第32話

 ゲージスペースから廊下を通って、スタッフのデスクの山の部屋と対になっている部屋に、バックヤードがある。

 先日、どこかの店でバックヤードの劣悪な環境が報じられて話題になったことがあるが、この店のバックヤードはそんなことは無く、窓もあり、空調もしっかりしている、安心できる休眠スペースだ。

 ゲージは銀色の細い金網で覆われたもので、その中にシェルターや水入れ、エサ入れが置いてある。

 それが、大きな机に横並びで設置されているのだ。

 ちなみに、いくつか、売れ残ってしまって宮田や加藤、小石、富岡などのスタッフが自宅で面倒を見ることになった猫の空っぽのゲージも残っている。それでも、売れ残った猫に対する待遇はかなり良い。そもそも、大体の猫は買い手が見つかって、いつの間にかいなくなっている。

「ミィャァォ……」

 隣にいるブチは、大きな欠伸をした。

 それでも、全員、完全に氷のようにカチコチなのだ。寒さと恐怖が相まってみんな固まって、シェルターの中にある毛布に頼らざるを得ない状態。

「ムワァン」

 と、ブルーの低い鳴き声が聞こえた。

 僕はおもむろに身体を起こし、感覚の消え失せた肉球で地面を押す。

「ムワァン、ムオォン」

 ブルーが小さな声でみんなに語り掛ける。三匹の仇を討とう、と。

 彼の青い、宝石のような瞳はまるで燃えているようだった。

「ウアァン、ウアァン」

 そのために、何か知っていることを出せ、とブルーは言いたいらしい。

 ひたすら冷静で、月のイメージがよく似合うブルーに、僕は小石の姿を重ね合わせていた。


 結局、かなりの有力情報が集まった。犯人特定間際ではないかというくらいに。

 ――あいつの足から、血の臭いがした。

 ――停電している間、ほのかな香水に、汗の混じった臭い臭いがした。

 ――キングの時、金縛りに合った。その中で、予想外の人間が入ってきた。

 ――ハチワレの時は分かりやすかった。閉店の十五分前から蛍の光が流れ出すわけだし、ちょうどその時、ね。

 ――ハチワレがいなくなる前にバタン、ってドアが開く音が聞こえた。そこら辺から、みんな睡眠から覚めだして。そしたら、ハチワレがいない、みたいな。

 ――ちょうどドア開けて、すぐだからね。それが最後だった。そこから、蛍の光が鳴り終わったと思ったら叫び声だから。

 ――確か、カバンがいつもと違ったんだよな。高級なもの持ってるくせに、安物で来ていた。

 それぞれが、目を閉じてキングへの想いを星に捧げて、就寝となった。




 ガシャン

 耳がびくりと震え、それが順に身体に伝わる。

 ――なんだ?

 僕は目をおもむろに開いた。

 ガシャ、ガシャン

 まだ音がする。金網のゲージにぶつかる音。

 ――誰か、いる?

 まさか、僕たちを殺しに……? 

 その可能性を思いついたとたん、首に氷柱を当てられたような激しい悪寒が走った。

 ゾクゾク、ゾクゾク。

 目を閉じて、耳に意識を集中させる。

 スタッ、スタッ、スタッ、スタッと微かな足音。段々と、音が近づいてくる。

 ――人じゃない?

 ゲージで占領された机の上で人間が歩けるわけがない。足跡の大きさからしても、人間ではない何かと考えるのが妥当だ。

 ――犬? 兎? いたち? それとも、ハクビシンとか蝙蝠?

 と、真っ黒になっているはずの閉じた瞼が、何やらパァッと明るくなった。


 ヴヴヴヴヴヴヴ……ッ


 低く、冷たく、禍々しく、恐々しく、そして恨みがましい声。聞いただけで悪寒が走り、全身の毛がビリビリと逆立ち、ガクガクと震えが止まらなくなるような声。

 以前も、似た声を耳にしたことがある。その時、見たものは……。

 LED電灯に座っていた黒い、猫よりやや大きめの生き物。

 光がだんだんと強くなり、つむった瞼の向こうがどんどん黄色くなっていく。レモンのような、何も混じっていない明るい黄色。

 僕は、このまま目をつむっているのが怖くなった。このまま目をつむっていれば、気が付かぬ間にもう手遅れになるんじゃないかと思えてきた。

 心臓がバカみたいにドクドクと血液を送り出す。だが、回数は多くても一回の力はかなり弱々しい。

 恐怖心、それに潜む小さな好奇心に、僕はついに打ち勝つことが出来なかった。

 瞳を目いっぱい開ける。


 目の前に、自分の身体の一点五倍くらいある黒猫がたたずんでいた。


 足の爪は鋭く長く、整えられていないバサバサした毛に隆々とした足の筋肉。

 あの時、電灯の上に座っていたものと、一分も違わぬものであった。

 そして、その顔。

 顔の三分の一くらいを、妖しい黄色の光を発する、アーモンドを横倒しにしたような巨大な目が占拠している。耳は、片方が少し切れていた。髭はかなり長めで、透き通った黒色。口には、サーベルタイガーとかいう昔の猫をそっくり再現したような、巨大な犬歯が二本刺さっていて、これに捕らえられれば骨の髄まで粉々にされちまうんだろうなと容易に想像がつく。現に、牙の溝には少し血が付いているし。

 後ろ左足の付け根にある大きなあざが、こいつのこれまでの戦いを物語っていた。

 幸い、こちらは見ていないようだったが、もし見られたらどうなることだろう。金網を突き破られ、僕は死ぬのか。

 

「ヴルルルル」


 と、太い首がゆっくりと回転した。

 全身の毛が立ちあがる。ガクガクガクガクと、前足が震えだす。後ろに下がらねば、と思うが足が動かない。ほどなく、震えていた前足の関節が抜けて、ガクンと力なく折れ曲がった。

 ――み、見るな。

 黄色い大きなアーモンドアイは、一体何を考えているのか分からない目だった。そこらの電光掲示板とあまり変わらないような、無機質な目。

 その目が、こちらをじっと捉える。黒目は、確かにこちらを見据えている。


 刹那、口の端がキュッと吊り上がった。


 黒猫は、こちらに向けて嗤ったのだ。次の獲物はお前だ、と言わんばかりにニヤリと嗤っているのだ。

「ミ、ミャァ……」

 弱々しい声が出る。糸で全身が吊し上げられているようだった。身体が動かない。

 黒猫は一歩、スタッ! と素早く足を出した。

 ビクリと身体が動く。何とか、身体を小さく見せようと、僕は死力を絞って足を畳み、身体を毛布に伏せた。

 それを見た黒猫は、ますます愉しそうに嗤って、ゥルゥーと声を上ずらせて鳴いた。

 そのまま、足をしなやかに動かして机を蹴り、姿を消した。

 再び訪れた夜の静寂。身体の自由が、戻っていた。

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