第二章・ミケ

第21話

「バウバウ! バウバウバウ! ヴヴヴヴヴヴ……」

「シャーッ!」


 自分の目の前で、火花が散るのが目に見えるようだった。

「ホント腹立つんだから……」

 肝心な犬担当の葉山は止めようとはしない。むしろ、憎しみに近い目をブルーに集め、ヌシを激励しているような態度だった。

「やっちゃえやっちゃえー」

 二匹はしばらく睨み合う。

 ――もう、普通に遊ばせてくれればいいものを……。

 僕はあくび一つ、そっと身体を回転させて逃げる。

 それがゴングになったかのように、ブルーが青い目を光らせてヌシの顔を引っ掻こうとした。手は届かなかったが、次は当てるぞ、というメッセージのように思える。

 と、それにキレたか、ヌシが垂れた頬をブルブル揺らしながらブルーに襲い掛かろうとする。

 だが、ブルーはさらりと横にずれ、ヌシの攻撃を避けた。と思うと、すぐに身体の位置を直して、相手の尻にパンチを食らわせる。

「バウバウ!」

 不覚を取ったヌシはギロリとブルーを睨む。ブルーは、いつも通りの何を考えているか分からない、純粋な青い瞳に戻った。

 ――もはや、このブルドックを敵だと思ってないな。

 ヌシが再び牙を剥き出しにし、前足で地面を引っ掻く。そして、地面を蹴った――!

「はい、そこまで」

 スタートする寸前で、ヌシは太い木の幹のような腕に、容易く身体を持ち上げられた。

「バウ、バウバウ!」

 足をジタバタさせるが、宇野は降ろしてはくれない。

「はい、もう帰るよ。猫とずっと喧嘩しない!」

 そのまま、犬コーナーと猫コーナーが繋がる扉が閉じられた。バウバウ、という威勢のいい鳴き声だけがドアの向こうから微かに聞こえた。




「全く、朝っぱらから変な喧嘩して、ねぇ?」

「ミャー」

 全く、その通り。

「今日、ミケはトリミングだからね」

「ンミャー」

 起きたら時々毛が変な方向に曲がってて困っていたところだ。

「じゃ、ごゆっくりお食べくださーい」

 宮田はそう言って、隣にいるブチへご飯をやりに行った。

 のっそりと僕は起き上がって、エサ台の前に身体を落とす。

 ガリ、ガリ、ガリ、ガリ

 いつもの味。


 ――じゃ、無い?


 違う。若干塩味が入っているのは一緒でも、鈍い舌を騒がせる肉の味が無い。それどころか、若干苦いような気もする。

「ミャー、ミャーミャー」

 上から鳴き声がする。長毛のシロの声。

「あ、気づいたかー。さすがは女王様。鋭いねー。ちょっと今日はエサが違うの」

 なぜだ?!

「ニャー! ニャーニャニャー!」

 右隣からも声がする。

「ンナー」

 左隣のブルーのゲージからも、低い声が聞こえる。彼は鳴くことが少ないのに。

「マジか、みんな気づいてるね。どう、美味しい?」

 ――美味いわけがなかろう!

「ニャー!」

 みんな、味にうるさいみたいだ。

「んー、ブルーが鳴くってことは、あれかな……? やっぱり」

「ミャー、ミャー」

 これは一体何なんだ?

「これね、みんな、新しい商品の試作品なのよ。肉とか魚とかの成分抜きでどれくらい行けるか、みたいな実験らしいけどね」

 ――マズいに決まってるでしょ!

「猫ってさ、味、あんま感じないって言うじゃん。味蕾が少なくて、苦味と塩味と酸味と旨味。でもアミノ酸はめっちゃ好きって。栄養も大事だけど、やっぱり猫がどれ美味しいと思うかは大事だと思うんだけどねぇ。お肉美味しいもんね?」

「ニャー!」

 ブチが勢いよく返事した。




「それじゃ、行こうね」

 小石に抱え込まれてる。体からは、ディープで深みのある香りがした。彼女の持つ雰囲気と相まって、何だかミステリアスな。

「はい、ミケちゃんね、それじゃあカットしていこうか。今回は、猫アレルギーの可能性アリの大倉君に猫への耐性を付けるべく、大倉君に切ってもらうからねー」

 甘い香りがする富岡は、今日はお団子ヘアーで来ていた。昨日はツインテールの編み込みだったような気がする。

「お願いします」

 そういう彼は、最近見かけるようになっている気がする。とにかく細くて、風が吹けば倒れるか折れるかしてしまうのではないか、というほどヒョロヒョロなのだ。

 しかも、何があったか今日は顔や足、腕に引っ掻き傷までついてしまっている。

 大倉の元へ、僕は歩いていく。

 ――ん?

 何だか、誰かに監視されているような気がする。

 その方向をチラリと向いて見る。そこにあるのは浴槽の下側と排水管だった。

 ――でも、何か貼ってある?

 浴槽の下側の、排水管の付け根に近い部分。紙がさりげなく付いている。小さなメモ帳ほどの紙にはただ二文字だけがマジックペンで殴り書かれていた。


『死ね』


 と。


「とりあえず、爪を切ろうか、まずは」

 何だか、異様な雰囲気を放っているその二文字を知ってか知らずか、彼は僕の身体を持ち上げ、トリミング台に乗せた。

 爪切りを取り出し、腕を上げて切っていく。

 ――遅いなぁ。

 富岡は随分早く、なおかつ正確にやっていた。新入りだから仕方ないのかもしれないが。

 ――それでも、腕が震えることは無いだろうに。

 同時に、手が空いていた富岡がブラッシングをしてくれる。いつものブラッシングに、僕はかなり心を和ませた。いっそこのまま眠ってしまいそうなくらいに。

「爪、終わりました。ハ、ハクション!」

 大きな音が鳴る。

 ――全くうるさいなぁ。

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