intermission ~ 玲哉side ~
いったい俺は何を間違ったというんだろうか。
紗弥花の出て行ったマンションは一瞬にしてぬくもりを失っていた。
揚げたばかりの唐揚げすら、霜に覆われた冷凍食品のようだった。
LEDのシーリングライトを背に窓辺に立つと、憔悴した俺が映っていた。
スマホが震える。
妻からの連絡かと飛びつくと、高梨からの電話だった。
「なんだ?」
「なんすか、機嫌悪そうですね。夫婦喧嘩でもしたんですか」
勘がいいのも困りものだ。
「実家に帰るって、紗弥花が出て行ってしまったんだ」
「へえ、ソウナンデスカ。じゃ、また」
わざとらしい棒読みで、かすかに笑いもふくんでいる。
「聞けよ」
「やですよ。めんどくさい。書類はアップロードしますんで、仲直りしたら見てくださいよ」
「仲直りできないかもしれないんだ」
「急に乙女にならないでください」
「なんでもおごってやるから助けてくれ」
「そう言えばなんでも解決すると思ってるから、奥さんに逃げられるんですよ」
――ったく……
何も言えなくなってしまう。
「で、何が原因なんですか?」
「ちゃんと話を聞いてやってるつもりで、全然聞いてなかったんだ。良かれと思って自分の考えを押しつけていた」
「あーあ、もうその段階でだめじゃないですか」
「ああ、気づくのが遅すぎた」
「違いますよ」
あきれたようなため息が聞こえる。
「聞いてやってるつもりとか、何様ですか」
「いや、だって……」
「奥さんは話を聞いてほしいなんて思ってないんですよ。だって、話を聞いてもらうためには話さなきゃならないじゃないですか。なんで聞いてもいない相手に話してやらなくちゃならないんですか」
あっ……。
殴られたような衝撃で俺は思わずテーブルに手をついた。
「何でも言葉で伝えて理解し合えるんだったら、この世はとっくに世界平和を達成して、今頃歌って踊ってのエンドロールが流れてますよ」
「なあ、教えてくれ。じゃあ、どうすれば良かったんだ」
バッカジャナイデスカと、変なアクセントで笑われる。
「だから、正解なんてないんですって。算数ドリルでもやってなさいよ」
ぐうの音も出ないでいると、スマホから高梨の冷静な声が続いた。
「先輩はなんで二次元がモテるか分かりますか」
――なんだよ、いきなり。
今はそれどころじゃないだろうに。
「さあな、分からん」
「二次元は余計な正解とかソリューションを押しつけないからですよ。都合のいい時にただそこにいてくれるだけ。だから一緒にいて気楽でいいんじゃないですか」
「俺は一番最悪ってことじゃないか」
「ですよ。今頃ですか?」
ダカラモトカノ……、あとは俺の耳には何も入ってこなかった。
なんでも悩み事を聞くよというのは、相手に苦しみを再現させることなのか。
なんで言ってくれないんだというのは、なぜ苦しみを思い起こそうとしないんだと責めているようなものだ。
そんなのただの拷問じゃないか。
俺は弁護士だから、真実を突き止めるためにそうすることが当たり前だと思っている。
何があったのか、どんなことで損害を受けたのか。
裁判ではそれを主張してもらわなければならないからだ。
それを明らかにすることが仕事だから、俺はつい、なんでも話してくれと言ってしまったんだ。
これじゃ、家庭が法廷になっていたんじゃねえかよ。
そもそも夫婦だからってなんでも話したいわけじゃないんだろう。
思い出したくないことだってあるだろうし、俺が理解できたところで、彼女の中からその苦しみが消えるわけでもない。
俺に寄りかかったところで、楽になんかなれないんだ。
なのに、俺はそんな彼女の苦しみに塩を塗り込めるようなことをしていたくせに、『良い夫』を完璧に演じているつもりだったなんて。
俺がしていたのはただの尋問と強要、そして洗脳だ。
サイテーじゃねえかよ。
「ちょっと、聞いてます?」
「あ、ああ……」
「正解で解決するなら、今頃世界平和で、以下同文ですよ。この世はすべてNG集なんです」
「どうしたらいいんだ?」
「先輩はどうしたいんですか?」
――どうしたい?
俺はいったいどうしたいんだ?
「『顧客のニーズに隠れた本質を探るのが俺の仕事だ』っていつも偉そうに言ってたくせに、自分のことは何も分からないんですね」
――ああ、何も分からない。
だが、だからこそ分かることが一つある。
「俺は紗弥花を失いたくないんだ」
「そういうことこそ、ちゃんと伝えたらどうですか?」
あ、そうそうと笑い声が聞こえる。
「薔薇百本とかやめてくださいよ」
「そっ、それくらい俺にでも分かるさ」
――ふう、危ないところだった。
「じゃ、いいですけど。そいじゃ」
電話が切れた。
スマホを持つ手が震えている。
人間は不完全だし、判断材料が足りない場合もある。
下した決断は間違いの方が多いかもしれない。
誰だ、そんなことを言ったやつは。
――俺か。
全くその通りだな。
だが、その一つ一つの決断がその人を作る。
そう、だから今の俺がいる。
正解か間違いか、そんなことはどうでもいい。
俺は部屋を飛び出して駐車場へ駆け下りていた。
運転席に座り、エンジンをかける。
東京まで一時間。
深い夜の闇へと白いセダンが走り出していた。
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