第二章

11 八月十一日(水)(一日目)

 後頭部に走る鈍い痛みを感じながら、僕は目を覚ました。


「お目覚めですか?」


 視界いっぱいにヨルの顔があって、ぎょっとする。

 ああ、そうだ……。僕は悪魔契約をしたんだっけ。

 額に手を当てながら身を起こす。窓からは燦々と陽光が差していて、時間が巻き戻ったような感覚に陥った。気絶でもしていたんだろうか、と目元を指で拭いながら、枕元の時計を見やる。


 針は八時を指しており、思わず二度見してしまった。ヨルがこの部屋に来たのは、正午すぎだったはずだ。ということは、ほとんど丸一日眠っていたということになる。


 社会人になってこんなに眠ったのは初めてだ。寝すぎたせいで、体の節々も痛い。

 布団の上で呆然としていると、ヨルは僕の隣で正座をし、


「すみません。悪魔契約は、人間の精神に少なからず負担をかけるんです。最初にお伝えしておくべきでしたね」


 と、申し訳無さそうに言う。「そういうことは事前に言ってほしい」と心の中でつぶやいた。


「でも、北村さんがお休みになっている間に、お掃除しておきましたよ!」


 ヨルはえへんと胸を張る。改めて部屋を見渡すと、たしかに自分の部屋とは思えないほど、きれいに清掃されていた。

 あちこちに脱ぎ捨ててあった服や、散らばった書類、やりかけのゲームソフトなどが、あるべき場所へキチンと収納されている。

 電源ケーブルをなくしたとばかり思っていたテレビにも電源がついていて、画面にはヨルの趣味なのであろう、ホラー映画が再生されている。


「すごい。この部屋、こんなに広かったんだ」


 玄関にはゴミ袋が山積みになっていたが、あれぐらいは僕が出さなければバチが当たるというものだ。


「悪魔って親切なんだね」

「タダで居座るほど、ヨルは恩知らずじゃないです。あ、洗濯もしたいので、体調が戻っているならどいてくれますか?」


 ヨルは僕が座っているにも関わらず、強引に敷布団を引き剥がす。転がるようにして退くと、てきぱきと畳んでベランダに運んでいった。

 一度も日光に当てたことのない布団が、容赦なく布団叩きで殴られるたび、大量のホコリが粉雪のように舞い散る。ぞっとする光景だが、ヨルはとても嬉しそうだ。


 ふと見ると、テーブルの上にはコーヒーとトーストが用意してあって、ヨルに訊ねると「どうぞ」と返ってきた。どうやら、僕のために作ってくれた朝ごはんらしい。

 なんだかお嫁さんをもらったみたいだなと不相応なことを思いつつ、ありがたく頂戴する。


 誰かにご飯を作ってもらうのは、すごく久しぶりだ。

 少し焦げたトーストの味を噛み締めていると、心の奥があたたかくなっていく。


「ところで北村さん、ヨルの魔術はちゃんと効いていますか?」


 はっとした。


 そうだ。呑気にパンをかじっている場合じゃない。

 僕はいそいそと携帯電話を引き寄せ、画面を覗き込んだ。すると、今まで存在すら忘れていたチャットアプリから通知が届いていた。

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