おまえだけは選ばない
白鳥かおる
一人っきりの誕生日
第1話 1
12月21日。
おれは四十一歳になった。
まあ、四十歳も四十一歳も大して変わらない。
おれ・
(おれの人生って、なんだったんだろうな)
テーブルの上に投げられている記入済みの離婚届を、おれは軽く指ではじいた。
(こんな紙切れ一枚で、おれたちの十五年が、なかったことになるんだな)
他人事のようにそう思った。
――― 財産分与は求めません すべて置いて行きます ―――
妻・美弥子はそう書き残していた。
この家はおれの稼ぎではなく、ほぼ美弥子の稼ぎで建てたようなものだ。
離婚が決まった時、おれは自分が出て行くつもりだった。
それなのに、おれが眠っている間に、美弥子はスーツケースひとつで家を飛び出していた。
中学二年生の娘・
一人で住むには広すぎる4LLDKの室内を、ゆっくりと首を回して眺めた。
今おれがいるリビングの隣りには、ここよりも少し広い二つ目のリビングがある。
防音仕様の音楽室となっているその部屋には、ピアノ一台とプロ仕様のバイオリンが三
だけど………。
美弥子のストラディバリウスと沙紀のピグマリウスが無くなり、残っているのは、安価なおれのバイオリンだけだった。
そう ――― おれは音楽家だ。ピアニストでありヴァイオリニストでもあった。
二つの楽器のプロ奏者と聞いて、一般的な人の反応は、
「二刀流なんですね」
「二つの楽器でプロだなんてすごいですね」
大体はリスペクトの対象とされる。
しかし実状はそんな華やかなものではなかった。
指先のしびれと手首の
国内では有名なパシフィックJP交響楽団に籍を置いていたが、三十歳を超えた頃からレギュラーメンバーではなくなり、バイオリンに欠員が出た時の代役とか、バイオリン奏者のピアノ伴奏とか、必要に応じて駆り出されるエキストラという形で、辛うじて席を残していた。
しかし、ここ数年は、悪化する手首や指先のしびれのため、エキストラの需要すらなくなっていた。
そういった現状を踏まえて、普段は自宅で子供たちにバイオリンとピアノを教えていた。
早い話、「何の仕事してるの?」と聞かれたら、不本意ではあるが、「個人経営の音楽教室の先生」と答えるのが正解だろう。
そうそう、仕事と言えばもうひとつある。
楽譜の制作だ。
とは言っても、作曲とかじゃなく、レコード会社から依頼を受けて、すでに世に出ている楽曲を、パート別の譜面に書き写す作業だ。
そこそこの需要があって、時間が空いた時にやれるフレキシブルな仕事だが、報酬は恐ろしく安い。
色々と音楽に関わる仕事をしているが、正直なところおれの稼ぎは微々たるものだし、おれの稼ぎがなくとも美弥子の稼ぎだけで、ゆとりある暮らしは出来ている。
(それでもだ)
おれは一円でも多く稼ぎたかった。
光熱費や食費などの一般的な家計の支出だけは、おれの稼ぎだけで
まあ、それはおれの一人よがりに過ぎないんだけどね………。
おれと美弥子は同い年だ。
美人で聡明な美弥子の事が大好きで、中学の頃から、恋して、
美弥子も音楽家でおれと同じパシフィックJP交響楽団に所属するコンミスだ。
コンミスとはコンサートミストレスの略で、指揮者の左隣で客席側にいるバイオリン奏者で、オーケストラのリーダー的存在だ。
一般的には、コンマス(コンサートマスター)と呼ばれるが、それが女性だとコンミスと呼ばれるだけの話だ。
指揮者を監督とするなら、さしずめ、エースで四番の彼女に対して、おれは補欠 の団員というわけだ。
(美弥子に出会わなかったら、おれはピアノを選ばなかっただろうな)
おれは元々バイオリンが好きで音楽を続けていた。
母が地元のアマチュア楽団のピアニストという事もあって、奏者としての始まりはピアノだったが、ある時おれは、母がピアノを弾くバイオリンコンチェルトで聞いた、叫び声にも似たバイオリンの音色に、子供ながらものすごい衝撃を受けたのだ。
演奏会が終わった後、
「お母さん、ぼくバイオリンが弾きたい」
と真っ先におれの思いを母に告げた。
母は少し驚いていたが、
「いいわよ。ただし―――」
あっさり承諾かと思ったが、条件を一つだけ突き付けられた。
「ピアノは今まで通り続けるのよ」
「わかった」
それが
おれのバイオリンの先生は、その時
バイオリンとピアノの二刀流から二年経った春。
中学生になるのを切っ掛けに、クラブ活動ではバイオリンだけをやろうと決めていた。
ピアノの腕は、一般的には好評だったが、コンクールでは最終選考に残るのがやっとで、金賞・銀賞・銅賞に引っ掛かる事はなかった。
それじゃ、好きでやっているバイオリンは結果が出ているのか?
そう聞かれると、現状はピアノと同じようなレベルだった。
でも、バイオリンのキャリアは、ピアノの1/3だ。
それを思うと、
(伸びしろしかないじゃないか)
成長は
(おれはもっと上手くなれる)
そんな自信もあった。
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