第45話 松下さん


 朝の日差しとともに、眠気が一気に吹き飛んでいく。


「……ふぁー」


 垂直に飛び上がり、一気に起きる。水道で顔を洗って、朝ごはんのトースターを1枚と作り置きサラダを食べて、歯を磨く。仕事の9時まではまだ2時間以上あるので、朝から作詞作業をする。どちらかと言えば作曲の方をしたいのだが、このボロアパートは壁があってないようなものなので、あまりにうるさいと『ガンっ!』壁を蹴ってくる隣人がいる。


 松下さんが私のもとから消えて、3ヶ月が経過した。それは、いとも簡単に、あまりにも呆気なかった。まるで、最初からいなかったかのように。もしかしたら、これが俗に言う『小さなおっさん(主に器が)』だったのかもと本気で思ってたりもした。


「……っと、そろそろ時間だ」


 8時20分になって、外に出る。職場のイタリア料理店『ローマの休日』までは、徒歩で十分ほどの距離だ。先日、勤務一年間の達成祝いをしてくれるほどアットホームな雰囲気で働かせて貰っている。


「おはようございます!」


「おはよう。相変わらず元気だね」


「はい! 今日も元気に頑張りましょう!」


 店長の岳さんはいつもどおり笑顔で出迎えてくれる。いつも、不機嫌そうで、あんまり笑わないおっさんとはえらい違いだ。


 岳さんとは松下さんの話はしない。


 松下さんがいなくなって最初の一週間は、どこか出張にでも行っているのかと思った。でも、それ以上経って、それが二週間、三週間と経過した時には、なんか、もう聞けなくなっていた。松下さんは松下さんの意思で私のもとから離れることを選んだのだから、私がそれを問い詰めるのは違うような気がした。


 しょせんは、演者と観客の関係。松下さんはよくそれを口にした。それが、どうしようもなくそうだったことを改めて思い知らされたような気がした。


「サトちゃん、オーダーもう一回言って!」


「はーい!」


 同僚の新内さんは相変わらず綺麗だ。彼女が松下さんのことを話さなくなったのは、きっと私のことを心配してくれているからだと思う。すごく優しくて頼りになって、本当に松下さんなんかにはもったいない人だ。


 私には、こんないい先輩がいる。頼りになる店長もいる。松下さんがいなくなったことで、ほとんどなんの支障もない。唯一、コンビニの差し入れがなくなるくらいのもので。


「お疲れさまでーす!」


「お疲れさまー!」


 仕事が早々に終わって、いつも通り駅前へと向かう。今日は、綺麗な満月だ。春の夜風も微妙に心地いい季節になってきた。


 松下さんがいなくなって、もう一人っきりで演奏するのかと思ってたけど、案外そんなこともなかった。ちょこちょこと足を止めてくれる人もいるし、座って聞いてくれる人もいる。週に3回ほどだけど、話ができる若い女性会社員が来てくれるようにもなった。その人は、社会人3年目で松下さんみたいに、いろいろと職場の愚痴を言って帰っていく。


「……いるわけないか」


 いつもの定位置に座って、曲の演奏をはじめる。歌っているときは、結構無心だ。こんな綺麗な満月の夜に、響く自分の声が心地よく震える。誰も聞いていないかもしれないけど、それはそれでいいようにも思う。自分が歌いたいから歌うのだ。きっと、それでいいんだと、あの人も言う気がしないでもない。


 松下さんがいなくても、平気だ。


 松下さんがいなくなっても、別に普通だ。


 松下さんなんていなくなったって、全然私は大丈夫なんだ。


         ・・・


 なのに……


「なんでだろ」


 こんなに胸がスースーするのは。


 張り裂けそうな痛みでもなく、押し寄せてくる悲しみでもなく、ただ胸にポッカリと穴が空いて、そこから風が吹いているような。


「……フフッ」


 きっと松下さんだったら。『そんなん気のせいだろ』とか、『気まぐれロマンティック』とか訳わかんないこと言って誤魔化して、最後にはきっとよくわからない暖かさをくれる。


 それは、おかしい。


 それは、おかしくて……すこしだけ悲しい。


「……っく」


 いっそのこと、初めから会わなければ。声なんてかけなければ。私はこんな気持ちにもならなかった。松下さんがいなくなって、こんなにも普通に過ごせる自分も、普通に笑える自分にも出会わないで済んだ。そして……こんなにも元気なのに、ただ胸がスースーするだけで、こんな気持ちになることがあるなんて。


「……っく……ひっく……」


 松下さん。


「っく……ひっ……く……ひっく……」








 松下さん。




















 ……松下さん。


















 


 


「お嬢さん、一曲頼むよ」

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