取引
扉の音が聞こえ、ナギは瞼を持ち上げた。
部屋に戻ってきた慶隆の手には、見慣れたランニングバッグがあった。
「
「ああ、それです。中に僕の私物が入ってます」
「じゃあ、見てみようか」
慶隆はバッグのファスナーを下ろして丸められた雑誌二冊を引っ張り出すと、テーブルに置きっぱなしになっていたファイルの横に並べながらいった。
「月刊アインシュタインと、月刊アトランティス」
「です」
「それと……なんだこりゃ?」
慶隆は折り畳みのカランビットナイフを手に取った。見た目には円環のついた大柄なキーホルダーだが、親指が輪のすぐ下の突起に触れると、パチンと音を立てて短い刃が飛び出した。
「さあ聞こうか。なんでこんなもんを持ってる?」
「それが一つ目の質問でいいですか?」
「あ?」
「本当に返してほしいのは雑誌だけなんですけど、それだと悪い気がするので、一つの物を返してもらうたびに一つ答えようかと思うんです」
「俺が、このナイフを、いまこの場でお前に返すと思うか?」
ナギは少し首を傾げ、答えた。
「返してくれないんですか?」
「返すか、バカ野郎。なんでこんなもんを持ってる」
「アトランティスを返してくれたらお答えします」
そうナギが答えると、慶隆はアトランティスをパラパラと眺め、閉じ、机の上で向きを変えて彼のほうへ滑らせた。
「なんで、このナイフを持ってる?」
「ダンボールとか封筒の開封とかに使ってます。あと作業場が農場なので、気になった草をちょっと刈るのに使ったりとか、ビニールの紐を切ったりとか――触ってもらえばわかると思いますけど、刃はほとんど潰してあります」
「――あ?」
慶隆は苛立たしげに単音を発し、伸ばした刃に指先で触れた。
「マジか」
「マジですね」
愕然とする慶隆をよそに、ナギは手錠を外した。滑り落ちた金属塊が床を叩いた。
「お前っ――!」
慌てて慶隆が立ち上がり、椅子の脚が床と擦れて耳障りな音を立てた。
ナギは一瞥すらくれずに雑誌に手を伸ばし、ぺらりとページをめくった。
「大丈夫ですよ。僕は本を読みたいだけです」
慶隆はマジックミラーに振り向く。
『――続けて』
と、加木屋の声があった。慶隆は顔を歪め、不気味なものを見るような目をナギに向けつつ、そっと椅子に座った。机との間に三十センチは距離をとってあった。
「――そんなオカルト雑誌が好きなのか?」
「それが二つ目の質問ですか?」
「な――いや、これは、雑談だ」
ナギは顔をあげた。ガリガリと音を立てて慶隆が五センチほど距離を取った。もはや手を伸ばさなければテーブルにも届かない。
「そんなに怖がらなくても――まあいいですけど、雑談ですか」
ナギはアトランティスに目を落とす。
「そうですね。好きです。でも、これはオカルト雑誌じゃなくて……なんだろう、哲学系の雑誌だと思いますよ」
「は?」
「哲学といっても、フィロソフィーっていう意味ですけど」
「意味がわかんねえよ」
「自然科学一般の博士号はPh.D.――ドクターオブフィロソフィーなんです。日本語に直すと哲学博士です。アトランティスは不思議を対象にしていますけど、一応は専門家に話を聞いていますし、自然科学一般っていう意味で哲学雑誌です」
慶隆が唖然とした様子でマジックミラーを見やった。鏡の奥でなにが起きているかはわからないが、反応がないことから加木屋は楽しんでいるに違いなかった。
「……じゃあ、こっちの、アインシュタインは? 科学雑誌だろ?」
「この前は『宇宙とは何か』って特集号でした。もう哲学だと思いませんか?」
慶隆は雑誌とナギを見比べて唸った。ナギの目が紙面を追い、一つの記事に注目する。都市伝説にみられる怪異はなぜ眼の前で忽然と消えるのか推察する記事だった。
「それで、二つ目の質問はなんですか?」
ナギは紙面を読み進めながら尋ねる。
慶隆は紙のファイルを開き、しばし考えてからいった。
「お前の本名は?」
「ナギです。風がまえに止まると書いて凪だとか。海が穏やかな状態のことをいうんだって教えられました」
「名字は」
「忘れました」
「アインシュタイン、返してほしいんじゃないのか?」
「本当に忘れちゃったんです。みなさん僕のことをナギって呼びますし、偽名以外で名前を書く機会もありませんから」
ナギがふと顔をあげ、視線を虚空に投げた。しばらくぼんやりと見つめ、慶隆に向き直った。
「やっぱり思い出せないですね。たぶん、お調べになると思うので、わかったら教えてもらえますか? 僕も知りたいです」
いいつつ、ナギは手を伸ばし、月刊アインシュタインを手元に引き寄せた。
慶隆は小さくため息をついていった。
「お前はなんであそこにいた?」
「短期バイトです」
「ナイフは無理でもバッグは返してやれるが」
「背負ってどこに行けるわけでもないでしょうし、諦めます。――ああ、でも、短期のバイトっていうのは本当ですよ」
慶隆は苦虫を噛み潰したような顔で尋ねた。
「……本業は?」
「ご想像にお任せします」
「脳に直接聞いてもいいんだぞ? 俺たちにはそれができる」
「どうぞ、そうなさってください」
慶隆は髪をかき回し、小声で悪態をついた。扉を叩かれ腰を上げる。一歩、二歩と歩きかけ、急に振り向きナイフを回収した。その姿をちらと覗きナギが微笑んだ。
扉の外には警備員がおり、慶隆はナイフとバッグを渡す代りに何かを受け取り、足早に引き返してきた。
バン! と受け取った何かを叩きつけ、いった。
「これはなんだ。なんでお前がこれを持ってる」
叩きつけられた慶隆の手のひらから、PHSといって渡された通信機器のピンクパール色がはみ出ていた。
「これは、ただの電話じゃない。ツールだ。お前、サークルの人間なのか」
そういう慶隆の顔は僅かに紅潮していた。
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