6―61 月下のフェンリル
正門の内側の中庭に大きな銅像が立っていた。
馬に乗った髭を生やした男の銅像で、マリウスは知らなかったが、現皇帝でこの要塞を造らせたニコラウス3世の像であった
空に次々と“ライト”が上がり、要塞内を照らし出す。走り回る兵士の怒声が聞こえて来る。
どうやらバシリエフ要塞の兵士達はハティの姿を見失っている様だった。
マリウスは中庭の銅像の前に静かにハティを下ろした。
向こうから兵士達がマリウスとハティの姿を見つけて、慌ててこちらに駆けて来る。
マリウスは左手にリザードマンの魔石を握ると、素早く皇帝の銅像に“魔物寄せ”を付与した。
100年は効果が続くように付与を施すと、ハティを空に舞い上がらせた。
矢が届かない位まで高度を上げると、再び湖側にハティを走らせる。
湖を泳ぎ切ったリザードマンが次々と城壁に取り付いているのが見えた。
リザードマンは走るより泳ぐ方が早いようだった。
城兵たちも今はリザードマンを防ぐ事に必死で、マリウスどころではなくなっていた。
水面を埋め尽くすリザードマンに向かって、要塞から放たれる特級火魔法が、水面で爆発し火柱と水蒸気が上がるが、リザードマンは怯む事無く次々と城壁に取り付いていく。
上空から城壁を見渡したマリウスは、一番守りが手薄な南西の角の城壁の内側にハティを下ろすと、背中に吊った剣を鞘ごと要塞内に投げ出した。
マリウスは既に術式鑑定で、城壁にエール要塞と同じように“物理防御”や“魔法防御”が付与された石材が組まれているのを読み取っていた。
石壁に右手を触れると、周囲の付与術式を総て“消去”して、石壁に向かって“結界”を一気に広げて城壁を粉砕した。
音を立てて湖に向かって崩れ落ちる城壁の向こうに、攻撃魔法の光に照らされる夜の湖面が見える。
水面を渡るリザードマンの群れが起こす波が、此方に向きを変えるのを確認すると、マリウスは再びハティを飛立たせてバシリエフ要塞を後にした。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼
イヴァン・マカロフ将軍はバシリエフ要塞に向かって軍を進めていた。
丁度リザードマンの群れの後を追う形で東に進んでいるので、被害は無かった。
街道には先に壊走した、第11と第7騎士団の兵士と思われる遺体が道標の様に続いていた。
斥候を放ちながら慎重にバシリエフ要塞に向けて進むイヴァンの軍に、レナータの第10師団の兵が追いついて来た。
兵を指揮しているのは副官のヴラスだった。
「レナータはどうした?」
「はっ! 私に軍を撤退するようにお命じになられた後、フェンリルを追って行かれました」
確かに子供を背中に乗せたフェンリルが、魔物の群れを引き連れているように見えた。
敏感に手柄の臭いをかぎ分けて追って行ったのはレナータらしいが、未だ自軍に戻っていない処を見ると、或いは彼女も討ち取られてしまったのかもしれない。
レナータの軍と自軍を合わせればまだ1万6千の無傷の軍勢がいる。
街道の周りに隠れていた第11と第7騎士団の生き残りの敗残兵も、イヴァンの軍に集まり始めていた。
バシリエフ要塞にも3千の守備軍が未だ残っているし、食料も豊富に備蓄されている筈だった。
暫くバシリエフ要塞に籠って様子を見るという選択もある。
恐らくこのまま帝都に引き上げたら、唯一生き残った将軍として、一人で敗戦の責を取らされるのが落ちである。
ただ先程から気になっているが、リザードマンの姿が見えてこない。
リザードマンは真っ直ぐバシリエフ要塞に向かっているようだった。
いやな予感にかられて先頭に馬を進めるイヴァンの元に、先行させていた斥候が戻って来た。
「将軍! バシリエフ要塞が……!」
「バシリエフ要塞がどうした?!」
馬を走らせながら斥候の報告を聞くイヴァンの目の前に、リカ湖の水面が見えて来る。
湖の向こうでバシリエフ要塞が、時々フラッシュの様に瞬く火魔法の炎や風魔法の雷の光で夜の闇の中に浮かび上がる姿が見えた。
イヴァンが湖の前で馬を止めて、対岸の要塞を見た。
月明りの下で目を凝らすと、アリの様に要塞にリザードマンの群れが取り付いているのが分かる。
やがて主城に炎が上がり、攻撃魔法の光も次第に瞬かなくなった。
イヴァンの周囲で兵士達が地面に膝を着いて、呆然と炎を上げるバシリエフ要塞を見ていた。
「そんな……。バシリエフが落ちた……?!」
誰かが声を上げた。
彼方此方から、兵士のすすり泣く声が聞こえる。
国が傾くほどの巨費をかけて建造した大陸最大ともいえる要塞は、たった一晩で灰燼に帰そうとしていた。
イヴァンはふと地面を通り過ぎた影に気付いて夜空を見上げた。
月明りの下で、少年を乗せたフェンリルが、エール要塞の方角に向かってイヴァンたちの頭上を通り過ぎていった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼
エール要塞守備軍副将、エルヴィーラ・アーリンゲ准将は無数に打ち捨てられた敵兵の躯が転がる戦場の跡を眺めながら、溜息を付いた。
兵士たちが生き残った敵の傷をポーションで治療してから拘束している。
帝国兵とユング王国兵の躯の数は、ざっと数えただけでも1万人を超えているようだった。
死体の後始末を考えて、エルヴィーラがげんなりとする。
要塞の北側の山の麓に大きな石碑が建っている。
11年前の大戦で死んだ、味方と敵の兵士10万人の遺骨が石碑の下に一緒に眠っていた。
エルヴィーラは将軍に許可を取って、反対側の南の山の麓に死体を埋める穴を掘る様に、部下の土魔術師部隊に命じた。
8万もの大軍で攻めてきたエルドニア帝国軍はたった一日で壊走した。
大勝利であるにも関わらず、要塞全体があまり浮かれた戦勝気分になれないのは、あまりにも一方的な蹂躙劇に対する後ろめたさであろうか。
敵は一人の少年が引き連れて来た数千の魔物によって踏みつぶされるように敗北した。
エール要塞側の被害は矢傷を受けた数人程度で、死者は一人も出ていない。
遺体の中からジェニース・バビチェフと、グレゴリオス・アニキエフの物らしい遺体も確認されている。
二人とも十二希将と呼ばれる帝国騎士団の将軍である。
らしいというのは二人とも頭を含めた体の殆どを魔物に食い千切られていて、残された鎧から確認しただけだった。
怪我をして動けない敵兵も何百人もいる様だった。
「助かりそうにない奴は放っておけ!」
薄情だがこの要塞には二人の医術師しかいないし、ポーションの量にも限りがある以上止むを得ない。
とても全員を治療するのは無理だった。
兵士たちに怒鳴るエルヴィーラの前に、少年を乗せたフェンリルがふわりと空から舞い降りた。
ハティの圧倒的な魔力のオーラに一瞬身構えたエルヴィーラだったが、すぐに我に返ると、ハティから飛び降りたマリウスに礼を取る。
「私はエール要塞守備軍副将エルヴィーラ・アーリンゲです」
「マリウス・アースバルトです、宜しくお願いします」
マリウスは周囲に転がる帝国軍兵士の躯にちらりと視線を向けたが、すぐに目を反らして少し血の気の引いた顔でエルヴィーラに言った。
「治癒魔法が必要みたいですね」
「あ、はい、まあ……」
マリウスが何をする心算か分からずにエルヴィーラが曖昧に答えるが、マリウスは構わず並べられた怪我人の方に歩いて行った。
兵士たちがマリウスに気付いて道を開ける。
マリウスは血塗れで寝かされている帝国兵士たちを見ると、右手を地面に翳して“特級治癒”と“蘇生”を発動した。
神聖魔法の暖かい光が戦場全体に広がっていく。
兵士たちの怪我がみるみる塞がっていった。
斃れていた者達が目を開いて上体を起こした。
既に息を引き取ったと思われた兵士達が数十人、彼方此方でむくりと起き上がり、守備兵たちが慌てて取り押さえている。
「ま、マリウス殿? 一体何を……?」
マリウスはフェンリルを引き連れて月明りの下、無言で躯の転がる戦場跡を歩きながら、次々と右手を翳すと地面に光が広がっていく。
彼方此方で倒れていた敵兵が起き上がるが、呆然として抗う気も逃げる気もなさそうだった。
慌てて起き上がった敵兵を取り押さえに行く兵士たちには目もくれず、何かの儀式の様にマリウスは戦場を一回りすると、驚いているエルヴィーラに一礼してハティに跨り、来た時と同じように唐突にふわりと夜空に舞い上がった。
ハティがそのまま城壁の上に駆け上がって行くのをエルヴィーラが呆然と見上げていると、遠くで兵士が叫ぶのが聞こえた。
「エルヴィーラ様! 来てください!」
兵士の声にエルヴィーラが我に返って兵士たちの処に向かうと、派手なドレスアーマーを着た女が、後ろ手にロープで縛られている。
松明に照らされた、魔術封じの手枷を嵌められた金髪の女の顔を見て、エルヴィーラが驚きの声を上げる。
「レナータ・アレンスカヤではないか! 生きているのか?」
エルヴィーラは帝国軍十二希将の一人、レナータ・アレンスカヤ将軍の顔を見知っていた。
レナータは体中に傷を負って意識を失っているが、呼吸はしている様だった。
「こいつが使役していたマンティコアはどうした?」
「そこの森の中で首を落されて死んでいます!」
ユニークの魔物、マンティコアはレナータが最強のテイマーである事の証であり、王国にもその名は響いていた。
「マンティコアが斃されたのか?!」
「見ていた者の話では恐らくフェンリルに斃されたようです!」
つまり三人目の将もマリウスに倒されていたという事だった。
エルヴィーラは兵士たちにレナータを牢に入れて厳重に監視するように命じると、要塞に戻ろうとしたが、ふと月明りの下、打ち捨てられたボロボロの黒い布に目を止めた。
端が千切れ魔物たちに踏み散らされた黒い旗には、黄金の蠍が刺繍されていた。
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