14 今日ヒマ?
「……いや、そうなんだけど。そこまで言われるのも複雑だよ」
せっかく過去を忘れかけていたというのに、あの封筒のせいで憂鬱な気分になってきた。
物言いたげなヨルの視線から逃げるように、僕は玄関に行って積み重なったゴミ袋を鷲掴みにする。
「ゴミ出ししてくるね。ヨルはゆっくりしていて」
「はあい」
玄関ドアを開けた途端、抜けるような青空に目が眩む。鳴きしきる蝉の声が、これが現実だということをまざまざと教えてくれるようだ。
重たいゴミ袋を引きずりながら廊下の端までやってくると、背後で扉が開く音が聞こえた。
振り返ると、隣の部屋に住む男がちょうど出てくるところだった。
たしか前原という名字だったはずだ。
年は三十代前半だろうか。ワックスで几帳面に整えられた黒髪に、シワ一つない縦縞のスーツがよく似合っている。
僕が越してきたとき、一度だけ挨拶した覚えがある。それ以降、廊下ですれ違ってもろくに言葉を交わしたことはないが、いつもピンと背を伸ばして歩いている彼は、男の自分から見てもかっこいい。
仕事の出来る営業マンとは彼のような人なのかもしれない。
僕がじっと見つめていたからだろう。前原さんは僕と目が合うと、一瞬訝しげに目を細めた。あ、しまった。
慌てて視線を逸らそうとしたが、意外なことに前原さんは微笑みを浮かべ、
「おはよう、北村さん」
と言って、親しげに片手を振る。
「えっ? ど、どうもお世話に、なってます」
「やだな。そんな他人行儀な。って、すごいゴミ。引っ越しでもするの?」
前原さんは上機嫌な様子で、靴音を鳴らしながら近づいてくる。
「大掃除をしてるだけです」
「へえ。ずいぶん溜め込んだねえ」
「はあ」
やたら親しげに話しかけてくる彼に、僕はとても困惑していた。それが伝わってしまったのだろう。前原さんは少し困ったように眉をひそめると、
「俺のカッコ、なんかヘン?」
「あっ、すみません。全然、そんなことはないです」
「そ」
「…………」
「なあ、今日ヒマ?」
「えっ? あ、夜からは仕事ですが、それまでは、ヒマ、です」
「仕事、何時から?」
「二十二時です」
「じゃあ、十八時から飲もうよ」
一瞬何を言われているのかわからなくて、言葉が出てこなかった。
もしかして……飲みに誘われている?
意識した途端、頬がじんわりと熱くなっていく。
誰かから飲みに誘われるなんて、人生で初めてだ。
これが――友達化!
片手で口元を覆って、自然と溢れそうになる笑みを隠す。
「いっ、行きます! 行かせてください!」
「良かった。店はあとから……ん。そうだ。北村さんの連絡先教えてくれる?」
「も、もももちろんです」
力みすぎて、噛んでしまった。
だけど前原さんは気にした様子もなく、むしろ微笑ましそうに見守ってくれる。
手早くお互いの連絡先を交換すると、
「じゃ、またあとで。仕事行ってくるわ」
「は、はい。頑張ってください」
彼はゆるく手を振ると、僕を追い抜いて歩き去っていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、僕はその場に立ち尽くす。
携帯電話を買ってずいぶん経つが、個人の電話番号を登録したのは初めてだった。
前原さん……無愛想に見えたが、きっと友達には優しいのだろう。すごくいい人そうだ。
一緒に飲みに行くのは緊張する。でも、もしかしたら『本当の友達』になれるかもしれない。
考えただけで宙を踏むような気持ちなって、僕は足取り軽くゴミ出しを終え、口笛を吹きながら部屋へ戻った。
「ヨル! 友達化ってすごいね!」
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