第8話 家を出て向かった先 4

   ◇


 高校三年になってからすぐ、私は美代子おばさんに、ちょいちょいと指先でリビングに呼ばれた。


「なに?」


 席に着くと、美代子おばさんはテーブルに肘を乗せて、ぐいっとこちらに身を乗り出した。


「絵里ちゃん、大学、行きたいんじゃろ?」


 私はその問い掛けにぐっと詰まる。


「いや、行きたいいうほどじゃあ……」

「でも勉強しよるじゃん」

「そりゃあ、宿題とかあるけえ。それに就職するんでも勉強はいるし」

「まあ、ほうなんじゃろうけどね。でもなんか違う気するんよね」


 私は俯いた。

 別に、大学に絶対に行きたい、というほどでもない。

 特に将来に夢があるわけでもない。


「髪も染めとったのに、プリンになってしもうとるじゃん。真面目になってしもうて」

「これは、別に……。そ、それに、やっぱり就職するんでも染めとったらいけんじゃろ」

「それもまあ、ほうなんじゃろうけど」


 私は自分の髪に手をやった。

 最近は、おしゃれだとかそういうことに手を回していない。遊びに出かけることも、めっきり減った。家事をするという理由もあるが、やっぱり勉強する時間が増えたからだ。

 でもそれは、大学に行きたいから、と明確な目標を持ってしているのではないのだ。


 ただ、これから、いつまでもこの家にいられるわけではないのだろう、とは思う。

 そして家に帰れるわけでもないのだろう、と。

 だから自立しないといけない。そのためには就職だ。そのはずなのだ。


 その迷いを見透かすように、美代子おばさんは私に問うてくる。


「就職って、どこに就職するつもりなん」

「き、決めてない」

「決めてない割に、えらいすごく方向が決まっとる感じするんよね。バイトも辞めて、ずっとなんか部屋でカリカリ書きよるじゃん」


 就職するつもりなのは、嘘ではない。

 けれどなんとなく、もしかしたら大学に行くという話になるかもしれないし、と諦めきれないだけだ。

 本来ならばそれが、自分が進む人生のはずだった。


 でもあれから両親とは連絡を取っていない。あちらも連絡してこない。

 ときどき母と美代子おばさんが連絡している様子が窺えるが、それも内容は知らされていないし、知りたいとも思わなかった。

 いや、知るのが怖かったのだ。


「バイト辞めたんは……美代子おばさんがお小遣いくれよったけえ、もうええか思うて」

「でも、通学代とかもその中に入っとるんよ。それに食費とかに使うてくれよったじゃろ? そんなには余らんかったんじゃないん?」

「食費は、自分が食べるぶんだけじゃし」

「ウチもけっこう食べさせてもろうたよ。冷蔵庫の中のもん、減っとったじゃろ」

「ほうじゃけど……」


 私は目を伏せる。

 受験勉強のために、時間を捻出したかった。

 友人たちも受験生であることもあり、遊びに行くこともなくなり、そんなにお金がいらなくなった。

 だからバイトを辞めた。バイト先の店長も、『もう三年生じゃもんね。そりゃあバイトしとる場合じゃないわ』とあっさりとしたものだった。

 大学に行く気がないのなら、受験勉強なんて必要ないはずなのに。


「大学に行きたいんなら、ウチに言わにゃあ。ほいで学費を出してくれぇってお願いするのが筋なんじゃないん?」


 多少、呆れたように。ふてくされたように。苛ついているかのように。

 美代子おばさんは言った。


「黙っとったらわからんわ」


 けれど私はますます俯いてしまう。

 学費を? 美代子おばさんに? いくらなんでもそれは。


「ほいでも、美代子おばさんに学費までは頼めんし……」

「ほいなら奨学金でも受けるん? 言うとくけど、全額出るヤツじゃないとキツいんよ。絵里ちゃん、そんなに成績いいん? そうでもないじゃろ? 普通のは社会人になっていきなり借金からスタートせんにゃあいけんけえね。それで大学なんか無理して行かんでもよかったって言う人、いっぱい見たわ」


 少しの遠慮もなく、ズバズバ言葉にする。


「それに調べてないけえようわからんけど、絵里ちゃんじゃったら、親は普通に稼いどるけえ、奨学金の対象者じゃないんじゃないん? そりゃあ裕福じゃないんじゃろうけど、そもそも奨学金は受けられるん?」

「知らない……」


 調べていない。というか、そもそも大学に行くかどうかすら、まだ決めかねているのだ。いや、諦めないといけないのに、諦めきれていないだけなのだ。


 美代子おばさんはわずかに眉をひそめて、口を開いた。


「もしかして、親が学費を出してくれるかもしれんって思うとる?」


 ぴくり、と私の肩が震えた。

 それを見たのか美代子おばさんは、はあ、とこれ見よがしに大きくため息をつく。

 そしてまた、少し身を乗り出して、密やかな声で続けた。


「絵里ちゃん、あんたねえ、そろそろ姉さんに期待するのは止めんさい」

「え……」

「これだけここにおるのに迎えにも来んって、おかしいと思わんのん?」

「それは……」

「あの人は、自分のことしか考えよらんよ。娘じゃけえ無条件に可愛い、とか思わん人じゃ。義兄さんも同じじゃ。似たもの夫婦じゃね」


 私はその指摘に呆然としてしまって、なにも返すことができなくなった。

 そうなのかな、と思わないこともなかった。

 けれど私の周りの友だちや大人は、「子どもを愛さない親なんていない」と皆言っていたし、信じていた。

 私もそうであって欲しいと願っていた。

 そして、こんなふうに面と向かって私に忠告する人はいなかった。


「高校の受験失敗は、きっかけにしかすぎんと思う」


 少し低い声でそう告げられて、私は膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。


「貧乏になったら余裕がなくなるけえね。素が出てきたんよ」

「素……」

「姉さんはねえ、絵里ちゃんを自分のスペアみたいに思うとるんよ。じゃけえ、高校受験失敗したことが許せんのんよ。自分の失敗みたいに思えるけえ」

「そんなん……」

「ちなみに、姉さんが行った高校、どこなんか知っとる?」

「えっ」


 急に問い掛けられて私は顔を上げる。


「知っとるけど……」


 私が落ちた高校と、同ランクの高校だ。

 私の返事を聞くと美代子おばさんは、ひとつ、うなずいた。


「あそこね、当時はそんなに難しゅうなかったんよ。今でこそランクが上がっとるけど」

「そ、そうなん?」

「絵里ちゃんが落ちた高校、ウチが行った高校でもあるけど、姉さんは受けれんかったんよね。成績がちょっと足りんくて。姉さんはいろいろ言い訳しよったけど。まあ高校なんか、やりたいことがありゃあどこでもええと思うけど、姉さんはそうは思えんかったんじゃろうね」


 嘘だ。そんなこと、知らなかった。

 むしろ、私にはできたのに、という圧力を感じていたというのに。


「絵里ちゃんがあの高校に受かることで、自分の失敗を取り返そうとしとったんじゃないかね。意識的になんか、無意識になんかは知らんけど」


 美代子おばさんは、ひとつ、大きく息を吐いて続ける。


「姉さんは、上手くいかんことは全部、絵里ちゃんが姉さんの思うように生きんかったせいじゃ思いよる。自分のスペアが自分の思い通りに動かんかったせいじゃ思いよる」

「そんなん……」

「姉さんが見よるのは、自分自身なんよ。絵里ちゃんじゃない」

「けど……」

「ウチは姉さんとの付き合いは絵里ちゃんより長いけえね。わかるんよ」


 確信を持ったその声が、私の胸に突き刺さる。

 私はもう、返す言葉を持っていなかった。


 あまりにも、しっくりきた。

 上っ面な、「親は子どもを愛するものだ」などという綺麗ごとなんかより、よっぽど。


 ふいに、ぼろぼろと涙が零れ落ちてきた。

 なんの前兆もなく流れ出したそれは、どんどんと出てきてテーブルの上にパタパタと落ちていく。


「キツいこと言うようなけどね」


 私の様子を見ていても、美代子おばさんは、口を止めはしなかった。

 でもそれは、美代子おばさんの慰めだったのではないかと思う。


「絵里ちゃんは、姉さんから逃げんにゃいけん。姉さんは、絵里ちゃんを愛しとらん。じゃけえその代わり」


 美代子おばさんは腕を伸ばしてきて、俯いて涙を零し続ける私の頭に手を置いた。


「絵里ちゃんは、自分を愛さんといけん」


 やっぱり。美代子おばさんは、「その代わり、ウチが愛してあげる」だなんて気休めは口にしない。


「誰も助けてはくれん。血の繋がりなんか幻想じゃ。世の中で唯一、裏切らんのは自分じゃ。自分以外は、血の繋がりがあろうとなかろうと、全員他人じゃ」


 どんどんと容赦なく、現実というものを突き付けてくる。


「じゃけえ、自分は自分のことをめいっぱい愛さんと。ウチはそうしとる」


 私は涙に濡れた顔を上げる。

 美代子おばさんは微笑んでいた。


「ウチはウチのことが大好きじゃ。ほいで、ウチはそういう自分を気に入っとる。絵里ちゃんもそうしんちゃい」

「……できるかな」

「できるできないじゃないんよ。やれって話なんよ」


 本当に、容赦ない。それなのに私の口からは笑いが漏れる。

 美代子おばさんはそれでも考えてくれたようで、うーん、と唸ったあとに続けた。


「難しいんじゃったら、まずは宝物でも作ればいいんじゃないん?」

「宝物?」

「ほうよ。家族とかそういう面倒くさいもんよりも大事なもんを手に入れりゃあ、姉さんのこともどうでもようなるわ。ウチはもうすぐ手に入れるけえ、なおさら絵里ちゃんに構っとれんようなるわ。じゃけえ、とっとと自分の足で立ってくれんと」

「……なに?」

「手に入ったら見せたげる」


 そう返事して、ニヤリと笑った。

 親戚から『勘当』された人。

 美代子おばさんも、私と同じようなことがあったのかもしれない。

 もしかしたら見限ったのは、美代子おばさんのほうだったのかもしれない。


 自由で。気難しくて。マイペースを絵に描いたような人で。遠慮なんて全然しなくて。使った食器を洗いもしないし、料理もしないし、家ではだらしなく寝ているばかりで。

 けれど、こういう人になりたいと思った。


 しばらく涙を流し続けたけれど、少し落ち着いてきた頃に、美代子おばさんは通帳を差し出した。


「見てみんちゃい」


 そう促され、しゃくり上げながら、川本美代子、と書かれた通帳を開く。

 そこには見たことがない数字が印字されていた。驚きのあまりに涙も引っ込んだ。


「いち、じゅう、ひゃく、せん……」


 思わず指をさして数えた。八桁だ。


「宝物って……これ?」

「違うわ。これは、単なる財産」


 これだけあれば、『宝物』と表現してもおかしくないと思うのに、違うのか。


「仕事ばっかりじゃけえ使うことがないけえね。まあ、絵里ちゃんの学費くらいは払えるいうことよ。すごいじゃろ」

「……美代子おばさん……」


 私はその通帳を抱きしめた。


「いうても、ウチは雇われの身じゃし、こんな時代じゃし、いつ仕事をクビになってもおかしゅうはないけえね。途中で打ち切りしても恨みんさんなよ」


 おどけたように肩をすくめてそう続ける。


「うん……」


 自分以外は全員他人、と言い切るこの人が。

 他人のためにここまでしてくれる。

 私は顔を上げて、なんとか笑顔を作ってお礼を口にした。


「ありがとう、美代子おばさん。私、大学行って、卒業して、ええ会社に入って、ほいで楽させてあげるけえね」

「ええわ、そんなん。面倒くさい」


 そう返して、美代子おばさんは眉根を寄せた。

 心の底から面倒くさそうだった。


「あと、そのおばさん、いうの止めてえや。美代ちゃんとか、いろいろあるじゃろ」

「美代ちゃん?」

「そっちんがええわ」


 美代子おばさんは気に入ったようで、嬉しそうに笑った。


   ◇


 そうは言われても老後は私が見よう、だなんて考えていたのに。

 私が大学四年生、卒業する直前。

 美代子おばさんは、突然逝った。


 くも膜下出血。

 病院に呼び出されたときにはもう、彼女は逝ってしまっていた。

 まだなにも返していないのに。

 私は呆然と立ちすくむだけだった。

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