第62話

 無念さも悔しさも怒りも何も抱いていないブチの表示に、それほど疲れていたのか、それほど突然にやられたのか、と僕は思う。

 そして、その時間は着々と僕の身へも迫っているのを、ストン、ストン、という静かで殺風景な空間に波紋のように響く音から感じる。

「立派だね、君は。ごめんな、この前、自分だけのことで、怖い思いをさせてしまって」

 不意に投げかけられた謝罪の言葉に僕は少し驚く。

 ――ただのシリアルキラーでは無かったのか。


「一つだけ言い訳させてくれ」


 そんなことを許すと思っているのか。必死に身体を起こそうとするも、全身から力が抜け落ちていて、身体はピクリとも動かない。

 もう、死んでるも同然じゃないか。

「ブチは、かなり弱っていた。もうどのみちダメだったんだ。だから、自分自身のけじめとしてもやった。ブチにこれ以上苦しんでほしくなかったんだ。苦しみを全く味わっていない猫によってね」

 何がだ。

 そんな偽善者ぶった思いからお前はブチの首を引きちぎってそのまま投げ捨て、内臓をえぐってそれを殺人猫に与えていたのか。

 イエロー・アーモンド・アイ――宮田咲月の高校生の途中までの相棒、サラはバイクに轢かれて亡くなった。即死だったそうだ。苦しまずに逝けたと思うのは本当だろうか。自由に動く身体を失ってから、魂は相当苦しんだのではないか。六方向からナイフの付いたプレス機でグサグサに刺されながらぺしゃんこに潰されるほどのものを。

 それなのにこの猫と人間は馬鹿みたいな正義を盾に、素晴らしい家庭を待ち望んでいた猫を殺したのか。

 ギリ…

 擦り合う歯から胸を彫刻刀で削るみたいな不愉快な音を漏らす。


「もう、苦しめないから」


 ――ふざけんじゃねぇよ。

「ミャァッ……」

 唸るつもりで鳴いたはずが、弱々しく返事をするようなものになってしまった。

 裏にいる“そいつ”がニコリと嗤ったのが背を向けていても分かった。ゾクッと背中に走る悪質な寒さによって。

 ズボンの布が折れる音。身体のすぐ上に気配を感じる。

 暗い闇の中、閃光が僕の目を突き刺す。イエロー・アーモンド・アイのこの世のものではないおぞましい光を跳ね返す、ハンティングナイフの鋭利な刃。


「サヨナラ」


 僕はストンと、重力に任せて目を閉じた。




 トクン、トクン、トクン、トクン

 弱々しくも確かに波打っている胸の音を地面を伝って耳が受け取り、僕は目を開けた。

 ――あれ、まだ生きている?

 心拍数からすれば、長くとも数十分で死ぬことは明白だったが、それでも僕は束の間の溜息をついた。安堵の溜息。

「……バレたのか」

「当たり前じゃないですか。いきなりうちの猫がちゃんと閉めていたはずだったゲージの扉をぶち抜いて、今川さんのせいで隙間があったゲージスペースの入り口も擦り抜けて、引く方のはずの鉄扉まで開けちゃうんだから……。すぐに駆け付けましたよ」

 ――すぐに?

 思っていたよりも、時間は経っていなかったということか。僕が目をつむっていた時間も、長めの瞬きと同じくらいのものだったらしい。

「どうです? ミケはまだ、息をしていますか?」

 混濁とした意識が急に晴れていく。確かに、僕の世話をしてくれた一人、小石桜子の声。

「……サラに首を噛みつかれていましたが、まだ生きています。良かったです、とどめを刺してしまう前で」

 “そいつ”の声はサバサバしていた。全てを受け入れたかのような。また、どこか清々しさと嬉しさを伴ったような。


「ミケ、まだ生きれる。生きれるからね。私たちが絶対守るからね」

 加藤厚子の声。

「憎々しい今川と一緒にブタ箱にぶち込んでやっから」

 富岡鈴奈の声。

「もう大丈夫だ、まだこっちには来なくていいぜ」

 浅田有樹の声。

「……ミケ、あんたは私の子だからね!」

 そして、宮田咲月の声。


 身体がふわりと軽くなっていく。

 気づけば、四肢に力が戻り、身体が地面から離れていた。

「ミケ!」

 女性の感嘆の黄色い声。

「……ありがとうございます、自分を見つけてくれて。ずっと、嫌だったんです」

「うるさい、あんたは。モテたいって思ってたんだろうけどね、あんたは女性たちの視界にも入ってなかったんだからね」

 加藤がなじるように言った。

「……ですよね」

 力なく、“そいつ”が肩を落としたのが雰囲気で分かった。

「なぜ僕のことが分かったのか、教えてくれませんか? みなさんの推理、聞いてみたいです」

「まあ、一つは、ちょうどこの時間に療養中って言っていたブチが帰ってくるってこと。それが私たちの今川との面談と重なっていたから。もう一つは、あんたの理解者の方々から引き出したこと」

 宮田が言う。

「なんだ、圭壱朗から聞いたんだ。あいつ、絶対喋らないって言ってたのにな」

「会社に連絡するっていったらすぐに吐いてくれました」

「……らしいな」

 フフッ、と静かに“そいつ”は笑った。

「まあ、それ以外にも色々考えはありました。それは、後で全部教えてあげます。なので、ひとまずあんたはまず、ミケを引き渡しなさい」


「……ミケは、かなり衰弱しています。肩からの出血も酷い」


 急激に“そいつ”の声が冷めたのが分かった。背中に刃物を当てられたようなひやりとした感触と、一気に湧き上がってくる鳥肌。喉がカラカラで、最期に水が飲みたくなった。


「苦しませながら死なせるのは、自分の好みではありません。……サラ」

 ヴルルル、と全身の毛を逆立たせる唸り声。

 富岡が悲痛な声で叫んだ。


「止めなさい壮紫!」


 次の瞬間、首筋に何かがブスリと刺さった。

「ィャァ……」

 大動脈が粉々になる、一度も聞いたことのないけど想像できる音が耳から脳にハウリングする。

「ッ」

 息がプツンと途切れる。せめて最期に思い出を回想したいなと思った瞬間、僕の視界に黒い幕がダランと降りた。

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