の白目の中ほどに小ぶりの茶色い瞳があるのが特徴だ。眼球全体が黒いサピエンスなんて聞いたことがない。
ともかく一部とはいえわずかでも姫の記憶が戻ったことは喜ばしい話だ。もしかしたらサピエンスに解除させずとも呪いが解けるかもしれない。アシル城に報告した方がいいだろうという事になった。もうアシルは目と鼻の先だ。
「俺と姫と竜騎士マナ使いで内密に参城する」
急使を遣わすのと同時に行幸の隊が出立した。
舗装道は一本道だ。少しでも早くアシルに着きたかった。
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