第43話 サフサール君 前編(サフサール視点)
セラーズ家から帰ってきた父上は、珍しく機嫌が良いように見えた。留守を預かっていた僕の勉強の成果を確認して「引き続きしっかりやるんだぞ」とだけ言葉を投げて、退室するよう促してきた。
いつももっとしっかりと成果を出せとか言われるし、場合によってはイレインと比較されて失敗作だと言われることもある。やっぱり何かいいことがあったんだと思う。
聞いたら教えてもらえるだろうかと思って、足を留めて振り返ってみる。父上はすでに机の上に広げられた紙に気を取られているようだった。邪魔をしたらきっと怒られるんだろうな。どこかで、顔を上げてくれないだろうか。
しばらく待っても父上は僕が待っていることに気づくことはない。諦めよう。
「何をしている、出ていくよう言っただろう」
諦めて扉に手をかけたところで、背中に父上から叱責が飛んでくる。
「すみません」
扉を開けて振り返り頭を下げる。
外ではマゴット先生が待っていた。先生は僕の教育のほとんどすべてを担ってくれている。
先生の言葉は厳しいけれど、いつも間違ったことは言わない。ただ、できていないことをできていないと、そう高い声で教えてくれるだけだ。
勉強の時は他のおつきの人も離れていることが多いから、自由に質問をすることができる。街の人がどんな暮らしをしているのか。世間ではどんな行事があるのか。多分本当は教えちゃいけないような、領民たちがウォーレン家をどう評価してるか、なんかも私見を交えつつ教えてくれる。
父上の前に出ると言葉が少なく、当然庇ってくれることはないけど、それでも僕はマゴット先生のことを信頼している。家人が重たいものを運んで苦労している時とかは積極的に手を貸しているのを見るし、きっといい人なんだと思う。
家人は少し苦手だ。
先生のように僕の尋ねることに答えてくれることは殆んどないし、僕が隠し事をしていてもそれがすべて父上と母上に伝わっている。
イレインが才能を露わにしてからは、父上の言葉や家人の視線が、前にもまして厳しくなった。
母上は……多分僕にあまり興味がない。話をする機会もあまりない。
マゴット先生は言う。
貴族の役割は、領地と領民を守ることだって。そのために、今日の食事に困ることなく過ごしていられるんだって。だから立派にならなきゃいけないけど、全部を自分でやる必要はないって。
大切なことは才能ではなくて、学び続ける気持ちと冷静な判断力だって。
先生に社会見学と称して真冬の外へ連れ出してもらって、領民の暮らしを間近で見せてもらったことがある。
お金を稼いでいる商人が暖かな服を纏い、広い農地を持つ地主が火に当たり歓談する。探索者が大手を振るって通りを歩く賑やかな大通り。ダンジョンと隣国との小競り合いで儲かっている、ウォーレン領のにぎやかさを見た。
それから裏路地に入って見たのは、やせ細った母子。裏路地で震える老人。酒瓶を抱えたまま路地裏で息絶えている片足しかない男。視線をたくさん感じて振り返ると、影からじっと僕たちを見ている浮浪者の姿があった。
マゴット先生が銅貨をばらまき、呆然としている僕の体を素早く抱き抱えてその場から離脱する。
会話もなく城へ戻って、いつものように父上に何かを言われて、ベッドに入って休んだ翌日。マゴット先生はいつもの高い声で僕に尋ねた。
「サフサール様はどんな領主になりたいとお思いですか?」
僕は答えられなかった。
今もまだ答えられてない。
でも、できるのならウォーレン領を、豊かでみんなが今日生きることを諦めなくていいような領土にしたいって、今は思ってる。
イレインは賢い。
僕の戦略の勉強を見に来て、マゴット先生の模範解答を上回る様な答えを、すぐに思いついてしまった。
その件から家全体の僕に対する辺りは強くなったけれど、それについてイレインを憎く思ったことはない。
イレインは僕のことを馬鹿にしない。戦略の授業を一緒に受けるのが楽しいらしく、よく同席しているけれど、最初の一件以来積極的に回答をすることもなかった。
答えを求められても、僕の方を一度心配するように窺ってから答えるのだ。
父上がたまたまやってきたときは、空気を読むように答えることはある。でもそれって、5歳で自分が何を求められてるかわかってるってことだ。きっとイレインは本当に天才なんだと思う。
ある日僕は、先生が離籍している間にイレインに話しかけたことがある。
僕の顔色を窺っているイレインがちょっとだけ心配だったから。
「イレイン。戦略の授業が楽しいなら、もっとたくさん答えていいんだよ。僕もその方が参考になるから」
イレインは目を見開いてじっと僕を見てから、俯いて小さな声で答える。
「……いえ、私が余計なことをしたせいで、兄様は嫌な思いをしています。ずっと謝らなきゃいけないって思ってました。ごめんなさい」
僕はその時改めて思ったんだ。
イレインがすごく優しい子で、そして改めて本当に天才なんだって。
父上が帰ってきてからしばらくして、マゴット先生との勉強中にイレインと二人きりになることがあった。最近の父上は以前にもまして手紙を送ったり、視察に出かけたりと忙しそうにしている。
一緒に出掛けたイレインならば、何か知っていることがあるなじゃないかと、僕は声を潜めて話しかけてみた。
「イレイン、セラーズ家に行っている間に何か父上が喜ぶようなことってあったかな?」
イレインは眉を顰めて答えない。負の感情を僕に対して発露するのが珍しい。
「ごめん、変なことを聞いたかな。聞いたことは忘れてくれていいから……」
「……許婚」
慌てて発言を撤回しようとすると、イレインがぽつりと小さくつぶやく。
「許婚……?」
「ルーサー様と私が、許婚だそうです。少し交流を持ちました」
平静を装っているけれど、イレインの眉間にはわずかに皺が残っている。
許婚関係の何が父上にとって嬉しいことなのかわからないけれど、どうやらイレインにとっては嫌なことだったようだ。
「……ルーサー殿は、あまりいい人じゃなかったのかい?」
「はい、いえ、間違えました。いい人でした」
一度肯定した気がするけど、何かされたのかな?
「何か、嫌なことでもされた?」
イレインはむっすりと黙り込んだが、それは僕の言葉を肯定しているようなものだ。5歳の男の子だったら、髪の毛を引っ張ったりくらいはするかもしれないしなぁ……。
「イレイン、嫌なことがあったら話してね。僕はイレインのお兄ちゃんなんだから」
「……ありがとうございます」
この調子だと話してくれることはなさそうだけれど、なんだかルーサー殿のことがすごく気になってきてしまった。いつも静かにすました顔をしているイレインの感情を乱すような人だ。
出会うようなことがあったらちょっと気をつけなきゃいけないかもな。
その機会は思ったよりも早く訪れた。
「私はサフサールだよ。よろしく、ルーサー殿」
少し背伸びして、精一杯偉そうに見えるように胸を張った。普段は僕って言ってるのに、私なんて言ってみたりして。
どんな暴れん坊なんだろうと思っていたのに、ルーサー殿は穏やかな微笑を崩すことなく、丁寧にあいさつを返してくれる。
「ルーサーです。よろしくお願いします」
あれ、なんだか思ってたのと違うな。
すごく優しそうだし、賢そうに見える。
周りにいる家人の人たちも、すごく穏やかで優しい視線をルーサー殿に送っているようだ。愛されてるんだなっていうのがわかって、なんだかずきりと心が痛んだ
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