第17話 美月の事情
「嫁入り前の娘が午前様とは、どういう事なの?」
都内でも屈指の高級住宅地、南麻布の自宅に美月が帰宅すると出迎えた母親の機嫌が良い筈がなかった。
「ごめんなさい、お母さん。今日中に解決したい事が有ってこんな時間になってしまったの」
「それって生徒の問題でしょ? 公立高校の教師になんてなるから、そんな事でこんな苦労するのよ!」
大学を卒業後に教師になる事に家族は一人も賛成しなかった。
妥協案として母親は自分の知り合いが理事を務める私立校を勧めたが、それは美月が拒否した経緯がある。
御神本美月は3人兄妹の末っ子として、会社経営者である両親の望む様に育ってきた。
私立小学校を卒業して中高一貫教育の女子校に通い、大学も女子大だった。
合コンなど望めないお嬢様学校では男子との出会いも皆無で、父親や兄以外との異性との会話は必要最小限の生活を送って育った。
「お父さんは?」
「今日から福岡に出張よ。良かったわね、お父さん居なくて」
口うるさい父親がこの場に居ない事が途轍も無い幸運に思えたが、かと言って母親が味方とも限らない。
「縁談を取り纏めるつもりみたいよ。良かったわね」
「縁談?」
「そうよ。今年でもう25歳でしょ」
言われてみれば姉も父親の経営する会社の取引相手の御曹子とお見合い結婚した。
「そんな勝手な事しないでよ! 結婚は自分の好きな人とするわ!」
「何を言っているの。教師なんか早く辞めて結婚しなさい。あなたの為に言っているのよ!」
このままでは堂々巡り、そう判断した美月は喚く母親を尻目に自室へと切り上げた。
「あ~あ、判ってないな」
深く溜め息を付き髪を掻き上げると、天翔によって髪が解かれた事を思い出す。
『天翔くん』
劇場に向かうタクシー内で天翔にその身を委ねようとした気持ちが不意に湧き上がると、妙に嬉しい様な恥ずかしい様な気持ちになる。
かと思うと先程の母親の言葉が脳裏をかすめ、急に不安になる。
『きっと天翔くんとの結婚は認められない』
実際に天翔と結婚するのかは判らないが、今は他の男性の事など到底考えられない。
天翔の事を思うだけで胸が高鳴り、体温が上昇するのだ。初めて出来た恋人へのこの気持ちを、親が用意した縁談相手に抱けるとはどうしても思えなかった。
それに第一、天翔と別れるつもりなど毛頭ない。
『恋は障害が多いほど燃える物よ!』
大学の友人の受け売りである。教師を志したのも、この友人の影響だ。
大学時代、友人達とお互いの高校生活の思い出を話していた時だった。それぞれが恋や部活に燃えた青春を語るのに対して、美月は勉強を頑張ったくらいしか言う事が無かった。
友人達の気の毒そうな視線が忘れられず、それまでの両親の望む生活を送ってきた人生がつまらなく思えた。
『教師になって青春をやり直そう!』
そう決意した美月は、両親に初めて反抗して教師になった。簡単に辞める訳にはいかない。
○▲△
「いい、家の事は黙ってなさい」
浅い眠りの中、大学時代の友人の言葉を不意に思い出す。
「どうして?」
「あなたの家は戦後の財閥解体の憂き目に合うまでは御神本財閥だったのよ! その社長令嬢なんて判ったらお金目当ての男性が近寄って来るわよ!」
「おまけに男性との交際経験が無いなんて、絶対に言っちゃだめよ!」
友人達による美月の事を思っての助言だ。
尤もかつての財閥も会社経営の在り方が古いままで、現在では左前であるがネームバリューだけは有る。
男性との交際経験云々については流石の美月も何となく理解出来た。
「美月は私達が守らなきゃ!」
「いい、お金も大事だけど身体はもっと大事よ。操は初夜まで守るのよ!」
ここで目が覚めた。
使命感に燃えたこの友人には、合コンの誘いを全てシャットダウンしてもらっていた。
だからこれまで男性に縁が無かった訳なのだが、美月は友人達に感謝している。
『天翔くんは大丈夫よ』
この微睡みの中で天翔の事を思うと、決意も新たになる。
『やっぱり天翔くん以外の人を好きになるなんて考えられない!』
○▲△
「ハクション!」
「ブレスユー!」
リモート会議でうっかりくしゃみをすると、モニター越しに世界中からこう気遣われる。
「サンキュー」
「日本時間はもう深夜でしょう?」
「リョーコ、ボスはお疲れの様だ」
「日本ではボスの年齢でまだ働いて良いのかい?」
天翔は自分を気遣ってくれる海外の部下達の気持ちが嬉しかった。
「そうですね。確かに深夜に
現在の法律は、遥か昔に成立した法律に注ぎ足しする形となっている。
よって天翔の年齢の経営者を想定しているとは思えなかった。
「それでは今日はここまでにしましょうか。
『
先ほど皆から言われた「ブレスユー」、本来は「ゴッドブレスユー」で「あなたに神のご加護が有りますように」との事らしい。
人使いの荒い秘書を前にして、神のご加護が少しだけ欲しいと思った天翔であった。
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