第3話 #新妻 #最上階

 退社後は、スマホを片手に街を抜けた。


「ごめんね、遅くなっちゃって。今から向かいます!」


 息を切らしながら言うと、一週間前『夫になるひと』に署名した彼は、電話の向こうで


「気を付けて」


 と紳士に告げる。安堵して通話画面を閉じると、その直後にメッセージの通知がやってくる。その内容に目を通して、私は浮き足立った。


 “ここで待ってるよ”


 その一言とともに、彼が示した待ち合わせ場所は、シティホテルの最上階。つまり、絶品コース料理が待っているということだ。


「退職祝いだからって、ゆうさんはりきりすぎだよ」


 笑みを溢しながら、『了解!』と打つために鞄を右肩に担ぎ変える。そうしてフリーになった左側の薬指を、私は恍惚と見つめた。


「あ。綺麗——」


 掌を翳すのと同時に目を上げると、暖色に彩られたテレビ塔が壮観で、思わず立ち止まる。

 長い冬を越した街に、桜の匂いが漂った。


「ごめんね、優さん。ちょっとだけ……」


 ちょっとだけ、ena に寄り道させて下さい。

 心の中で呟きながら、ベンチに荷を下ろし、花束を塔に捧げる格好で写真を一枚。今度はフィルターの設定を変えてもう一枚——。


「よしっ」


 約三分で、良好な出来の映え写真は六枚ほど。うん、悪くない。

 戦利品を手に入れた私は、急がなきゃ、と再び荷を抱えてヒールを弾く。

 信号待ちの間、編集画面ですぐさま文字を打って投げると、同時に『いいね』の通知が八件も来ていた。お互い様だけど速すぎない?と感心する。

 ちなみに、私が “速い” のは風景を切り取った写真のみで、自分をアップするときには最低でも小一時間はかかる。

 以前、この事を吉岡に伝えると、


 ——現金ね。


 と鼻で笑われたので、


 ——景色は速くて美しい。私は手が込んでいて可愛い。


 と反論すると、


 ——いや、普通に可愛いよ。


 とフォローされて、同時にムッとしたのを覚えている。

 群を抜いて。特段と。輪をかけて——いずれの修飾語もオーケーだけど『“普通に”可愛い』は普通に地雷だ。時を経てから吉岡に抗議すると、彼女は鼻で笑っていた。


 ——何をそんなに特別でいたいの?アイドルにでもなりたいんか?


 その言葉に抗うように、私は鼻息を荒げた。


 ——おばあちゃんのドレスウエディングドレスが一番、格別に似合う女になりたいの!


 吉岡はふーん、と頬杖を突いたまま、


 ——じゃあ、まずは相手から探さないとねぇ。


 と語尾を伸ばした。

 当時、彼女の小指にはピンキーリングが光っていて、学生時代からの相手・・が居たから安泰を確信していたのだろう。この手の話題に持ち込むと頗る上から目線だった。

 しかし、吉岡のピンキーリングが外れ、私の左手薬指にプラチナが通されたとき、形勢は逆転した。


 ——瞳子ちゃん、お先に♡

 ——けっ。


 これが、以前交わした会話、もとい私の抜け駆け宣言である。

 大好きな札幌を離れるのは寂しいけど、夫に付いていくことに迷いは無い。雑誌制作に携わる仕事も好きだったけど、未練は無い。むしろ、新しい門出に際して手放す物があるのは普通だと思う。

 現に、古い名義のクレジットカードにハサミを入れる瞬間、私は幸せを噛み締めた。些細なことだけど、旧姓を手放すことを一番実感できたからだ。


 姓を改め 最上さいじょう 縁凪えな となった私は、ホテルのエレベーターで名前を準えるように最上階を押下する。

 どうやら、後から乗り合いになった若いカップルも行き先は同じらしい。


「どうぞ」


 と、到着後はエレベーターガールの装いで、カップルを先に通した。カノジョの視線がこちらに配られたとき、私は微笑んだ。そして、


「花束のお姉さん、めっちゃ可愛かったね」


 とカレシに囁く後ろ姿に、満足感がほくほくと高まっていく。

 そうそう。これよこれっ。

 吉岡からは得られない成分で、私の足は一層弾んだ。

 カップルが入った『ご宿泊者様向け』の夕食会場を通りすぎ、右に曲がって突き当たり。私を捉えたグリーターの腰はすでに折られ、二十メートル先からの丁重な歓迎が心に刺さる。

 視線の先には目的地である『グリルTEN』が佇んでいた。


「最上です」

「最上様、お待ちしておりました。あ……宜しければお荷物、クロークにお預けになられますか?」


 レセプションで名前を告げた後、綺麗な手を差し出されて一瞬怯む。腕に提がった諸々の重みを思い出したのは、その直後だった。


「あっ、そっか、すみません。お願いします」

「かしこまりました。ではご案内いたします」


 初めてではないけれど、やっぱり慣れない。

 最終出社日の後とはいえ、場に不釣り合いな大荷物と花束を預けながら、顔が熱くなる。私は店内に足を踏み入れ、グリーターの背を追いかけながら俯いた。あの大荷物を持って来ることに違和感を覚え損ねていた自分が、途端に恥ずかしく思えて仕方がない。

 ……いやいや。ダメよ縁凪。こういうときほど堂々と胸を張らなくちゃ。威風堂々、万里一空——座右の銘を浮かべながら、普段より綺麗めに繕ったワンピースを握りしめる。

 座右の銘は、たった一人の肉親である祖母からの受け売りだった。


「縁凪」

「優さん……!」


 案内された窓際に、センター分けの黒髪紳士が舞い降りる。

 正確には折り目正しく座っていたのだけど、緊張の糸が緩んだせいか、見慣れた彼の姿は宛ら天使のようで。けれど、速やかに立ち上がってこちらの椅子を引く仕草は、宛ら王子のようだった。

 三つ歳上の彼はレディファーストが染み付いている紳士で、その配慮を目の当たりにする度に私は心を掴まれた。


「大変だったでしょ。今日までお疲れ様」

「優さんこそ、出向前の忙しい時期にありがとう」


 カトラリーが規則正しく並ぶ脇に、箸を添えるお店の気遣いがとても素敵。ああ、というか、今日もウチの旦那さんは満点星。

 センスの良いオーダースーツを見据えながら、恍惚と、私は彼とグラスを合わせた。

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