10 契約完了

 堅苦しい文章で書かれているが、大雑把に要約すれば以下のとおりだ。


 ①契約期間は、八月十一日から二十日までの十日間。

 ②契約期間中、このF県藤島市民(十万一千四五四人)が北村太一の『友達』となる。

 ③契約終了時に、北村太一はヨルに代償を支払う。

 ④契約に関することは、口外してはならない。

 ⑤途中で契約を解除することはできない。


 やはり、「代償」という文字を見ると、ボールペンを持つ手に力がこもる。


 十万人の友達というのは、悪魔と契約を交わすリスクを負ってまで、叶えることなのだろうか。

 あとからどんな代償を請求してくるかわかったものじゃない。


 引き返せ。今すぐこいつを部屋から追い出すべきだ。

 いや、でもこの孤独な人生を変えるチャンスなんだぞ、これは。


 契約書を前に、僕の心の天秤はぐらぐらと揺れていた。

 相手は得体の知れない悪魔だ。悪魔というのは、大抵人間を破滅に向かわせる。

 人間が好きだなんて口ではのたまうが、本心かどうかもわからない。いや、嘘の可能性の方が高いだろう。


 だけど……。


 彼女は、こんな僕に手を差し伸べてくれた存在なのだ。

 仕事も失い、身を案じてくれる家族も、声をかけてくれる友達もいない……ゼロの僕に。

 そもそもヨルが訪ねてくる直前、僕は死のうとしていたじゃないか。

 台所で握った包丁の柄の感触は、いまだ手のひらに残っている。

 友達が欲しい。僕を友達だと言ってくれる人が欲しい。

 そんな願いを、この悪魔は叶えてくれるというのだ。

 この契約は、地獄に垂れた蜘蛛の糸なのかもしれない。


 神様が僕を救ってくれないなら、悪魔に縋ってもいいじゃないか。


 ゆらゆらと揺れていた心の天秤が、ガクンと傾いた。

 ボールペンを握りしめ、契約書に『北村太一』とサインをする。

 書き終えた途端、契約書の隅から黒煙があがり、またたく間にオレンジ色の炎に包まれた。最後にボッと火花を散らすと、灰も残さず燃え尽きてしまった。


 ヨルはパチパチと小さな拍手をし、上機嫌に微笑む。


「これで契約完了です」

「は、はあ」


 思っていたよりも、呆気ない。

 契約の証に、刻印などが浮き出ているんじゃないかと体をまさぐってみたが、なんの変化もなかった。


 今更ながら、騙されているんじゃないかという疑念が湧いてくる。こんなに必死で思案したのに、実はドッキリでした! なんてオチだったら、それこそ舌を噛んで死にたくなりそうだ。


 けれど、戸惑う僕とは対照的に、ヨルは楽しそうに微笑を浮かべている。


「あの、これから僕はどうすれば」

「契約開始日は明日からですので、それまでは自由にしていてください」

「そう」

「ヨルは荷物を取ってきます」


 彼女はすっくと立ち上がり、玄関に向かった。黙って見守っていると、ドアを開けて外に置いてあったのだろう、白いキャリーケースを室内に運び入れる。


「なにしてるの?」

「これからお世話になるので、その準備をしようかと」


 平然と言ってのけるヨルを、ぽかんと見つめ返す。


「まさかとは思うけど、この部屋で生活するつもり?」

「えっ! だめなんですか?」


 ヨルは驚いたように目を丸くする。


「当たり前だよ! 僕は、その、男だし!」

「ヨルはこんなに可愛いのに?」

「可愛いから余計問題が……って、そういうことじゃなくて」


 動揺で、僕の声は上ずっていた。


「まさか断られるなんて思ってもいませんでした。今までの契約者さんは、すんなり部屋に住まわせてくれたのに」

「日本人の心理を突かないで。特に僕はそういう言葉に弱いんだから」

「わかって言ってます」


 ……おい。


「お金くらい悪魔の力で出せるんじゃないの?」

「ニセ札を刷るような大罪を犯したくはありません」

「悪魔の倫理観がわからないよ」

「北村さんに追い出されたら、ヨルは宿無しになってしまうんです。それでもだめですか?」


 ヨルは赤い瞳を潤ませて、僕をじっと見つめてくる。この様子では本当に行き場がないのかもしれない。悪魔の懐事情に詳しくはないが、契約を結んだ以上、見て見ぬふりは出来ない。


「うちは汚いけど、それでもいいの?」

「はい! 我慢します」


 一言余計だ。


「じゃあ、好きにどうぞ……」

「ありがとうございます。北村さんはお優しいですね」


 ヨルは大して意識せず口にしたのだろうが、滅多に他人から褒められたり、感謝されることがない僕にとっては、たまらなく嬉しい言葉だ。

 自然とにやける口元を手のひらで隠し、誤魔化すように咳払いをした。


「ちょっと換気させてもらいますね。さっきから鼻がムズムズするんです」

「ああ、うん」


 ヨルは立ち上がると、カラリと窓を開けた。「わあ、いい天気になってきましたね」と無邪気に喜ぶ彼女は、こうしてみると普通の女の子にしか見えない。

 ワンピースの裾から伸びる生白い足に、つい目がいってしまう。


 十日間もこの部屋で一緒に過ごすなんて、やっぱり軽薄じゃなかっただろうか。友達はもちろん、彼女いない歴イコール年齢の僕にとって、同棲なんて刺激が強すぎるかもしれない。


 って、何を考えてるんだ僕は。相手は悪魔なんだぞ。


 さっきまで恐怖していた相手に、やましい思いを抱くなんて。自分の頭をゴツンと小突く。

 それより、女の子と一緒に暮らすなら部屋を掃除しなければ。さすがにこんなところで生活をさせるわけにはいかない。


 僕はのっそりと立ち上がる。と、その直後、心臓に突き刺すような痛みが走った。

 激痛に呻き、胸を抑えたままうずくまる。

 なんだこれ?


「北村さん、大丈夫ですか!?」


 ヨルが駆け寄ってきたが、彼女に返事をする余裕もない。床に体を打ち付けるようにして倒れたのが自分でもわかった。

 僕の意識は、そこでぷっつりと途切れた。

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