少女は、目の前で起こったことが理解できなかった。喉がひりつき、ひゅうひゅうと声にならない音が漏れた。腹の底が冷え、不快な汗がどっと吹き出した。


「あれは、『冥界の門』なんだ」


 男の声は場違いに穏やかで、まるで愛しいものを見るかのようにおぞましい門を見つめていた。


「あの扉の向こう側で、私の父と母と妹が待っているんだ」


 男は、とうの昔に正気を失くしていた。


「父は立派な領主だった。母は優しく美しかった。キャシーはかわいくてね、まだたったの五歳だった。……皆、事故で突然失われた」


 男の声には深い哀惜の想いがこめられていた。


「これでもね、皆が残したものを必死に守ろうとした時期もあったんだよ。愚か者がすべてを壊して徒労に終わったがね」


 自嘲するように男は言葉を落とし、ついと扉を指さした。


「あの扉がわかるかい?あれは叔父の肋骨でできているんだ。爵位を乗っ取ろうとした愚か者だ。ああ、大丈夫、ひとりではないよ。あれの妻も、息子も、娘も、みんな一緒だ。領地はないが、欲しがった領民もたくさんつけてやった」


 それは、欲のために年若い少年の信頼を裏切った者の成れ果てだった。男の心はまだ柔かったころに千々に引き裂かれ、どうしようもないほどに壊れてしまっていた。


 領民、領民、領民……と男は口の中で呟き、突如激高した。


「愚か者に扇動された愚昧な領民どもめ!真に領地のためを考えていたのが誰か気付きもせずに謀略に乗せられた!!」


 男は、扇動され己の心に致命的な痛みを与えた領民を憎悪していた。自分の願いのために領民をすり潰すことへのためらいなど、最初から失っていた。




「だからは、取り戻そうと思ってね」


 男は怒りをぴたりと収めてぞっとするほど穏やかな様子を取り戻した。そして、家族さえ取り戻せば裏切られた過去も傷付き壊れた己もすべてなかったことにして幸せな日々に巻き戻れると信じているかのように、いびつに笑った。


「君は贄だ」


 それは買われたときに少女が言われた言葉だった。『贄』という言葉が、具体的な意味を示しはじめた。


「あの扉は、あちら側に押して開くんだよ。君が開くんだ」


「…………いや」


「あれには術者である僕か、光の属性を持つ人間にしか触れられないからね。扉を開いて、僕の家族が戻ってきたら、中から扉を閉めるんだ。開けっ放しにしてはいけないからね。僕が中に入ってしまったら、また家族と離れてしまうだろう?」


 あの扉の向こう側に、そんな温かなものがあるはずがなかった。あそこにあるのは――だ。扉を見ると心の底から湧き立つこの感情はなんだったか、少女が必死に見ないように閉じ込めた、この、――は。


「いや、いや……ッ」


「丁度よく贄が見つかってよかったよ。光の属性はなかなか珍しいからね」


 少女の手の暖かな光は、何のために求められたのか。それは、誰かを癒やすためでは、なかった。


 少女がここで過ごす日々にわずかに抱いていた希望すらも無残に打ち砕かれた。


 地獄の蓋が、開いたようだった。いや、地獄の蓋は、これから少女が開けるのだ。


「イヤッあっァッやだ、やッイヤアアァアアァァア゛ア゛!!」


 少女の心の底から、今まで必死に閉じ込めてきた恐怖と絶望が噴き上がった。


 少女は殴られる痛みを思い出した。泣き叫んでやめてと懇願した日を思い出した。泣けば泣くほど酷く打たれた日を思い出した。泥の混じった水を啜った日を思い出した。動かない体の上を虫に這われた日を思い出した。飢えた日を思い出した。どうしようもできない理由で知らない場所に連れて来られた日を思い出した。名など最初からないことを思い出した。水をかけられた日を思い出した。無いものとされる寒さを思い出した。嘲笑する人の目を思い出した。女がはぜて潰れる光景をまざまざと思い出した。アニーを思い出した。その手は、だって、そこに、貼り付いて――――


 少女の心は、恐怖と絶望で塗りつぶされた。


「もうすぐだよ、父さん、母さん、キャシー。もうすぐ『特別な材料』も届くんだ。会える日が楽しみだよ」


 朗らかにうたうような男の声が、絶望の底に響き渡った。




 §




 気がつくと、少女はいつもの部屋でへたり込んでいた。あれは悪い夢だったのかと思おうとしたが、少女の指には引きちぎった自分の髪がごっそりと絡みついていた。


(怖い……怖い……!)


 ぎゅうと目をつぶりうずくまっても、目の裏側から女の死に様が消えなかった。


(あんなこと起こっていいはず、ないのに……!)


 あれは今まで、少女が知らない間にいくども繰り返された惨劇だった。


 そこで、少女ははたと気が付いた。あの男は記憶に残る最後に、なんと言っていたか。


『もうすぐ特別な材料が届く』


 材料が何を意味するか、もう少女は知っていた。知らないふりをすることは、できなかった。


(逃げる……)


 少女はいつか聞いて心に残った言葉を思い出した。


 少女は十年以上、この屋敷を歩き回っていた。人の顔も、やっている仕事も、誰がいつどこを通るかも、ぜんぶ覚えて知っていた。


 いつどこが手薄になるのかも、何もかもを少女は知っていたのだ。


(逃げる……)


 どこへ逃げればいいかはわからなかった。


 だが、少女はこれを誰かに伝えなくてはいけないと、震える足で立ち上がった。

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