第22話

 ここで風呂。

「はい、暖かいよー」

 不思議な力のあるあの紙を見てから、自然と凝り固まっていた筋肉が少しずつほぐれていく。

「何か変なとことかありませんか?」

「それは今から見ますよ。まあ、でも今のところ変な様子は無いですね」

 宮田と浅田が喋っている。

 宮田の頬が、ぽっと、お風呂上りみたいな赤みを帯びているのが可愛らしい。

「そうですか。良かったぁ」

「そうだ、ちょっとあの、前遊んでた光線借りて良いですか?」

「え、もももちろん!」

 ――テンパってるな。

 なんだか面白い。

 ――いや、ほっぺは真っ赤でも、目が笑ってないな。

 ニカッと笑った時にできる、可愛い目尻。あれが、無い。僕には分かる。

 ――あの二人の関係性は、どんなものなんだろう?

 猫心に知りたいと思っても、そうは行かないことは分かっている。そのせいで、良い匂いがしてよだれが止まらないときみたいな、ソワソワした感覚に襲われる。


「ほい、お風呂終わり」

 浅田がやって来て、身体を持ち上げる。

 ――手、ガサガサだ。

 柔らかいタオルに身を包まれてわしゃわしゃされながら、いつも頑張る浅田の姿を想像していた。

「そんじゃ、こいつに残り切ってもらってくれ」

 大倉がやって来た。

 大倉の手は、骨の形に近いくらい細長い手だった。

 彼は腰に掛かっている道具掛けからハサミを取り出し、サッサッサと軽い音を鳴らす。

 身体が少しだけフワッと軽くなったような気持ちがしないでもなかった。


 ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……


 ――ん?

 妙な音。


 ハァ、ハァ、フゥ、ハァ、ヒィ……


 それが人間の息遣いだということに気付くのに、僕は数秒かかった。

 皮膚に弱い風が当たっている。生暖かいその風の正体が大倉の漏らす息だということは、少し考えただけで分かった。

 ――アレルギー反応とかいうやつ?

 振り返ることは出来ない。それがますます怖かった。気づけば、シャキシャキシャキというハサミの動く音すら聞こえない。

「ああ……マズい、ダメだ」

 呟き。間違いなく、酷い焦りを含んだものだ。

 少しだけ身体をずらし、チラリと大倉の顔を盗み見る。

 彼は、大粒の汗を流して荒い息をつき、ハサミを強く握った手を震わせていた。

 周りのトリマーは、自分の作業に集中していて全く気付いていない。

「……あ、ああっ」

 ギリリ、と歯がこすり合う音が聞こえた。

 刹那。


 大倉は、ハサミを持った手を大きく振り上げた。


 ――え。

 そのまま、何の躊躇もなく勢いよく振り下ろした。スローモーションで、きらりと光る金属のハサミが身体に迫ってくる。

 ――マズい。

 そう頭は思っていても、なぜか目はじっとハサミの先端を追い、四本の脚は全く使い物にならなかった。鼓動がだんだん早くなっても、なぜか頭に血が回らない。

 先が、段々と落ちていく。慟哭が止まらない。僕はギュッと目をつむった。

 ガン!

 ――あれ?

 そっと目を開ける。

 痛みは感じない。ただ、身体のすぐ脇に、ハサミの先端が突き刺さっていた。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

 大倉の息と、シャキシャキシャキシャキというトリミングの音、水の音、それくらいが狭いサロンの中で鳴っていた。

 一見、静寂な平和に見える光景だった。




 結局、トリミングは大倉の手によって終了した。

 意外にも他のトリマーは気付かなかったようで、塗装が少しめくれているトリミングテーブルを見てギョッとしているくらいのリアクションだった。

「はい、オッケー。綺麗になったでしょ」

 耳掃除が終わって、トリミングは終了。

「そんじゃ、誰か呼んでこよっか……」

 それよりも大きな声が富岡の声を邪魔していた。

「おかしいと思わない? 変な過去があっても、ねぇ、いくら何でもそれだけで人を疑うなんて。みんなアタシのこと避けていくわけだし。ホントみんな狂ってるよね。どれだけ私のことが嫌いなのか知らないけどさ……」

 大浪は真剣な顔をして、お客さんの猫のトリミングをしていた。

「……ヤバくない? ホント」

 僕は元から葉山の予感がしていた。

「はい、お迎え来たよー、ちょ、葉山あんた止めてあげなよ。集中させてあげないと。お客さんの猫なんだから、それをあんたのせいで傷つけたらどうするつもりなの?」

 加藤だ。出会った瞬間気づいて、唾でもかけん勢いで文句を吹っ掛ける。

「ん? 猫を傷つけられるなら本望かな、やっぱ、ね」

「はぁ? 犬と一緒だよ、犬と命の重さは何も変わらないのよ?」


「人間一人分の命と、それ以上の苦しみや悲しみを背負わせた奴に生きる資格なんてない」


 ――生きる資格なんて、無い?

「ふざけてんじゃないわよ。あんた、そりゃ悲しかっただろうけどそれで猫を恨むのは筋違いだと思う。ねぇ?」

 たまたま近くを通った大倉に、加藤は訊ねた。

「え、あ、え……」

「大倉君でもこれじゃん。なんか恨みでも持ってんのかな、彼も、猫に。店長にでも聞いてみたらわかるかも」

 大倉は、右上に黒目を向けながら、そーっと駆け抜けていく。

「ちょっと、富岡さん、ハサミ、新しいのにして良いですか?」

「あぁ、良いよー」

 加藤がどうこう言っている間は、帰れない。

 ――早く帰らせてくれ。

 一刻も早く、ハサミの恐怖を忘れたかった。

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