第6章 新しい生活

 真宮ホテルのパジャマをおそろいで手に入れてから区役所へ行き、無事に婚姻届を提出して正式に夫婦となった私たちは、玲哉さんのマンションに帰ってきた。

 新しいパジャマ以外に新婚らしさはないけど、昨日出会ったばかりの私たちにとって、それでもまだあるだけましなんだろう。

「あのう、今日は私が夕食を作ってもいいですか?」

「そうか。なんだか照れくさいな。新妻の手料理なんて、想像するだけでもむずがゆくなるぞ」

 上着を脱いでハンガーに掛けている夫の背中が広い。

「冷蔵庫の食材とキッチンの調理器具、好きに使ってもいいですか?」

「ああ、もちろんだ」と、舞台俳優のように大げさに手を広げながら歩み寄ってくる。「今日からここは俺たち夫婦の家なんだ。何でも好きなように使ってくれよ」

「じゃあ、遠慮なく使わせてもらいますね」

 私が冷蔵庫を開けて材料を取り出している間、玲哉さんはシャツの袖をまくりながらそばに立ってじっと見ていた。

「時間がかかりますから、くつろいでいていいですよ」

「ああ、いや、何か手伝おうかと」

「大丈夫ですよ。お料理はそれなりに自信ありますから」

「まあ、なんだ……。二人の共同作業ということで」

 私は卵を持った両手の甲で玲哉さんの胸を押した。

「一人でやらせてくださいよ」

「なぜ?」と、意外そうな顔で口をとがらせる。「鶴の恩返しじゃあるまいし。隠すことないだろ」

「玲哉さんはお料理できるじゃないですか。口出ししないで我慢できますか」

「いやまあ、たぶん……」

「新婚早々言い争いになるのが目に見えてますよ。玲哉さんだって朝食を一人で作ってたじゃないですか。私が鶴みたいに飛んで行っちゃっても、それでもいいんですか?」

「あ、いや、そうか……」

 物わかりの良い旦那様はグラスに炭酸水を注ぐと、リビングの事務所スペースに退散してくれた。

 さてと、まずはご飯を炊かないと。

 新婚初日にお約束の失敗なんてしたくないものね。

 先に炊飯器を早炊きでセットしておいて、キッチンの棚から鍋やフライパンを取り出してコンロに並べる。

 今朝作ってもらったみたいに茹で野菜のサラダにしようかな。

 お料理に添えてもいいし。

 ブロッコリー、アスパラ、ジャガイモ、ニンジン、セラミックの包丁がどれもすっと入る。

 機能的でよくお手入れのされた包丁使ってるのね。

 お料理好きなんだろうな。

 ちょっとハードル高そうだけど、気に入ってもらえるかな。

 お味噌汁は具だくさんの鍋物風にしようっと。

 冷蔵庫に、ビニールパックに入ったカット野菜の余りがある。

「玲哉さん、これ使ってもいいですか」

 扉から顔と手を出してたずねると、いったんうつむいてからわざとらしく顔を上げてくる。

 じっとこっちを観察してたのバレバレですよ。

「お、おう。むしろ、悪くなるといけないから使ってくれた方がありがたい」

「じゃあ、遠慮なく」

 灰汁抜きしたゴボウのささがきと椎茸、それに銀杏切りにした大根が揃っていて、手間が省ける。

 豆腐はわざと菜箸でグズグズに崩して鍋に入れ、コンニャクも手でちぎる。

 冷凍庫にあった牛肉の細切れをパックから半分だけ出し、凍ったままザックリと包丁を入れて投入。

 豚汁ではなく、牛肉で、山形名物の芋煮汁風だ。

 里芋を入れてないから芋煮というには変なので、あくまでも芋煮『風』だ。

 丁寧に灰汁取りをして、味付けは味噌半分に醤油とみりんを加えて整える。

 これはおじいちゃんが大好きだったから良く作ってあげてたのだ。

 で、コトコト煮込んでいる間に今晩のメインを。

 ブリの切り身があったので、フライパンにニンニクとオリーブオイルを多めに入れて泳がせながら蓋をして焼く。

 裏返す時に強めにコショウを振る。

 草むらから顔を出す猟犬みたいに玲哉さんが鼻を突き出している。

「いい香りだな」

「期待しててくださいよ」

「正座して待ってる」

 ――お預けじゃないんですから。

 味付けはイタリアンドレッシングにめんつゆを混ぜた物を回し入れる。

 火を止めて蓋をしたまま余熱でタレをなじませている間に、汁物も完成。

 ええと……。

「食器はどうしましょうか。二人用のセットなんてありますか」

 待ってましたとばかりに飛んでくる。

 お利口さんな猟犬ですこと。

「来客用にそろいのティーセットはあるが、他の食器はバラバラだな」

 ――二人で買いに行く楽しみができて、それはそれでうれしい。

「じゃあ、使えそうなのを出してくれますか」

「おう、任せろ」

 ちゃんと手を洗ってから手際よく食器を並べていく。

 ホント、お利口さん。

 盛り付けをしている横で料理の香りをかいでいる夫にたずねた。

「玲哉さんはお酒飲みますか?」

「紗弥花は?」

「ごめんなさい。私、全然だめなんです」

「ああ、そうなのか」と、手をもみ合わせる。「奈良漬け一枚でってやつか?」

「それが、臭いだけでも苦手で」

「ああ、それは本物の下戸だな。無理に飲まない方がいいだろ」

 玲哉さんは首を振りながら肩をすくめた。

「ごめんなさい。一緒に楽しめなくて」

「いや、気にするなよ。俺も付き合いでたしなむ程度で、ふだんは家では飲まないんだ」

「そうなんですか」

 リビングに家庭用ワインセラーがありますけど。

 私がチラリと目をやると、玲哉さんは苦笑しながら手を振った。

「あれは来客用とか、余ったら料理に使ってるだけだ。数千円程度で、そんなに高級な銘柄はないぞ」

 本当なのかな。

 せっかくの楽しみだろうに、申し訳ない。

「私はお付き合いできませんけど、気にしませんから、良かったらどうぞ」

「いや、本当に心配ないよ。ふだんは、ほら……」と、さっき炭酸水を注いでいたグラスを掲げた。「これなんだ」

 と、盛り付けも済んで、テーブルに並べる。

「二人分だから狭いな」

 今朝もきつかったけど、夕食もかなり窮屈だ。

「なんでも二人用にしていかないとな」

 楽しそうにそんなふうに言ってくれるのがうれしい。

 急に押しかけちゃってごめんなさい。

 茹で野菜のサラダ、芋なし芋煮風汁、ブリのイタリア風照り焼き、そして炊きたてご飯。

「こんな感じでいいですか?」

「最高じゃないか。どれ、いただきます」

 わんぱく小僧みたいに腕を振り上げて、まずはサラダに箸を入れる。

「お、和風……、いや、中華風な味付けなんだな」

「ええ、冷蔵庫にあったごまドレッシングに醤油とラー油を加えてあるんです」

「いいアレンジだな。うまいよ」

 ひょいぱくひょいぱくとあっという間にブロッコリーやアスパラが消えていく。

 それから一口だけ芋煮風の汁をすすった玲哉さんが、ほうっと笑顔になった。

「食べたことないのに、なんだか懐かしい感じがする味だな」

「食べたことないのにですか」と、思わず笑ってしまった。

「不思議だな。でも、うまいぞ。豚汁よりもさっぱりめで、脂も柔らかい味わいだな。これはいい。おかわりし過ぎてしまいそうだな」

 それは何よりです。

 まだいっぱいありますよ。

「これは誰から教わったんだ?」

「ああ、祖父ですかね。うちは母が料理をしなくてホテルから調理師の人が来てたんですけど、これだけはよく祖父が元気だった頃に自分で作ってたんですよ。それで私も真似して作るようになったんです」

 へえ、そうなのかと、玲哉さんは何か考え事をするようにお椀を見つめながらコンニャクを噛んでいた。

「もしかしたら」と、玲哉さんが顔を上げる。「おばあさんの得意料理だったんじゃないのか?」

 ――あっ、そうか。

「そうかもしれませんね」

 それは気がつかなかったな。

 おじいちゃんにとって、思い出の料理だったのか。

 なんだか急に私も懐かしい味に思えてきた。

「不思議ですね。そう考えると味わいもぐっと変わりますね」

「ああ、でも、本当にうまいな。具だくさんだからこれだけでも十分ご飯のおかずになるし」

 と言いつつ、今度はブリに箸をつけた。

「これは照り焼きなのか?」

「ええ、和風とイタリアンの折衷料理です」

 どれどれと一切れほぐし、よくタレを絡めて口に入れたとたん、玲哉さんの目が丸くなる。

「うおっ、これは新しいな。オリーブオイルとニンニクでイタリアンなのに、味は確かに和風だ」

「めんつゆが簡単で、意外と合うんですよ」

「本当だな。紗弥花は天才だな」

 やだ、もう、褒めすぎですって。

 でも、お世辞でも何でもなく、玲哉さんはぺろりと完食だった。

「足りなかったですか?」

「いや、満腹だよ。うますぎてつい箸が進んでしまった。いや、満足満足。本当にうまかったよ」

「良かったです」

 玲哉さんが席を立つ。

「食後はコーヒーとお茶、どっちがいい?」

「ああ、じゃあ、ほうじ茶なんてありますか?」

「いや、すまん。緑茶しかない。ほうじ茶が好きなのか?」

「ええ、でも、じゃあ、緑茶をお願いします」

 玲哉さんが急須にお茶の葉を入れながらしみじみとつぶやく。

「新しいことを知るのは楽しいな」

 そうですね。

 私ももっと知りたいですよ。

 お茶の葉が広がるほんの短い間に玲哉さんが蕪と白菜の漬物を切って出してくださった。

「甘い物の方が良かったか?」

「いえ、祖父もこれが好きでした」

 ほんのりきいた柚子と昆布の味が優しい。

 ポリポリコリコリとおいしい音がする。

「明日ほうじ茶を買いに行こうな」

「テーブルとかも見てきましょうか」

「ああ、いいな。皿もだろ」

 やらなくてはならないことがたくさんある。

 だけど、それは一つ一つが私たちの生活を組み上げるパズルのピースになっていて、しかも、全部自分たちで決めて好きなところにはめこんでかまわない。

 それはとても楽しくて、どんな絵柄になるのか考えるだけでもうれしくなることなんだ。

 玲哉さんの笑顔を見ながら私はそんな幸せをかみしめていた。


   ◇


 食後の片付けは玲哉さんがやってくださった。

 というより、やらせてもらえなかったといった方が正しい。

 料理をしたのも私だから片付けもしようと思っていたのに、玲哉さんからストップがかかったのだ。

「言いにくいんだが、俺なりのやり方っていうのがあってだな。たとえば、油汚れを落とすにはこのスポンジとか、この洗剤とか、まあ、つまらんこだわりなんだが、いつもと違うやり方をされてしまうと、かえってがっかりしてしまうんだよ。仕事でも、そういうことってあるだろ。メールのやりとりのタイミングとか、ペンが違うだけで字が書きにくいとか」

 そう言って、鼻の頭をかく。

「細かすぎて引くか?」

「そんなことないですよ」と、私はふるふると手を振った。「分かります。違うところに物を置かれちゃって、なくなったかと焦ったりしますよね」

「ああ、だから、お互いにルールというか、生活習慣をすりあわせるのって大事だと思うんだ」

 ――そっか。

 結婚って、他人だった二人が一緒に暮らすことだもんね。

 玲哉さんの考えは合理的で、すごく重要なことを言ってるんだと思う。

「俺たちは昨日今日で、そういうことを確認する時間なんてなかっただろ。だから、とりあえず、お互いの習慣を理解し合えるまでは、やらないでほしいことは喧嘩にならないようにはっきりさせた方が良いと思うんだ」

「そうですね。私も勝手にやらないようにしますね」

 玲哉さんが手を広げながら申し訳なさそうに頭を下げた。

「すまん、なんか冷たい言い方になってしまって」

「いえ、逆に、そういうことが大事なんだなって分かって助かりますよ」

「ありがとう。そう言ってくれるとうれしいよ」

 玲哉さんが私と向かい合い、腰に手を回して抱き寄せる。

「キスは、いつしてもいいか?」

「うーん、どうしましょうか」

 玲哉さんが笑いをこらえきれずに吹き出す。

「そこは迷うなよ」

「だって、今日のエレベーターみたいに人目があるところだとやっぱり恥ずかしいですよ」

「そうだな。悪かったよ。これからは気をつけるよ」

「じゃあ、今はいいですよ」

「じゃ、遠慮なく」

 ホント、遠慮なんかないんだから。

 食後のキスはとても濃厚で、デザートにしても甘すぎました。

「でも……」

 息が苦しくなるほどのキスの後に、なんとなく気になったことを聞いてみた。

「ずいぶんと実感のこもった話でしたけど、前に嫌な経験でもあったんですか?」

「ん」と、一瞬困惑した表情を浮かべた玲哉さんが首を振る。「ああ、もしかして勘違いしてるのか。女性関係じゃないぞ。事実はもっと冴えなくてさ」

 真相は、留学時の寄宿舎の話だった。

「奨学金をもらって留学してる身分だから、贅沢は言えなくてな。安い寄宿舎に入るしかなかったんだよ。日本と違って国籍とか文化とかが多様で、まさかと思うような食い違いばかりで、正直、途中で帰国したくなったくらいでね」

 たたんでおいたタオルを勝手に使われるとかは全然ましな方で、トイレの水を流さないとか、部屋の中でつばを吐くとか、夜中に音楽を流すとか、ちょっと考えられないようなことが当たり前だったらしい。

 相当なトラウマなのか、渋い表情で、自分の身を守るみたいに固く腕組みをしながら話していて、聞いたこちらが申し訳なくなるほどだった。

 ――私も気づかないで、何かやらかしたりしないかな。

「そんなに深刻に考えないでくれよ。常識的な程度の問題だからな」

 だといいんですけど。

「心配するなよ。一緒に寝てて、いびきとか歯ぎしりはなかったからさ」

 ちょっ……。

 え、ホント?

 私、大丈夫ですよね。

 なんか、かえって心配になっちゃう。

 変な寝言とか言っちゃってたらどうしよう。

 玲哉さんはそんな私の気持ちに気づいていないのか、お皿洗いに取りかかってしまう。

「やってる間、先にシャワー浴びてきたらいいんじゃないか」

 なにげないそんな言葉も、新婚夫婦だと、意味ありげに聞こえてしまう。

「あ」と、玲哉さんが苦笑いを浮かべた。「いや、まあほら、おそろいのパジャマ着るの楽しみにしてただろ」

「あ、そうだった」

 じゃあ、お先に行ってきまぁす。


   ◇


 シャワーを浴びている最中に、ふと、昨日の『こと』を思い浮かべてしまった。

 そういえば今夜って、新婚初夜っていうものだよね。

 きっと昨日みたいなことをするんだろう。

 ちゃんときれいにしておかないと。

 念には念を入れておいた方がいいよねなんて、鏡に自分を映しながらあちこち見ていたら、急に恥ずかしくなってしまった。

 何やってるんだろう、私。

 全部見られちゃったし、いろんなことされちゃったけど、そんな私を受け入れてくれたんだから、心配しなくたって大丈夫でしょ。

 浴室から出ようとして、バスタオルを用意しておかなかったことに気がついた。

「玲哉さん」

 ドアを少し開けて顔だけ出して呼んだら、すぐに駆けつけてくれた。

「どうした?」

「ごめんなさい。バスタオルはどれを使ったらいいですか」

「ああ、すまん。これだ」

 英国王室紋章入りのバスタオルだ。

「これ、そろえてるんですか」

「イギリスに行った時にまとめて買ってきた。ヒースロー空港の近くにウィンザー城があって、帰国の日に少し時間があったから寄ってきたんだよ」

「すごくふかふかですよね」

「何度洗っても肌触りがいいんだ。どうぞ、姫様」

 バスタオルを広げて私の体に巻いてくれる。

「ありがとうございます、王子様」

「本当はこのままベッドに連れて行きたいところだけど、俺もシャワーを浴びてからにするよ」

「そこは強引にさらってくれなくちゃ」

「扱いの難しいお姫様だな」と、笑いながらドライヤーが差し出された。「風邪引くなよ」

「はぁい」

 私が髪を乾かしている間に、玲哉さんはキッチンへ戻っていき、どこかに電話をしているようだった。

 パジャマを着た私がリビングへ行くと、ちょうど電話を終えたところだった。

「さっそく出資者が現れたぞ」

「え、そうなんですか」

「ホテルチェーンの買収で有名なシンガポールの投資ファンドだ。もちろん、まだ、候補だけどな。結構前向きらしい。他にも数件興味を示しているところがあるそうだ」

「倒産しなくてすみそうですか」

「ああ、それは大丈夫だろう。あとは真宮ホテルのあり方をどうするか、一番いい条件を打ち出してきたところと交渉を進めていくことになる」

 倒産寸前なんだから贅沢は言えないんだろうけど、なんとかここまで受け継がれてきた真宮ホテルが残るようにしてほしい。

「俺もシャワーを浴びてくるよ。ゆっくりしててくれ」

 そう言われても、何もすることがない。

 家から何も持ってきてないんだものね。

 と、広いリビングにぼんやりと突っ立っていたら、急に耳元でささやかれた。

「パジャマ、かわいいぞ」

 シャワーを浴びに行ったと思っていたからびっくりして振り向くと、片目をつむった玲哉さんが人差し指を突き出していた。

 やっぱり目が痛い人みたいだ。

 でも、褒められてうれしい。

「玲哉さんも早く着てきてくださいよ」

「おう、待ってろ」

 リビングの窓には昼から変わらず雨が打ちつけている。

 暗い窓には東京タワーの照明がぼんやりと浮かび、白いパジャマ姿の私が映っている。

 梅雨の季節のジューンブライド。

 白いパジャマが私のウエディングドレス。

 新郎はお色直しの最中です、なんてね。

 新しい生活が始まることに不安はない。

 かといって、あの重苦しい空気の家から解放されたという喜びもあまり感じない。

 お母さんは今、どうしているんだろう。

 会社を救うために言いなりにならなかった私のことを裏切り者だと思っているんだろうか。

 一生許されないんだろうか。

 昨日までなら、それは恐怖でしかなかった。

 でも、今は怖くない。

 私は一人じゃない。

 支えてくれる人がいる。

 私の苦しみを理解してくれた人がそばにいる。

 大丈夫、怖くない。

 私は暗闇の中に浮かぶ自分に向かって暗示をかけていた。

 と、いきなりだった。

 私は後ろから抱きしめられていた。

 ――ひぁっ!

 それはとんでもない恐怖だった。

 大丈夫だと励まされていた時に、いきなりバンジージャンプの踏み台が抜けたような恐怖感だった。

 思わず崩れ落ちそうになった私を支えてくれたのは、いつの間にかシャワーから出てきていた玲哉さんだった。

「す、すまん。まさかそんなに怖がるとは思わなかったんだ。後ろに気づいていないみたいだったから、ちょっとびっくりさせようと思っただけなんだ」

 見上げる玲哉さんの顔がぼやけている。

 私は泣いていたらしい。

「大丈夫か?」

 うずくまった私に目線を合わせて玲哉さんが立たせてくれる。

「ごめんなさい。考え事をしていたから……」

 体が震えて声も出ない。

 そんな私を後ろから今度はそっと抱きしめてくれる。

 暗い窓に私と玲哉さんが映っている。

 自信に満ちたさっきまでの私はもうどこにもいなかった。

「すまなかった。家のことを考えていたのか」

 この人はすべてお見通し。

 隠しても心配させてしまうだけ。

 私は玲哉さんの腕に顎を乗せるようにうなずいた。

「怖いのは当たり前だ。怖いという感情を抱くのは悪いことじゃない。自分の中にある感情を意識することから、自分を解き放つ一歩が始まるんだ。そんな君の気持ちを分かっていたはずなのに、驚かせてすまなかったな」

「いえ、大丈夫ですから」

「自分が何を怖がっているのか、決して強がって否定したり、封じ込めてしまう必要はないんだ。恐怖と向かい合うことができているだけで、それは大きな前進なんだよ」

 玲哉さんの言葉はすうっと私の心の中にしみこんでくる。

 今までは渦に巻き込まれて自分自身を見失ってばかりいた。

 だけど今は自分が何を恐れ、何を拒絶しようとしているのか、ちゃんと向き合うことができている。

 どんな勇者だって、巨大な魔物を前にしたら震えおののくだろう。

 だけど、目の前にいる敵の姿がはっきりと見えるだけでも、不安は消えていくのだ。

 なんだか分からない恐れや怒りほど自分をむしばむものはない。

 私は決別するべき対象をはっきりと客観的に、今まさに暗い窓の向こうに移る自分の姿のように、自分自身の外側に出すことができたのだ。

 もう内側に魔物はいない。

 それだけでも昨日と違う大きな進歩なんだ。

「玲哉さん」

 彼の腕の中で私はくるりと向きを変え、笑顔を作って見せた。

「パジャマ似合いますよ」

「ん、そうか」と、彼も笑顔を返してくれる。

 ――そう、それでいい。

 新婚の二人を演じることが、今の私たちにとって一番の癒やしなんだ。

「新しいパジャマの匂いって、新しい生活だなって感じがしていいですよね」

「そうか。どんな匂いだ」

 クンクンと私のことを嗅ぎ回る玲哉さんから逃げようとすると、意地悪してかえって腕に力を込められてしまう。

「紗弥花はいい匂いがするな」

「もう、やですよ。変なところ嗅がないでください」

「じゃあ、ここはどうだ?」

 玲哉さんが私の胸に顔を埋めてくる。

「パジャマの匂いがするぞ」

 そのままソファに押し倒されて、獲物を探す猟犬と化した夫にいろんな所を嗅がれてしまう。

 もう、そんなところまで。

 いつの間にか器用な指先にボタンを外されていた。

 せっかくおそろいになったパジャマなんて、もうそんなことはどうでも良くなっていた。

 どうせ脱がされるために着たんだし。

「愛してるよ、紗弥花」

「私も……」

 月並みな言葉をささやくことすらもどかしく、彼の愛撫は激しさを増していく。

 こうして私はまた、昨日と同じように、この男の作り出す沼に溺れていくのだ。

 その沼から浮かび上がるのは、金の私、銀の私、それともあなたしか知らない私?

 今日もまた、私も知らない私の引き出しが彼の技巧によって開け放たれ、羞恥心というスパイスが彼の欲望をあぶり出す。

 狂おしいほどの初夜の儀式がソファの上で始まっていた。


   ◇


 それから一週間後、私たちは千葉に引っ越していた。

 アクアラインから車で十数分の市街地にある賃貸マンションをネットで見つけ、その日のうちに内覧に行って即決だった。

 東京のマンションも賃貸だったし、仕事もネット環境さえあればリモートで済むのがほとんどだったから、玲哉さんの方にも問題はなかった。

 東京の家賃に比べたら三分の一で、広さは二倍、玲哉さんの仕事部屋も独立させられた。

「薔薇園にも近いし、俺が用事で東京に出る時もそんなに不便じゃない。最寄り駅は快速も停まるしな」

 私は薔薇園の臨時社長代行に就任した。

 それまでは父が形式的に社長を兼任していたので放置状態だったのを、正式に私が再建に取り組んで良いように取り計らってくれたのだ。

 私は通勤用に原付免許を取り、近所のお店で早速中古のバイクを購入した。

 近いうちに教習所に通って自動車の運転免許も取得する予定だ。

 最低限の荷物だけで引っ越しを済ませ、必要な物は現地で買い集めた。

 少し大きめのテーブル、二人おそろいの食器、それぞれ選んだお気に入りのクッション。

 カジュアルなファストファッションで、おそろいというわけじゃないけど、着心地の良い服をいくつかそろえた。

「昭和のペアルックみたいなのはいいのか?」

 どうも玲哉さんの方が着たがっているみたいだったけど、私の方で遠慮させてもらった。

 自分名義のクレジットカード、スマホも契約した。

「なんだか逃亡して別人になりすました映画の主人公みたいだな」

 工場地帯越しに東京湾が見えるマンションのベランダで炭酸水を飲みながら玲哉さんが笑う。

 実際、こうした一連の出来事は私にとってはこれまでの自分からの逃走だった。

 結局、母とはあれから会っていないし、何の連絡もない。

 私が薔薇園の経営者になることも、株主として賛成も反対も言われていない。

 でも、それはもうどうでもいいことだった。

 無理に和解する必要はないし、たぶんできないんだろう。

 少なくとも向こうが変わらない限り無理なことは明らかだったし、ならば私にできることなんて何もないのもはっきりしていた。

 私はすでに新しい生活に慣れ始めていたし、薔薇園を再建するための仕事が忙しくて、余計なことを考えている余裕などなかった。

 そういった日常が過ぎていくと、今までが異常だったんだなと実感する。

 一人の人間として、自分で考え、自分で選び、自分で決める。

 生まれ育った土地を離れてまだあまり知らない街を歩いていると、そんな当たり前のことをやってる人ばかりで、今さらながらに驚いてしまう。

 それでもやっぱりすごいと思うのは、何事も即断即決の私の旦那様だ。

「迷ってもしょうがないだろ。やるべきことがはっきりしているんだから、迷う必要がない。簡単なことだ」

 それが大変な人もいるんですよ。

 ついていくだけでも必死なんですから。

 だけど、優柔不断な私の背中を押してもらえるんだから、ありがたいことなんだと思う。

 狭い檻から出してくれた旦那様が作ってくれた夕食を食べ、おそろいのパジャマで眠る。

 毎晩のようにベッドでかわいがってくれるあなた。

 生理の時には気づかって触れないようにしてくれる。

 ありがとう。

 私は幸せですよ。

 夜中にスマホでネットニュースを見て世の中の動きを知る。

 株式市場や為替相場、原油市場、全然関係のなかった世界も関心事になっていく。

「スマホって便利ですね」

「今時年寄りでもそんなこと知ってるけどな」

「おばあちゃんになるまで愛してくれますか?」

「当たり前だ。死んでも来世でまた探してやるさ。俺はしつこいぞ」

 ――ねえ、玲哉さん。

 本当に探しに来てくださいよ。

 あなたが来てくれなかったら、化けて出ますからね。

 あなたの知らない私の秘密。

 本当は私の方がしつこいのかもしれませんよ。

 ベッドサイドで玲哉さんのスマホが震える。

「ん?」と、手を伸ばして取り上げる。「アメリカからだ」

 横目で見ると、ビデオ通話の小さな画面に頭の丸い男性が映っている。

“Hi, Rich.”

 画面の中の相手はパジャマ姿の玲哉さんが珍しいようだった。

"Hey, Reiya! What's goin'on?"

"Just married."

"Wow! You Kidding."

"Not joke. This is my wife."

 画面の中に引き出されてしまったので、思いついた英語であいさつをした。

「ナイストゥミーチュー。アイムサヤカ」

"What! Same pajamas!"

 その後は画面をはみ出るジェスチャーと早口で聞き取れなかった。

「ずいぶん手の込んだジョークだなって。CGかAIにしては良くできてるだってさ」

「違います。本当です。リアリー。シリアス。ヒーイズマイハズバンド。マイダーリンです」

「本気にするなよ。向こうもジョークだから」

 玲哉さんはベッドから抜け出すと仕事部屋へ行って会話を続けていた。

 一人残された私は、自分のスマホを握りしめたまま枕に顔を埋めた。

 明日も仕事だ。

 先に寝ますね。

 ――おやすみなさい、玲哉さん。


   ◇


 朝はスマホのアラームが鳴る前に王子様のキスで起こされる。

「朝飯できたぞ」

「ん……、おはようございます」

 眠り姫は朝が苦手です。

 梅雨が明けて、最近は朝から気温が高い。

 窓の外には広い青空と白い煙を吐き出す工場、そして、その向こうに東京湾が輝いている。

 遙か遠くの羽田空港から飛び立った飛行機が急旋回しながら上昇していく。

 背伸びをしつつそんな様子を眺めているうちに体が目覚めてくる。

 お寝坊さんの私に比べると玲哉さんはいつも朝が早い。

 アラームも鳴らさずに六時くらいに目覚めて周辺をランニングしてくるらしい。

 その後、シャワーを浴びて身支度をし、朝食を作ってくれる。

 一日おきに和食と洋食が入れ替わる。

 在宅勤務だと曜日の感覚が分からなくなりがちだからなんだそうだ。

 月水金は和食、火木土は洋食。

 日曜日はちょっと遅めのブランチを私が作る。

 それが私たちの朝のリズム。

「今日もおいしかったです。ごちそうさまでした」

「パジャマはバスケットに入れておいてくれ」

 はぁい。

 洗面台で身支度を調えていると、玲哉さんが洗濯機を回しにやってくる。

 室内干しだけど、一部屋をまるごとクローゼットとして使っているので、干す場所には困らないし、私が仕事から帰宅する頃にはきちんとたたまれている。

「いつもふぁりはとうごふぁいます」

 歯磨きしながらお礼を言うと、なんてことないさと軽い返事でかわされる。

「下着の洗い方もバッチリだろ」と、専用のネットに入れてくれる。

「なんか申し訳なくて。ちょっと恥ずかしいし」

 ショーツの部分汚れはシャワーを浴びる時に手もみで処理してあるけど、シミまでは落ちない。

「そんなこと言うなよ。どうせ中身の本体も全部見てるし」

 お尻でプッシュ攻撃。

 デリカシーがないんだから。

 こんな感じで朝の時間はあっという間に過ぎていく。

 私の普段着は作業服になった。

『真宮薔薇園』の社名入りだ。

「行ってきます」

「こら、待てよ」

 タオルで手を拭きながら玲哉さんが玄関まで駆けてくる。

「行ってらっしゃい」と、言ったくせに濃厚なキスで私を引き留める。

「もう、遅刻しちゃいますよ。ふつう、お出かけのキスって軽くなんじゃないですか?」

「加減が下手ですまんな。早く帰って来いよ」

 私の苦情なんか軽く受け流される。

 閉まる玄関ドアの隙間に最後の挨拶。

「お夕飯楽しみにしてます」

「任せろ」と、夫の親指に見送られる。

 マンションから薔薇園までは原付バイクで三十分位かかる。

 市街地から郊外へ出る方向なのでほとんど込むことはないし、途中に信号もあまりないから、距離はあるけど気楽な通勤だ。

 事務所前の駐車場にバイクを停めると、ちょうど南田さんのスポーツカーがやってきた。

 どうしてタイヤがハの字型でも走るのかは未だによく分からないし、エンジンを止める直前になぜか吠えるのでちょっとびっくりする。

「おはざっす」

「おはようございます」

 スマホを買って早速南田さんとも連絡先を交換した。

 娘さんとお出かけした時の写真をやたらと送ってくれるのはいいんだけど、なんて返事したらいいのか分からなくて困ってしまう。

 学校に行きたがらなくて毎朝喧嘩になるんだそうだ。

「今日はちゃんと行きました?」

「玄関で相撲取りましたよ。ラインから出たら行けよって押し出したら、ママずるいとかぬかしやがってぇ」

 聞かなきゃ良かった。

「これ、娘とおそろなんすよ。かわいいっしょ」と、ネイルを見せてくれる。

 猫のキャラがデコられている。

 私はネイルはやめた。

 土いじりに邪魔だからだ。

 髪の毛は今までお願いしていた真宮ホテルのヘアサロンに一度だけ行ってきた。

 原付のヘルメットをかぶるのでバッサリ短くしてきたのだ。

 玲哉さんはそれについては特に何も言わなかった。

 長い方が良かったとかそういうことではなく、ライフスタイルが変わるんだからそれに合わせるのは当然だと思っているだけらしい。

 髪型が変わっても変わらず抱きしめてくれるし、私を見つめる視線に込められた愛情は熱いままだ。

 そもそも私の仕事にあわせて生活環境までがらりと変えてしまってるんだから、髪型なんてむしろ些細な方だと自分でも思う。

 だんだん玲哉さんの合理主義に染まってきたのかもしれない。

 薔薇園は来年の春まで休園することになった。

 その間に土壌の改良や施設の補修をおこない、リニューアルオープンさせる予定だ。

 私の仕事はそういったプランの作成と推進だけど、薔薇の栽培方法といった根本的な知識を身につけることも重要だった。

「薔薇の株を入れ替えて来年のオープンには間に合うんですか」

 栽培担当の今井さんはどんな質問にも的確に答えてくれる。

「それは問題ありません。お金はありませんけど、資材や苗木はあるんで、あとは我々の知恵と工夫次第です。社長の指示があれば我々は動けます」

 早速、駐車場の波打っていたアスファルトの補修工事が始まっていた。

 受付業務がなくなった南田さんは従業員の昼食の手配や外部との連絡といった裏方に回ってもらっている。

 私の方が何もできないのに従業員の皆さんからは『社長』と呼ばれている。

 だけど、照れくさいとか荷が重いなんて言ってる場合じゃなかった。

 自分で考えて自分で決断し、指示を出す。

 分からないことは聞いて理解しなければならない。

 レストランのリニューアル会議では、新メニューの試食が続いていて、お昼休みもない。

 既存のレストランはファミリー向けとして改装し、薔薇園奥の池の畔にプレミアム路線のレストランと、真宮ホテルのアフタヌーンティーを提供するカフェを新設する計画もある。

 玲哉さんが言っていた、わざわざ人が来たくなる『洞窟に隠された宝物』だ。

「社長、悠々苑のバス来ましたよ」

 南田さんがレストランのドアから顔を入れて私を呼ぶ。

「はい、今行きます」

 午後一番で近隣の老人ホームからモニター客を招待してある。

 花好きな人の意見を聞いた方がいいという玲哉さんのアドバイスで、いろいろなところに声を掛けているのだ。

 土壌改良工事で薔薇は少ししか残っていないけど、出荷用に栽培してあったインパチェンスやペチュニアなどの苗を利用して花壇を仮に作ってある。

 ラベンダーも大きな鉢ごとならべて見た目だけは華やかにしてみた。

 ゴルフ場の緩やかな傾斜を活かしたテラスからは、車椅子でも全体を眺めることができるとなかなか好評だ。

 ただ、現状ではバリアフリーと呼ぶにはほど遠い状態だったから、実際に遊歩道を車椅子で通ってもらって、どこを改良すべきか課題を洗い出しているのだった。

「今井さん、遊歩道の幅を車椅子が行き違えるくらいに広げたいんです」

「それだと今の二倍くらいになりますね」

「いえ、それよりもう少し広くしたいんですけど。すれ違っても余裕があるくらい」

「そんなにですか」と、今井さんが額に手をやって周囲を見回す。

「私、自分で車椅子に乗ってみたんです。そしたら、目の高さで薔薇の枝が飛び出してるところが結構あって、とげが刺さりそうで意外と怖かったんですよ。介護士の方々も結構神経を使ってるようでした」

「ああ、なるほど。立って歩いていると気がつかないものですね」

「ええ。ですから、単に行き違えるだけだと意味がないと思うんですよ」

「分かりました。植え替えた株が大きくなったら、その分、枝も邪魔になるでしょうからね。薔薇のトンネルはどうしますか?」

「それは一方通行にしても遊歩道で行き違えるので、計画通りで」

「そうですね。トンネルのアーチはあんまり幅広くすると構造自体を変えなくちゃなりませんからね。とりあえず遊歩道は設計をやり直してみます」

「お願いします」

 私が今井さんと相談している間に、南田さんは招待客のおばあさん達の相手をしてくれていた。

 ボリュームのある白髪をきれいにセットしたおばあさんが、車椅子から手をのばして薔薇の葉を撫でている。

「死んだうちの人ね、とってもいい人で、一生懸命働いて都内の便利なところにマンションを買って、いい暮らしもさせてもらったのよ。でもね、私はずっとお花を育てたくてね。本当は少し不便なところでもいいから庭付きの一戸建てに住みたかったのよ」

「へえ、そうなんすか」

「まあ、贅沢を言ったらいけないから、せいぜいベランダで鉢植えを育てたり、部屋に切り花を飾ったりするくらいで我慢してたのよ。なのに、老人ホームに入ってお花も飾れない生活を始めた途端に、こんなに広いお庭を楽しめるなんて、人生何があるか分からないわよねえ」

「えへへ、いいところでしょ」

「ホント、天国みたい」と、おばあさんが笑う。「でも、うちの人がいないから、まだあの世じゃないのかもしれないわね」

「おばあちゃん、薔薇の花持って帰ったらどうっすか」

「あら、いいの?」

「どうせ植え替えしちゃうんで、もったいないっすから」

 南田さんがエプロンから園芸ハサミを取り出しておばあさんに渡すと、少し戸惑いつつも、車椅子の横から身を乗り出すようにして枝に手を伸ばす。

 あまり力を入れなくても切りやすいバネのついたハサミだからお年寄りでも扱いやすいんだろう。

 パチンといい音がした瞬間、おばあさんの笑顔がほころんだ。

「ああ、うれしいわねえ。こんなふうに薔薇を剪定してね、来年はどんな花が咲くかしらなんて想像してみたかったのよね」

「そうなんすか。じゃあ、これおばあちゃんの薔薇にしちゃいましょうよ」

 と、言ってるけど、どういうことなのか、横で聞いている私にもよく分からない。

 困惑した表情を浮かべるおばあさんの隣にしゃがんだ南田さんがスマホを取り出してインカメラに切り替える。

「はい、おばあちゃんもピース」

 テヘペロ横ピースじゃないから。

「ほら、カワイイっしょ」

 小さな画面をのぞき込んだおばあさんが目を細めて微笑む。

「あら、ほんとね。これ自撮りっていうの?」

「そうっすよ。盛ったやつも見ますぅ?」

「盛るって何かしら?」

「ほら、こんなのっすよ」

 目の大きな猫とリスが薔薇の花を真ん中にして笑っている。

「あら、いいわねえ。夢の国みたいね」

「この薔薇園、いろいろ作り替えて花一杯になるみたいなんでぇ、また来てくださいよ」

「そうねぇ。楽しみねぇ」

 そんな二人のやりとりを見ていると、花好きな人が何語でしゃべってるのか分かるような気がした。

 家に帰ると、玲哉さんが用意してくれたおいしい夕食が待っている。

 ごちそうになりながら今日あった出来事を話すと、いろいろなアイディアを出してくれる。

「南田さんが言いたかったことはよく分からないが、一つの考えとしてはおもしろいな」

「どういうことですか?」

「薔薇園の花のオーナー組織を作るんだよ。苗木を買ってもらって、それを自分の花として薔薇園に植えて栽培はプロが代行するわけさ。定期的に花の開花状況をスマホに送ったりもできるだろ」

「貸し農園の薔薇栽培版みたいなイメージですか」

「その話のおばあさんみたいに、本当は庭いじりがしたくても住環境の制約でできない人はいるだろうから、潜在的なニーズはあるだろう。来園者に声をかけるだけでなく、老人ホームと提携してもいいし、ネットで世界から客を募ってもいい。やり方はいろいろ考えられるだろうな」

 できるかどうか、実際に流行るかどうかは分からないけど、やってみる価値はあると思う。

 お金はないとはいえ、知恵を絞れば可能性は見出せる。

 頼りになる相談相手がいれば、私も頑張れそうな気がした。

 食後のほうじ茶をいただいているときだった。

「実は今日買ってきた物があるんだ」

「え、なんですか?」

「いや、そんなにたいした物じゃないぞ。スーパーに買い物に行ったら入り口のところに並んでたんだ。で、ちょっと見てみたのさ」

 戸棚の横に隠してあったのは、細いグラスにささった一束のラベンダーだった。

「これを選んでくれたんですか?」

「うん、まあ、他にも何種類かあったんだが、どれがいいかなって考えてこれにしたんだ」

 と、いきなり目を泳がせながら強めに手を振り始めた。

「いや、べつに、本当に特別な意味なんかないからな。花言葉とかそういうのを勘ぐるなよ。ただなんとなくいいなと思っただけなんだ」

「ラベンダーの花言葉って何なんですか」

「いや、だから、本当に知らないんだって」

「ふうん、そうですか。でも、うれしいですよ。ありがとうございます」

「ああ、俺も、結構選ぶのが楽しかったんだよ。花を買うのが楽しいなんて、今まで知らなかったよ。実際にやってみないと分からないことってあるよな」

 またなんか回りくどい理屈をこねてる。

 私が帰ってきた時から、いつ出そうかってずっとタイミングを計ってたのかな。

 そんなことで迷うなんて、冷徹な経営コンサルタントらしくない。

 それが一番のサプライズだ。

「私のことを考えてくれたからじゃないんですか?」

「あ、まあ、そんなところだ」

 ちょっと照れくさそうに耳を赤らめるうちの旦那様はかわいいんですよ。

「不思議なものだよな」と、玲哉さんがしみじみとつぶやく。「花が一束あるだけで文字通り華やかになる」

 テーブルの上に、ラベンダーを置くだけで幸せな気分になる。

 なにもないはずの一日が記念日みたいになる。

「俺たちが売ろうとしているものは、花そのものでもあるし、そこに込められたいろいろな気持ちや体験なんだろうな」

 花そのものではない何か。

 それはとても大切なヒントのような気がした。


   ◇


 世の中は八月になって夏真っ盛りだった。

 雨の日は玲哉さんが薔薇園まで車で送迎してくれる。

「車の免許を取るまでは遠慮するなって。俺も見ておきたいからさ」

 在宅ワークの夫にしてみれば、こうでもしないと車を運転する機会が夕飯の買い物だけになってしまうらしい。

 出資交渉は順調に進んでいて、来日して真宮ホテルで詳細を話し合った相手もいるらしい。

 お父さんにはスマホの連絡先を教えてある。

 メッセージによれば、真宮ホテルのブランド価値を最大限に尊重するという条件を提示したファンドとの契約を詰めているそうだ。

 お母さんには連絡していない。

 向こうから呼び出したければお父さんを通して連絡が来るだろうし、こちらからは話したいことはない。

 玲哉さんもそれでいいと言ってくれる。

「親子だからっていつまでも親に従わなければならないってことはないんだよ。普通は十代で反抗期があって、社会に出るにあたって自分の進路を決めるときに親とは無関係に決断をするんだろう。紗弥花にはそれがなかった。でもようやく自分で歩き出したんだ。悪いことじゃない。むしろ普通になったんだよ」

 車の中でそんなことを話しているうちに薔薇園に到着して、南田さんの車と一台空けて駐車する。

「あいかわらずだな。ていうか、パーツ増えてないか?」と、下をのぞき込む。「足回りも強化したのか。渋いな」

 私にはよく分からない用語を吐き捨てながら玲哉さんが事務所へ入っていく。

 あとについて入ると、傘立てに花柄の傘がさしてあった。

「おはざっす」と、雨の日でも南田さんは元気いっぱいだ。「今日はイケメンさんも一緒っすか」

「おはようございます。うちの夫です」

 玲哉さんが南田さんに丁寧な口調でたずねた。

「この傘は誰のですか?」

「それ、あたしのっすよ」

 傘立てから引き抜いていきなり広げる。

 水滴が飛び散ってとっさに飛び退いた玲哉さんだけど、なぜか興味深そうに歩み寄る。

 私は間に割って入ってかわりにたずねた。

「その傘、かわいいですね」

 全体に施されたモネの絵画のような明るい色合いの花柄に、ゴッホのヒマワリみたいに濃い色合いの花がアクセントになっていて、かなり個性が強い。

 自分では使おうとは思わないけど、モデルさんが持っていたら映えそうな傘だ。

「これ、笑っちゃうでしょ」と、肩に柄をのせて雨の日の小学生みたいに南田さんがくるくる回す。「あたしの友達が倉庫みたいなリサイクルショップで働いてるんですけどぉ、たまに潰れた会社の在庫とか大量に仕入れてきて売ってるんですよ。この傘も百円なんですけどぉ、元は美術館のショップとかで売るやつだったらしくてぇ、ちゃんとしたやつだから結構丈夫なんですよ。花柄とか派手すぎるんすけど、人のと違って目立つからコンビニとかでも持っていかれなくていいんですよ。全然売れないみたいですけどね」

 すると、玲哉さんが食い気味にたずねた。

「その傘、まだありますか?」

「あるんじゃないっすかね。全然売れなくて困ってましたからね」

「全部持ってきてもらえますか」

「マジッスか。五百本くらいありますよ。でも百円だから、売れてもバイトのお給料にもならないって」

「お店に電話して聞いてもらえますか?」

「いいっすよ」

 南田さんがスマホを取り出し耳に当てる。

「はぁい、チカ。今ヒマ? あ? 仕事? ああ、そう、いいんだって仕事だから。傘まだある? ほら、あの馬鹿みたいなやつ。うちの社長がほしがっててさ」

 私じゃないです、玲哉さんです。

「全部だって、全部。あ? 全部っつったら全部に決まってんじゃん。だから全部だって。あんでしょ? 全部だってば」

 オーケーのサインを出しつつ、話はまだ続いている。

「はあ?」と、ますます返事が荒っぽい。「うちら薔薇園じゃん。花屋に造花売るって、あんたんとこの店じゃあ喧嘩も売ってんのかよ。シロクマにかき氷売るつもりかよ」

「ちょっと待ってくれ」と、玲哉さんが横から割り込む。「何の話だ?」

 南田さんが耳からスマホを離した。

「造花が大量にあるんで、それも買ってくれないかって言うんすよ。こっちは本物育ててるんすけどね」

「いや」と、玲哉さんがスマホをのぞき込む。「その造花、どんなのか見せてくれないか」

「いいっすよ」と、ビデオ通話に切り替える。「売り物で出してたらしいんすけど、全然売れないんで、店でもそのまんまディスプレイにしてあるっつうんすよ。商売マジ下手くそ。潰れた会社の在庫集めて、自分が潰れるんじゃないっすかね」

 南田さんの話は聞き流しつつ、スマホに映し出される造花を見ていた玲哉さんの目は真剣だった。

 見たところ、意外とちゃんとした作りで、安っぽくない。

 レストランの内装とかに使えそうだけど、どうなんだろうか。

 カメラが切り替わって画面にチカさんの顔が映った。

 髪は茶色いけどおとなしめなメイクで、しゃべり方も落ち着いた感じの人だった。

「造花なんで、黒薔薇なんてちょっと変わったのもあるんですよ」

「これはいいな」と、玲哉さんが感心したようにうなずく。「どれくらいありますか? 傘と一緒に全部買いますよ」

「うほっ、マジっすか」と、南田さんが驚いてスマホを落としそうになる。

 チカさんの話だと二千本ほどあって、トラックで取りに来てくれるなら現金一括で十万円でいいそうだ。

「了解。傘と合わせて十五万円で引き取らせてもらいます」

 玲哉さんが財布から現金で十五万円を取り出す。

「いつも持ち歩いてるんですか?」

「まあな。買い物の支払いはカードだが、キャッシュレスの時代とはいえ、現場では現金が物を言う場面もまだある。人間は拳よりも札束に屈しやすいからな」

 あんまり聞いちゃいけないような気がして、それ以上は追究しないことにした。

 トラックの運転は今井さんに頼むことになって、南田さんと一緒に早速リサイクルショップへ行ってもらった。

「傘と造花って、何に使うんですか?」

 二人になってたずねると、玲哉さんは真面目な表情で答えた。

「傘は来園者に貸し出すんだよ」

「借りる人いるんでしょうか。お客さんは自分の持ってくるんじゃないですか?」

「そうじゃない」と、玲哉さんは欧米みたいなジェスチャーで両手を広げた。「園内ではあえてこの傘を使ってもらうんだよ。そうすれば、派手な色の花が咲いたみたいに見えるし、みんなが歩き回ることで、テラスから全景を見た時に景色が移り変わるみたいでおもしろいじゃないか」

 ああ、なるほど。

「雨の日は薔薇園にとって開店休業みたいになりがちだろ。そこをたとえばさ、『雨の日はあなたが花になる日』とかってイベントにしたら、むしろ雨の日だからこそ来たいってお客さんのマインドを変えられるわけだ」

「街中ではちょっと目立ちすぎて恥ずかしい傘も、ここなら溶け込みますもんね」

「写真を撮るのも楽しくなるだろうさ」

 たしかにやってみたら面白そう。

「造花はどうするんですか。レストランの装飾ですか」

「それもあるが」と、玲哉さんは指を鳴らした。「あえて外に飾るっていうのはどうだ」

 え、なんでだろう?

「この薔薇園には花がない。だから造花で薔薇の株を飾るんだ」

「でも、本物じゃないって分かっちゃいますよね」

「近くで見たらな。でも、写真に撮るだけなら映えるだろ?」

 ――うーん。

 どうなんだろう。

 なんとも言えないかな。

 玲哉さんはスマホを取り出した。

「花の写真って難しいだろ」

 たとえば、と足下のペチュニアの花壇にカメラを向ける。

「花壇の見た目は満開だろ」

 たしかに、色とりどりの花で埋め尽くされているように見える。

 今井さんも、一時的に見栄えを良くするならこれに限りますからと言っていた。

「でもさ、ほら」

 見せられた写真は、花がまばらで土や葉っぱが目立つ。

「あれ、なんででしょうね」

「人間って、目で見た画像に、脳で感じた印象を補正するんだよ。だけど、カメラは写った物そのもので、食い違いがあるんだ。だから、画面一杯に花があるように写したくても、実際はそんなに花が重なることはないから画面がスカスカになるわけさ」

 で、それでどうするんですか?

「ふつう、造花っていうのは屋内に飾るだろ。それをあえて屋外の自然光の下でたくさん重なるようにディスプレイするわけさ。そうすれば写真に撮った時に画面一面花だらけで、しかも色鮮やかになる。自撮りに最適な撮影場所だろ」

「来場者向けの記念写真専用スポットにするわけですね」

「そういうことだ。もちろん、本物の花も目で見て楽しんでもらうわけだけど、最初から盛った豪華な写真を撮りたい人にはお手軽でいいだろ」

 ああ、そういうことか。

 花好きな人には逆に考えつかないアイディアなのかも。

 本物があるのにわざわざ偽物を撮りたいなんて普通は思わないもんね。

 でも、見栄え重視の人にしてみたら、モデルさんになった気分で記念撮影ができる方がうれしいのかも。

 そういう写真が撮れる場所だと広まれば、それはそれで人を呼ぶ『宝物』になるんだろう。

 薔薇園のリニューアルは玲哉さんの狙い通りうまくいく。

 その時は私もそう確信していたのだった。


   ◇


 九月も後半になって少し暑さも和らいできた頃、今日も老人ホームのお客さんを招待していた。

 玲哉さんのアイディアで作った造花の撮影スポットは思ったよりも好評だった。

 真っ赤な薔薇でフォトフレームのように囲ったり、清楚な百合、向日葵や蘭など、本物ではあり得ないような密度で組み上げたステージはどれも華やかで、南田さんが次々にシャッターを切っていくと、お客さん達がどんどん笑顔になっていくのが分かる。

「なんだか歌劇団のスターになったような気分ねえ」

 おじいさん達も最初はちょっと照れくさそうにしていたけど、だんだん胸を張っていい顔になってくる。

「こんな写真撮ったことねえや。娘に見せてやるか」と、その場で送信する人もいた。

 意外なことに黒い薔薇で囲った場所が一番おもしろがられていた。

 お葬式みたいでいやがられるかと思ったら、「なんか魔女になったみたいね」と、茶目っ気のあるおばあさんが写真を撮り始めて、しまいには行列ができていた。

 何が受けるか、やってみないと分からないものだ。

「黒い薔薇には、執事の格好とか似合いそうっすよね」

 南田さんまでおかしなことを言い始める。

「明日にでもイケメンの旦那連れてきてくださいよ」

 はあ?

「なんでですか?」

「旦那さんイケメンだから、タキシードとか絶対映えますよ。なんなら社長もウエディングドレス着たらいいじゃないですか」

「あら、いいわねえ」と、おばあさんたちまで期待の目で私を見る。「なんなら私たちも着たいわよねえ」

 冗談か本気か、みんな大笑いだ。

「それなら茜さんが今井さんと試しにやってみたらいいじゃないですか」

 苦し紛れに私が返すと、南田さんが手を叩いて笑い出す。

「だってぇ、今井さんとあたしじゃ、美女と野獣じゃないですか」

 と、この話はこの場で終わるものだと思っていた。

 家に帰ったら、玲哉さんがスマホを見ていた。

「お帰り。南田さんから連絡が来てたぞ」

 え、まさか……。

「明日写真撮影があるそうだ。天気予報も晴れらしい」

 分かりきっているけど、はぐらかして聞いてみた。

「撮影って、何のですか?」

「俺たちのウェディングフォトを撮ってくれるそうだ」

 やっぱり。

 ただの冗談じゃなかったの?

「まあ、確かに俺たち、披露宴どころか結婚式もしてなかったからな。この際だから、お願いしたらいいんじゃないか」

 なんでいつもそんなに前向きなんですか。

 少しは立ち止まって私の方を向いてくれたっていいじゃないですか。

 ためらって言葉を飲み込んだからって私は承諾したわけじゃないのに。

「宣伝にも使えるかもしれないしさ。薔薇園で写真を撮りたい新郎新婦にアピールするチャンスだろう。そのために作った造花のフォトスポットだからな」

「だったら、ちゃんとしたモデルさんを用意した方がいいじゃないですか」

「そんなお金はないだろ。俺たちならただだ。すべてはアイディアで乗り切るんだ」

 それはそうですけど。

「写真屋さんは、カメラが趣味の南田さんの知り合いを呼んでくれるそうだ」

「でも、衣装は?」

「明日の朝一番にレンタル業者のところへ行く」

 いつだって即断即決。

 それは頼もしいときもあったけど、強引すぎるところでもある。

 私の気持ちとか、好みなんかどうだっていいって言うの?

 操り人形の糸を断ち切って私を自由にしてくれたのは玲哉さんだけど、糸を引く人が変わっただけじゃない。

 どうせ私なんて、誰かに引っ張ってもらわないと立ち上がることすらできないんだ。

 結局、人間は変われない。

 変わろうとしても、変わったつもりになって手のひらで踊らされているだけ。

 ――プツン……。

 心の中で、糸が切れる音が聞こえた。

「おい、紗弥花、どうした?」

 ――え?

 ふと我に返ると、頬が冷たかった。

 ぎゅっと握った拳を震わせながら私は泣いていた。

「落ち着けよ、紗弥花。どうした」

「触らないでください」

 抱き寄せようとする玲哉さんに憎しみを感じて反射的に手を突き出していた。

「分かったよ。触らない」と、玲哉さんは一歩下がって両手を上に向けた。「だけど落ち着いて。大丈夫だ。俺の目を見てくれ」

 大丈夫って。

 何が大丈夫なんですか。

 信じようと思った瞬間に、いつも足をすくわれる。

「紗弥花、約束したろ」

 玲哉さんが右目をつむっている。

 あいかわらずウィンクが下手な人。

「ほら、俺の目を見てくれよ」

 それがなんだって言うんですか。

「俺は君のためだと思っていたんだ。気持ちが行き違いになったわけだけど、それだけは信じてくれ」

 信じろって……、信じたってこうなるんじゃないですか。

「俺はちゃんと聞いているよ。紗弥花の話を聞いているよ」

「聞いてないじゃないですか。自分で勝手に決めて、全部それを押しつけるだけ。話なんか聞いてませんよ。全然聞いてないくせに聞いてるって口ばっかりで……」

「確かにその通りだ」と、玲哉さんが悲しそうに首を振る。「俺の考えばかりしゃべってしまって、悪かったよ。俺は君のためだと思い込んでいただけで、ただ単に仕事の都合しか考えていなかったんだよな。俺が間違っていたよ。本当にすまない」

 と、不意に玲哉さんの指先からふわりとラベンダーの香りが漂ってきた。

 ――あれ?

 今日も……?

「お花、買ってきてくれたの?」

「あ、ああ」と、リビングのテーブルを指す。「この前みたいに今さら隠しておくことでもないだろうから、さっき花瓶に挿しておいたんだ」

 花を買うこと、それはただ単にお金と物を交換することではない。

 花に込められた記憶や気持ちを大切に思う行為。

 それは相手を想うことでもある。

 紫の香りが優しく頭を撫でてくれたような気がした。

 ――どうして言えなかったんだろう。

 最初から嫌だってはっきりと言えば良かったのに。

 曖昧にごまかしてしまったから、ちゃんと気持ちが伝わらなかったのかもしれない。

 それは玲哉さんだけの一方的な過ちではなくて、はっきりと伝えられなかった私にだって落ち度があったということだ。

 言えないのは私の弱さだ。

 相手を責めて、自分自身の姿から目を背けてしまっているんだ。

 ――ごめんなさい。

 でも、言葉が声にならない。

 あんなに文句は言えたのに、大事な一言が出てこない。

「とにかく、明日は中止にしてもらおう」

 玲哉さんがスマホに返信を入力している。

 私はとっさに玲哉さんの袖をつかんだ。

「心配するな」と、こわばった微笑みが返ってくる。「俺が東京へ行く用ができたとでも言っておけばいいだろう」

 言い過ぎてしまった言葉を取り消すことはできなくて、上書きするしかないのに、その言葉が出てこない。

 黙ったままの私をその場に残して、玲哉さんは困惑した表情のまま夕食をテーブルに並べ始めた。

 気まずい沈黙に針を刺すように、食器の音がやたらと耳につく。

 謝りたいのに謝れなくなってしまった。

 それなのに、私の口から出てきたのは、自分自身全く想像もしていない言葉だった。

「私、実家に帰ります」

 玲哉さんがテーブルに置こうとしていたお皿から唐揚げが転がり落ちる。

 いつもちゃんと私の帰宅時間を見計らって揚げたてを出してくれる人。

 前の晩から漬け込んでしっかりとしみた下味がじゅわっとあふれ出る肉汁と絡み合って、香ばしい波が口の中いっぱいに押し寄せてくる玲哉さんの唐揚げ。

 そんな元気が出る夕食を用意してくれる人なのに、どうして私はありがとうもごめんなさいも言えないんだろう。

「紗弥花、待て」

 私は逃げ出していた。

 財布の入ったショルダーバッグをつかんで走り出していた。

「さや……!」

 振り向いちゃだめ。

 ここにいてはいけない。

 作業着姿のまま玄関を飛び出し、すっかり暗くなった街を駆け抜ける。

 家路につく人たちの流れを遡るように駅へ向かい、ホームに入ってきた上り電車に飛び乗った。

 鞄の中に手を入れると、四つ折りにした薄い紙が触れる。

 プロポーズされた時に渡された玲哉さんの署名だけが入った離婚届だ。

 ――ビジネスは常にフェアでなければならない。

 そうね、あなたの言うとおりだったわ。

 さよなら、冷徹な経営コンサルタントさん。

 ほとんど乗客のいない東京行きの快速車内で、私は立ったまま窓に映る自分の顔をじっとにらんでいた。

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