第24話
それから私とカ-テスは、迫り来る怒声と足音を背後に聞きながら、ひたすら獣道のような林道を走り続けた。
互いの激しい息づかいだけが、夕暮れに染まる小道の中に響きわたっていた。
どれくらい走ったろう、気がつくとそこは、もう町の外だった。
追手の影も、何時の間にか消え去っていた。
なだらかな街道に出て、ようやく風が穏やかになったのを感じる。
背を押すように流れる東風に乗って、私達は乱れる息を整える為に足を緩めた。
遥か先に見える山の端に夕日が沈むと、大きな月が現れて私達の影を赤土の上に映し出した。
時折すれ違う馬車の音、虫の声、風の囁き。
それらを耳にしながら、私とカ-テスは長い間無言で歩いていた。
あの名前も知らないご老人は、今頃どうしているのだろう?
何事もなかったように診療所に戻って、近々遂げる復讐の為に、病人達の世話を続けているのだろうか?
なんとかして彼を止める方法が、何処かにあっただろうか?
彼を止められなかったのは、私達が未熟だったからなのだろうか?
考えれば考えるほど、胸が痛くなっていく。
「カ-テス」
私は不意に立ち止まって、カ-テスを呼び止めた。
彼は、整った顔に苦悩の表情を浮かべ、肩ごしに私を振り返った。
多分彼も、考えていたのだろう。私達に、もっと何か出来る事があったのではと。
やり場のない敗北感に包まれ、それでも答えを探して悪あがきをする。
鬼は、私達にとっては、只の人のよいご老人に過ぎなかった。
なのに、どうして止められなかったのだろう?
何時までも、何時までも、後悔が燻り続ける。
酷く感情が乱れていた。
「貴方のせいです」
我知らず、その言葉が口をついて出て来る。
揺れ動く思いのまま、私は子供の頃のように、苛立ちを彼にぶつけていた。
「貴方と出会ってから、私の風は鈍くなってしましました」
カ-テスは、瞳に苦痛の色を浮かべ、黙って聞いている。
蒼い月明かりの中で、彼の澄んだ瞳がキラキラ輝いていた。
「こんな思いをするのも、みんなあなたに再会したせいです」
理不尽な事を言っている、理性的な部分ではそう思った。でも、一度言葉を吐き出してしまうと、止める事が出来なかった。
「あなたになど、再会しなければよかった。そうすれば、あの老人にしたって、フェミアにしたって、私が関わる事はなかったのです」
カ-テスは、やはり無言だった。
あの頃と同じように、どんな言葉も優しく受け入れてくれる。
すると私の感情は、よりいっそう暴走していくのだ。
「・・・私は、関わりたくなどないのです。こんな、苦しい思いをするくらいなら、一人で流れ続けていた方がいい。国王や、母上や、城の者達だって、私に関われば不幸になるだけです。私は、みなが不幸になる姿など、見たくない。見たくないのに・・・」
子供染みた事を吐き出しているうちに、視界が歪んで雫が流れ出した。
カ-テスのせいではない。そう自分に言い聞かせようとするのだが、感情はカ-テスのせいだと言って聞かなかった。
彼が居るから、私の風が狂ってしまったのだ。
彼が関わろうとするから、私までも関わる事になってしまうのだ。
「もう、私の事は放っておいて下さい!あなたは、城に帰って下さい!」
やはり、カ-テスは聞いているだけ。
あの、ひどく悲しそうな、私を労るような目で。
突然、感情の糸が切れる。
過去の幻影が蘇って、私にとりついた。
そうだ、私は彼のその目が、何にも増して腹立たしかった。
全てを手にしている私が、まるで哀れな者のように感じさせられるから。
弱くて、無知で、愚かな気分にさせられる。
ひ弱で愚鈍な少年などに、同情されるような自分ではないのに。
今も、そうだ。
私は彼よりも世の中を見て、彼よりもよく知っている筈だった。なのに彼は、まるで何も知らない哀れな少女を見るように、私を見つめている。
彼に同情される事など、何一つない。同情されるくらいなら、憎まれた方がいい。
「そんな目で、私を見ないで!お前は、何時だってそうだった。私は、哀れなんかじゃない。私は、私の意思でこの道を選んだのです。帰って下さい、帰りなさい!」
私が言葉を詰まらせたのと、カ-テスが私の腕を掴んだのはほぼ同時だった。
彼の手が、そっと私の頬に触れる。私はその手を振り払い、激しく彼を詰り続けた。
「私は、お前なんて嫌いです!ずっとずっと、嫌いだったから苛め続けた。だから、帰りなさい!命令です、お願いだから、帰って!」
「帰りません!」
驚いて見開いた目に、彼の頑な表情が見えた。瞬間、逞しい腕が私の体を包み込む。
その肩越しに、滲んだ青白い月が見えた。
「あなたの苦しみが、僕のせいだと言うのなら、どうか許して下さい。あなたが僕を罵る事で、気持ちが収まるなら、気が済むまでそうして下さい。ただそれだけでもいい、あなたが、僕を必要としてくれるのなら、どんな形であろうと僕は構わない」
胸のざわめきと共に、強い風が吹き荒れる。
風は私の銀の髪を乱し、カ-テスの黄金の髪を乱した。
目の中で、二つの色が重なり合って溶ける。
「離して下さい」
私は突然我に返り、戸惑いと混乱を隠し切れずに言った。
男の人に、こんな風に抱きしめられたのは、生まれて初めての事だったのだ。
「離しません!」
逞しい腕でしっかりと私を捕まえたまま、彼が言った。
押しつけられた耳に、高鳴る鼓動が響く。
まるでそれが、自分の胸の鼓動のような気がして、かっと頭に血が昇った。
両手を彼の胸に押し当て、その腕から逃れようとする。
「僕の腕は、あなたの為にある。今も、昔も、僕はあなたの為だけに存在するのです。どうか、その悲しみの半分を、僕に預けて下さい。城に戻りたくないと言うなら、僕はあなたが戻る気になるまで、ずっと待ち続けます。それでも嫌だと言うなら、城に戻らなくてもいい。けれど、側に居る事を許して下さい」
「・・・・何故です?どうしてあなたは、私の為にそこまで言うのですか?」
私は、逃れられない罠に捕まった野ウサギの気分で、力なく呟いた。
「僕にとってあなたは、この世で唯一、ただ一人だからです」
そう言うと、彼はそっと手を離して私を開放してくれた。
この世で唯一、ただ一人の人・・・・・。
私が?
そんな事は、あってはならない事なのに・・・・・。
誰かに、必要とされるなど、あってはならない。
私は、風になるために城を出た。誰とも関わらない為に、さすらい人となった。
関わる者を、不幸にする星。それが、私の宿星なのだ。
カーテスを、この心優しい若者を、不幸にしたくはなかった。
なのに、彼に引き止められると、心が激しく揺れ動いてしまう。
強い気持ちで、拒否出来なくなっている。
駄目だ、考えてはいけない。求めても、期待しても、望んでもいけない。
私は風、ただ何も無く、流れているだけの存在。
「世の中には、理不尽な事や、どうしてもうまくいかない事や、分かっていてもどうにも出来ない事が沢山あります。今日のように、苦しいだけの事も。でも僕は、それでも人は素晴らしいものだと、信じていたいのです。届かない思いでも、届けようと努力したい。それで失敗して苦しんでも、諦めたくはないと思っています」
カ-テスは、憂い顔に少し笑みを浮かべ、今度は優しく私の手を握った。
「あなたの風を、もし僕が変える事が出来るのなら、違う方向に変えていければいい。あなたが不幸を呼ぶと言うなら、僕はそれを止める為に頑張ります。だから、一緒に行きましょう。あなたの側に、居させて下さい」
風を、変える?
今まで考えもしなかった言葉に、私の心は波うった。
彼は本気で、風を変えられると思っているのだろうか?
セリュウも、あの老人も、私は止める事が出来なかった。
この先も、私が人に関われば、より多くの悲しみを知る事になるだろう。
彼はその悲しみを、越えられると思っているのだろうか?
何時か、止める事が出来ると。
もし、私の宿星から開放される時が来るのだとしたら、一体私はどうするだろう?
頭が、くらくらしてきた。
期待してはいけないと言い聞かせてきたのに、期待せずにはいられない気持ち。
城に戻って、全てを話す。
母の罪や私の罪を、許して貰おうとは思わない。でも、この足かせを外す事が出来るのなら、私は苦しみから開放されるかもしれない。
例え罪に問われたとしても、責められたとしても、心は自由になる。
・・・・・風よ、私はこの人と、一緒に行くべきなのか?
お前は、それを望んでいるのか?
私の問いに答えるように、風が私とカーテスを包んで、優しく吹いた。
風が、望んでいる?
私の風を、変える。そう、彼は言った。
期待はしていない。でも、カ-テスと共にいれば、不思議とそれも出来そうな気がした。
母の代わりに私が罪を償う事になろうとも、だ。
それでも、彼は私を見捨てずにいてくれるだろうか?
変わらない笑顔を向けてくれるだろうか?
怖い気持ちと、温かい気持ち。
困った事に、思ったよりもずっと、私の心はカーテスに傾いているのかもしれない。
「あのお爺さんは、罪を犯しました。そして、僕等は彼を止められなかった。でも、まだ生きています。まだ、最後の復讐を遂げてはいないのです。だから、僕は諦めません。出来る限りの事はしましょう。簡単な事でも、出来る事はしていけばいい。次の町で、公安に話せば何とかしてくれるかもしれない。もし信じてもらえなかったとしても、、あの老人に手紙でも、伝言でも、とにかく伝えられるような方法を探せばいい。みっともないくらいに、お節介でも、疎まれても、何度でもお願いするんです。何か、きっと何か、僕らにも出来る事がある筈。出会いを無意味なものにしない為には、僕等が頑張らねばいけない」
・・・・・ああ、なんて前向きな人だろう。
きっと彼が私だったら、城から逃げる事さえしなかたかもしれない。
彼ならば、風に向かって立ち向かっていただろう。
「・・・でも」
私は、懐かしき人の顔を思い出して言う。
「でも私は、これからも風の行くままに進みます。それが、フィドとの約束ですから」
風と共に行きなさい、それが彼との最後の約束。
どんな事があろうと、それだけは守り続けたい。
「姫様が望むのなら、そうすればいい。僕は構いません。あなたの行く道は、僕の行く道です」
カ-テスは、ぎゅっと指に力を入れて言った。
その手の温もりを心地よく感じながら、私達はゆっくりと歩きだす。
サデスの町で、私は流離い人の衣装を、彼は聖騎士の衣装と印を無くしてしまった。
それでも私は風に従い、彼は私と同じ道を歩んで行く。
風がカ-テスとの再会を求めたのだとしたら、私の風が、一体何処へ導こうとしているのか分からなくなって来た。
依然、東へと吹き続ける風に、強い不安が過ぎる。
震える私の手を、カ-テスが強く握った。
それだけで、不思議と心が安らいでいく。
だからこの東風と共に、真っ直ぐ歩いていく勇気が沸いてくる。
ならば、行こう。
そうだ、この風と行けば、きっと何かが分かるかもしれない。
全ては、風のままに。
二人で、静かに歩き出す。
風と共に行けば、恐らく辿り着く場所。
王都、ト-レストに向かって。
第2話 END
東風 しょうりん @shyorin
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