8
私は立ち上って常田と路上喫煙女を出迎えた。女は怪訝そうな面持ちだ。見覚えは無かった。初めて見る顔だった。
「こんにちわ。私は新宿警察署生活安全課保安係の草間と言います」
私から声を掛けた。女は何かを悟ったように「あぁ」とだけ言った。
常田が警察手帳を出して女に見せた。
「すいません嘘言って。私は警視庁捜査一課の常田です。昨日ホストがラブホテルで刺された事件の事知ってますよね?」
常田のその言葉を聞いた瞬間、女は踵を返して逃げようとした。素早く常田が回り込んで女の前に立った。女の額が常田の体にぶつかった。女は逃げるのを諦めたようにただうつ向いて立ち尽くした。
「なんで逃げるの?事情を知ってるね?ここじゃ何だから車の中で話そうか?同行してくれるね?」
常田の言葉に女は小さく「はい」とだけ言った。
私が女の背中に手を回してパーキングまで誘導した。その時に女の足元を見る。特に変わった事は何もない。女の黒い革のブーツがコツコツと音を鳴らしているだけだ。
車までたどり着くと、常田は運転席に、私と女は後部座席に乗り込んだ。
女は下をむつ向いて今にも泣き出しそうな暗い表情をしていた。精神状態はあまりよくなさそうだった。
常田が喋りかけたところを私は手で制した。
「ここは私に任せてください」
皆川管理官が私にこの任務を任せた理由を語った、あの言葉を思い出していた。
「あなたお名前は?」
「野口マイナです……」
消え入りそうな小さな声だった。
「マイナさん安心して。私たちはあなたを責めたり絶対にしない。あなたの言葉をちゃんと聞く。あなたの言葉を絶対に信じる。だから知ってることをすべて正直に話してほしい」
マイナは返事もせずただ黙っていた。
「ミズキさんって子と仲良かったわよね?」
マイナは頷いた。
「私たちは、ミズキさんが今どこにいるのかを調べてるの。だからミズキさんと仲が良かったあなたが何か知ってるんじゃないかと思って、あなたに話を聞きに会いにきたの」
マイナはうつ向いたままようやく口を開いた。
「ミズキが、ミズキが殺したんですか?ミズキが犯人なんですか?」
マイナの声は少し震えていた。
「今のところその可能性が高いと私たちは思ってる」
マイナは両手で顔をおおって、肩を震わせ鳴き始めた。私はマイナを抱きしめて落ち着くのを待った。そうした方がいいと思ったからだ。
「大丈夫?話せるかな?」
しばらくして私がそう言うと、マイナは涙を手で拭いながら頷いた。
「まずは率直に聞くわねマイナさん。あなたミズキさんの犯行や逃走を手伝ったりはしてないわよね?」
「してません……。でもこんな事になったのは私のせいです。私がちゃんと引き留めてたら……」
「どういうことかな?」
常田が何かを言いかけて思いとどまったのが分かった。聞き込み捜査のプロからしたら焦れる時間の使い方かもしれない。よく我慢してくれている。
マイナは落ち着いてきたのかまだ若干震えが残るが口調がしっかりしてきた。
「ミズキの様子がおかしかったから。心が壊れてる気がしたから。だから一人にしちゃ駄目だって思って。でも引き留められなかった……」
「様子がおかしいっていうのは具体的にどんな様子だったの?」
「熊のぬいぐるみが話しかけてくるとか。熊のぬいぐるみと会話してるとか言ってて……」
熊のぬいぐるみの事が出てきて、私の心に恐怖心が芽生えた。それを必死に気づかないふりをして押し殺す。今は聞き込みに集中しなくてはいけない。
「最後にミズキさんに会ったのはいつ?」
「一昨日です」
「そう。他に気づいたことはある?例えばリョウマについては何か言ってなかった?」
マイナは溜め息をひとつ吐いてから話し出した。
「リョウマの事は切るって。担当降りるって。もうリョウマの事はどうでもいいって言ってました。それと……」
「それと?」
「ミズキの口から直接聞いたわけじゃないけど、リョウマからミズキは暴力を振るわれてたと思います。ミズキと遊んだお客さんから、ミズキの体に最近できたようなアザがあったって聞きました。思い当たるふしはリョウマしかいないから」
私は常田と顔を見合わせた。常田はメモ帳にペンを走らせた。
ミズキがリョウマから暴力を振るわれていたとしたら、動機としては充分すぎる。ミズキの犯行を裏付ける物として、とても重要な証言だろう。
後はミズキがどこに逃げたのか。そのヒントだけでも引き出したい。
「ミズキさんがどこに寝泊まりしていたかは知ってる?」
「知りません。でもどこかのネットカフェだと思います」
ネットカフェは新宿だけではなく、渋谷、池袋、蒲田、中野、上野など近隣の街のネットカフェにも捜査の網を広げて調べているがミズキの発見にはまだ至っていないという。ネットカフェ以外にどこかあるのではないか?
「何か言ってなかった?どんな些細な事でもいい」
マイナはうつ向いて思い出そうとしている様子だ。焦れるが待つしかない。二、三分たったときマイナが口を開いた。
「そういえば、ミズキと一緒にいる時にNPO?の人に話し掛けられた事があります。ネットカフェ暮らしの子とかホームレスの女性をマンションの部屋に住ませてあげてる支援団体だって言ってました」
そういう支援団体はいくつもある。私が面談して支援を希望する女性に対して紹介する民間の団体でも、路上売春をしている女性に直接声を掛けている所があるらしい。
「その支援団体にミズキさんがお世話になってるって事はないのかな?」
「ミズキは断ってました。私も。でも名刺を貰いました。私はすぐ捨てたけどミズキが名刺をどうしたかは分かりません」
ミズキがその支援団体の用意したマンションに住んでいる可能性はあるだろう。
「その支援団体の名称、名前とか覚えてない?」
「名前は忘れました。でもタイガーズマンションの部屋に住んでもらうって言ってました」
「タイガーズマンションって明治通り沿いにある?」
「たぶん……」
私は再び常田と顔を見合わせた。ずっと黙って聞いていた常田が口を開いた。
「タイガーズマンションの部屋を借り上げてる女性支援団体を調べた方が良さそうですね。というかタイガーズマンションにもう直接行った方が早いかも。とりあえず管理官に連絡します」
常田が携帯電話をダイヤルした。
「ありがとうマイナさん」
私は自然にマイナの手をぎゅっと握っていた。マイナは再び泣き顔になって
「ミズキを助けてあげてください!お願いします!」
そう大きな声をあげた。今までで一番大きな声だった。
「大丈夫よ。必ず助ける。ミズキさんだけじゃない。マイナさんあなたの事も助ける。こういう事になってしまったのは私たち大人の責任。もっと早くミズキさんとあなたを見つけて手を差し伸べてあげるべきだった。でもこぼれ落ちてた。本当にミズキさんにもあなたにも悪いと思ってる」
私はさらにぎゅっとマイナの手を握りしめた。
マイナはポロポロと涙をこぼしながら黙ってうつ向いていた。
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