最終章 玲哉の祈り

 四月にリニューアルオープンした薔薇園はなかなかの滑り出しで、マスコミ取材も多く、ゴールデンウィークには駐車場が満車になるほどの盛況ぶりだった。

 俺たちのウエディング写真がSNSで広まったおかげだと紗弥花はよろこんでいたけど、相関関係を計測するすべはないから俺としてはなんとも言えないところだということにしておこう。

 収益よければすべて良し。

 経営コンサルタントに求められるのは結果がすべてだ。

 実際のオペレーションでは、いくつかの不備は出たし、新たな課題も見つかっていた。

 プレミアム路線のレストランとカフェの建設についても、資金繰りの問題は片付いていない。

 それでも紗弥花はスタッフをうまくまとめて毎日前向きに取り組んでいる。

 その姿には頭の下がる思いだ。

 六月に入って、梅雨の晴れ間の昼下がり、久しぶりに休みを取った俺たちは真宮ホテルの近くにある寺院まで墓参りに来ていた。

 紗弥花の祖父母の墓だ。

「結婚記念日が晴れで良かったですね」

「まったくだな」

 あれから一年。

 長かったようで短かくもあり、いろいろなことがあって俺たちの今がある。

「おじいちゃん、おばあちゃん、見ててくれてますか」

 真宮薔薇園から摘んできた花を供えた妻が手を合わせて目を閉じた。


   ◇


 紗弥花の祖父、昭一郎さんは俺の人生の師だ。

 俺の両親は中学の時に交通事故に巻き込まれて亡くなった。

 身寄りのない俺は、真宮昭一郎氏が代表を務めていた真宮文化財団の奨学生として全寮制の中高で学び、大学に進学することができた。

 あれは十三年ほど前だったか、俺が昭一郎さんに大学合格の報告をしにいったときのことだった。

 今も変わらない真宮ホテルの庭園を昭一郎さんと歩きながら話をしていた。

「おかげさまで第一志望に合格することができました。ありがとうございました」

「それは何よりだね。ご苦労さん」

「いえ、苦労ではありません。当然の努力と、その結果です」

「まったく君らしい考え方だな」と、昭一郎さんは朗らかに笑ってくださった。

 と、そのときだった。

 池を回った先の東屋で絵を描いている女の子の姿が目に入ったのだ。

 正直、特に目立つ特徴があったわけでもない。

 むしろ、どこにでもありそうな中学の制服姿で、庭園に溶け込んだかのように地味な少女だった。

 ただ、俺はなぜかその女の子が気になって仕方がなかったのだ。

「……ということだよ」

「あ、はい」

 話に身が入っていない俺の視線の先をたどった昭一郎さんが軽く咳払いをした。

「なるほど、そういうことか」

「あ、いや、すみません」

 すると、同級生をからかうような笑みを浮かべた昭一郎さんが、まったく思いも寄らないことを言い出した。

「君にチャンスをやろう。ビジネスはフェアであるべきだ」

 そして俺は女の子のところまで連れて行かれたのだった。

 近くまで行くと、女の子はわざと俺を見ないようにしながら昭一郎さんにだけ視線を向けていた。

「うちの孫だよ。絵を描くのが好きでね。よく花の絵を描いて私に見せてくれるんだ」

 その少女ははにかみながらスケッチブックを昭一郎氏に向けた。

「ほう、ラベンダーか」と、振り向きながらあたりを見回す。「どこに咲いているのかな?」

「あったらきれいかなって」

「ほほう。なるほどな。今度、庭園担当に話してみるよ。絵が描き上がったら私の所に持ってくるといい」

 そして昭一郎さんは俺を彼女に紹介してくださった。

「こちらは今度大学に合格したうちの財団の奨学生だよ」

 その少女は困惑した目で俺を見ていた。

「ど、どうも、初めまして。久利生……久利生玲哉です」

 男子校育ちで女子慣れしていない俺があまりにもぎこちない挨拶しかできなかったせいか、彼女もひょこりと頭を下げてくれただけだった。

「あ、あの、ショウガクセイっていうのは奨学金を受け取っている学生という意味で……、エレメンタリースクールではありません」

 思い出すのも恥ずかしい俺の黒歴史だ。

「ごめんなさい」と、少女がきっちりと腰を折って頭を下げた。「叱られるんです……、母に。男の人……と、しゃべってると」

 彼女は名前も言わず、逃げるように駆けていってしまった。

「残念だったね」と、昭一郎さんが肩をすくめた。

「いえ、まあ……」

「人の顔色ばかりうかがっているような孫でね。もう少し自分のやりたいことや好きなことを主張してもいいと思うんだが。いわゆる良い子すぎて、ものたりんのだよ」

「でも、わがままな不良になったらなったで心配なんじゃありませんか」

「ははは、それはそれで、たしかに死んでも死にきれんな」

「長生きできますね」

「結局、心配の種は尽きんか。どちらにしろ孝行な孫娘ということだな」

 池の水面に浮かんできた鮮やかな鯉の背中を目で追いながら昭一郎さんが話を変えた。

「なあ、久利生君」

「はい、なんでしょう」

「人の心というものは移ろいやすいものだ。そしてまた世の中というものも時代とともに移り変わる」

「ええ、そうですね」

「だが、人が常に真心を忘れずにいれば、人が大切にしているものは受け継がれていく。それが伝統というかけがえのない財産になるのだ。経営にお金は大事だが、それは真心という土台あってこそ、活きるものだ」

「はい、肝に銘じます」

「君はこれからの人間だ。若いときには誘惑もあれば挫折もある。だが、理想を掲げることを恥と思わないでほしい。それが君の未来であり、その道をともに歩んでくれる人も必ず現れる。それが人の幸せというものだ。その手を決して離すんじゃないぞ」

 そう言って昭一郎さんは俺と向かい合い、握手を求めてきた。

 俺の恩人は、おずおずと差し出した若輩者の手を引っ張るようにつかむと、そこにもう一方の手を重ねてくださった。

 しっかりと握られた手の厚みは今でも覚えている。


   ◇


 情けないことに、去年、大人になった紗弥花と再会した時、それが遠い昔に出会っていた彼女だったことに俺は全く気づいていなかった。

 彼女と一夜を過ごし、庭園で絵を描いていたという思い出話を聞かされて、ようやく記憶がよみがえってきたのだった。

 だが、俺は決して恩人の孫娘だからという理由で、紗弥花を助けたわけじゃない。

 ひたむきで純粋な彼女の心が冷徹な俺を変えたのだ。

 それが愛だというのなら、俺は喜んで認めよう。

 ――案外、ロマンティストなんだな、俺は。

 目を開けると、お墓に向かって紗弥花はまだ手を合わせていた。

 邪魔にならないようにスマホを取り出し時間を見る。

 南田さんからもらった昭一郎さんの子守り写真が俺のロック画面だ。

 ――俺はお眼鏡にかないましたかね、昭一郎さん。

 と、目を開けた紗弥花が隣で微笑んでいた。

「どうした?」

「なんだか今、ふと、おじいちゃんの笑顔が思い浮かんだんです」

「そうか」

 見上げると、澄み渡る六月の青空が目にしみるほどまぶしかった。

 木々の向こうに東京タワーがそびえている。

「なあ、紗弥花」

「はい」

「あれに登ったことあるか」

「いえ、そういえば、ないですね。スカイツリーはありますけど」

「歩いて行ってみないか」

「今からですか? でも、車を待たせてますよ」

「いいから」と、愛する妻の肩を抱く。「せっかくの休日だ。つきあえよ」

「はい」と、紗弥花も空を見上げた。「こんなに天気が良いのも久しぶりですもんね」

 二人並んで歩き出す。

 愛しい妻の笑顔が今の俺の宝物だ。

 紗弥花が鼻を突き出して風の香りをかいでいる。

「どうした?」

「どこかでラベンダーが咲いてるのかも」

「どこかのお墓のお供え物かもな」

「でも、見当たりませんね」

「ここで咲いてるんだろ」と、俺は自分の胸を親指で指した。

 くすくすと妻が笑い出す。

「案外、ロマンティストなんですよね」

「知らなかったのか。俺を誰だと思ってる?」

「ええと」と、妻が腕に絡みついて俺を見上げた。「私の大事な旦那様?」

 ――ああ、そうだよ。

 愛してるよ、紗弥花。

「え? なんか言いましたか?」

「べつに、何も」

「えぇ、もう一度言ってくださいよ」

「今日の夕飯は酢豚にしようって言ったんだよ」

「あ、いいですね。パイナップルはどうしますか?」

「ん? 入れた方がいいか?」

「ええとね、どうしようかな……」

 陽気な妻が俺の腕を離して駆け出す。

「おい、待てよ」

「本当のことを言ってくれないから待ちません」

 ――なんだよ、バレバレかよ。

 すぐに捕まえてやるよ。

 俺が手を離すわけないだろ。

 ビルの谷間に俺たちの笑い声が響く。

 坂の上にそびえる東京タワーを目指しながら、俺たちは夢中になって追いかけっこを楽しんでいた。

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紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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