10・再会

 目を開けると、木の梁が剥き出しの見慣れた天井が見えた。

 視界がぼやける。溢れた涙が耳の辺りに次々と零れ落ちる。


 ユルゲン。

 少し前に、その名をどこかで目にした。


 頭がぼんやりして、立ち上がるとふらついた。

 ローテーブルに足をぶつけながら玄関前へ行き、フックに掛けてあるコートのポケットから、くしゃくしゃに握り潰された紙きれを取り出す。


 手帳の切れ端だ。

 電話番号の下に、名前が走り書きしてあった。

 Jürgenユルゲン・ Eckhartエックハルト


 涙が零れ落ちてJを滲ませた。

 取り戻した記憶の中の少年は、彼に似ていた。

 あの頃はすごく大人のように思えたけれど、今の私よりきっと年下だったのだ。


 私はポケットから携帯端末を取り出し、電話番号をタップした。

 呼び出し音が不意に途切れ、『誰?』男の人の声が応える。

 いつも仮面越しに聞いていた、くぐもった声に似ている。

 

「ユルゲン……?」

 震える声で尋ねた。

「あなたは、クランプス……?」

 そこまで言って、自分が誰か言わなくてはと思ったところで、


『エルナ』

 名前を呼ばれて、息が止まった。

『記憶が戻ったのか』

 確信して私は「うん」と頷いた。


「うん、そう、記憶が戻ったの……会いたい……!」

 幼い頃の私がまだ生々しく頭に残っていて、私は泣きじゃくった。


「ユルゲン、お願い、会いに来て……!」

『すぐ行く』


 通話が切れた。

 私は小さい子のように泣きながら、その場にへたり込む。

 頭も心もごちゃごちゃだけれど、いくつか理解できた。


 私を助けてくれたクランプスの名は、ユルゲン。

 当時、彼はまだ見習いだったから、私を発見して保護した人物の名前としては、師匠のものが記録されることになった。奥様の病気で引退したのはこの人だ。

 翌年に一人前になった彼は、私に黒玉ジェットを届け始める。


 私が大学で出会い、おかしな質問で困らせた助手さんの名も、ユルゲン。

 彼は泣いている私を見て、連絡先と名前を書いた紙をくれた。

 二人は同一人物だった。


 初めて飲んだブランデーが強烈だったのか、それが〝恋のブランデー〟だったからか、取り戻した記憶が心身に負担をかけたのかは、わからない。

 自分の鼓動が速くて耐え切れず、私は這うようにソファに戻って突っ伏した。


     *     *     *


 連絡が来るかもしれないとは思っていた。

 名前を書いた紙を渡したから、エルナが誕生日に記憶を取り戻した場合、そこから自分の正体に気付く可能性はあり得る。


 その場合、掟破りになっても、すぐに駆け付けようと決意していた。


 通話を終えて仲間の方を見る。今から邪霊狩りに出かけようというところだ。

「恋人なら行ってやれ」

 壮年のクランプスが手で追い払う仕草をした。

「結婚相手なら正体を明かしてもいいことになっている。いい時代になったな」

「クリスマスシーズンに夜な夜な出かけて疑われちゃ、クランプスは全員独り身で過ごすしかないからな」


「悪い」と一言告げて、ユルゲンは魔獣の姿に変身した。


 夜空を駆け、通い慣れた古い森の一軒家を、真っ直ぐに目指す。

 着地するや変身を解き、ノックすることなく家の扉を開けた。

 魔女の家の扉は大抵、クランプスには開かれるようになっている。私用にその力を使う後ろめたさはあるが、言っている場合じゃない。

 玄関から入ってすぐの暖炉の前で、彼女はソファに倒れ込んでいた。


「エルナ!」


 仮面と毛皮を剥ぎ取って駆け寄ると、苦しそうに目をつむっていたエルナは、薄く目を開けた


「ユル……」

「大丈夫か」


 目が潤んでいる。ありありと泣いた形跡がある。顔が赤い。ローテーブルにブランデーの瓶とコップが並んでいるのを見つけ、ユルゲンはコップを手に取った。

 一口飲んでみる。ストレートだ。


「おい、水で割らなかったのか。チェイサーは」

「水……?」

「まったく、綴り方の次は酒の飲み方だな」


 水差しを見つけ、コップに残ったブランデーを飲み干して、代わりに水を汲む。

 頭を支えてやってなんとか飲ませると、エルナはぼんやりと目を開けた。

 かと思うと、急に号泣し始めた。


「うわああああん……!」

「どうした。昔の記憶が辛いのか」

「ユ、ユ、ユルゲンが……」

「俺?」

「まさか、けっ、結婚を破棄して会いにくるなんて……!」

「なんの話だ」


 ごめんなさい、ごめんなさい、家庭を壊す気はないんですと、エルナは何やら壮絶な夢を見ている。駄目だ、完全に酔っぱらっている。


「エルナ、寝室に運んでいいか。どこだ」

 ソファから抱き上げ、無駄だと思いつつ一応聞いてみると、足元に何か触れた。

 見れば、ヤドリギの丸い葉っぱが大中小、コロコロと揺れている。


「案内してくれるのか」

 うんうんと頷くように軽く飛び跳ねて、ヤドリギたちは後になり先になり、ポンポン弾んで階段を上り始めた。後に続いて二階へ上がる。

 ヤドリギの案内で一つの扉を押し開けると、正面に大きな窓があった。


 ああ、いつもここから見ていたのか。 

 自分の訪れを毎年律儀に待っていた少女の姿が、窓辺に浮かんで消える。

 

 あんなにボロボロの状態で拾って、現場から近いという理由で自分が選んだ魔女の許へ行ったがために、毎晩一人で置き去りにされているらしき少女のことが、気にかからないはずがなかった。

 彼女の人生に自分は大きく関わってしまった。その同情心や責任感が、最初から多少あったことは確かだ。

 

 かわいそうな、小さな魔女なのだと思っていた。

 それが、成長と共にいろいろな顔を見せてきて。

 気付けば好奇心の赴くままに、自らの道を力強く歩んでいて。


 かわいいと思うくらいなら、自分でもまだ許せた。

 手紙の返事を書くのはやり過ぎだが、足りない部分があるならカバーしてやるべきだと添削に留めたのは、今から思うと既に言い訳だったかもしれない。


 一人の女性として花開きつつあると気が付いたのは、まさに花の幸運のおまじないを授けられたときだ。舞う彼女は綺麗だった。


 日常生活に戻っても手の甲を見れば、彼女の唇からもたらされた祝福が微かに輝いて、それが月日と共に薄れゆくのを、気付けば幾度となく眺めている。

 毎日が春のようだと思ったのは、本当のことだ。

 花が目に付く。エルナが、花の幸運だと言ったから。


 自分の助けはもういらない。黒玉ジェットと共に役目を終える。

 その事実を棘のように感じる自分を受け入れることは、難しかった。

 六歳の彼女を拾った見習いの時、自分は十五歳。

 九つも年下の少女に心を寄せることがあるなんて、思いもしなかった。


「……エルナ。明日、大学に来い」


 聞こえていないだろうと思いつつ、ベッドに寝かせた彼女に囁く。

 無料講座の最終日だ。魔女でもクランプスでもない普通の人間同士として、今までの自分たちと関りのない場所で、もう一度きちんと出会いたかった。


 彼女は自分を見つけに来てくれた。だから自分も、もう遠慮はしない。

 

 今夜のことが全て夢だったと思われても困る。自分が確実に来たとわかるよう、贈り物を一つ残して部屋を立ち去ろうとすると、中くらいのヤドリギの精が上から頭に落ちてきた。前の床からも、小さいのが跳ねて腹に飛び込んでくる。


「いて。おい、なんだ」

 振り返るとエルナの上で、ヤドリギの大きいのが天井からぶら下がっていた。


「……なるほど」

 呟く自分の声が白々しい。


 大きく一歩戻り、枕元に手をついた。

 ヤドリギの下にいる人にはキスをしても良い。

 ヨーロッパ中に知れ渡っている伝説だ。

 

 一度唇を触れさせたら、想定より長くなった。

 ブランデーの味がした。

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