第110話 ファリナ―タ

 食事が終わる頃には雨も止んでいて、テティスは礼を言うと、幼年学校に戻った。心配して入口までついてきた女に礼をいい、良いことがありますようにと言って別れた。

 女を見送ったウリナが、テティスに寄ってきた。

「ずいぶんと持って回った言い方だなおい」

「謝礼を出すなんて直接的に言えば断られるでしょう」

「まあ、そりゃそうだな。小さい割に賢いなお前」

「たぶんあなたの二倍以上生きていると思いますけど」

「エルフすげえな」

 すごいのだろうか、テティスはそう思ったが何も言わなかった。言っても詮無きことであるのは分かっている。

 それで寮に帰り着くと、実家から手紙が来ていた。開封もされずに山となっている手紙の束の上に、もう一つ乗せる。

 はしたないことに水を含んだ外套を脱ぎ捨てると、そのまま寝台へ飛び込んだ。おじさまの腹の上で飛び跳ねたかったと思ってしまった。

「いやだなぁ」

 はしたないことにはしたないことを重ねる。貴族の子女は好き嫌いを口にするものではない。分かっているが我慢ができなかった。

 自殺でもしようかと思いもするのだが、従者に捜索を依頼しているためにそれもできなかった。希望と言うにはずいぶんと儚いそれを、捨てることができないでいる。

「いっそ実家のいいなりになってニクニッスの貴族に輿入れでもしたら、おじさま捜索のエルフ手を増やせるかしら」

 それもいいな、と思う。相手の家名はなんだっけ。キーオベンチだかという、下級貴族。羽振りはいいが男爵だ。諸侯のうちにも入らない家。それでも私のような権能の娘を貰ってくれるというのだから、いい話なんだろう。少なくとも実家は確実に思っている。

 寝ようと思って、悔しさで涙が出ているのに気付いた。生まれも権能も自分が選んだものではない。なのになんでこんな目に会うのだろう。

 もう屋根の上でおじさまがなんと言っていたか、その言葉も擦り切れ、記憶からなくなろうとしている。いや、意図的に忘れようとしているのだ。おじさまだけには、裏切って欲しくないから。

「……ここでないどこかへ」

 そう言って涙に濡れた敷布に爪を立てた。


 一方その頃、屋台ではなく大きな天幕内に作った厨房の隅で休憩しながら、ムデンは自分の体力のなさに呆れ果てていた。人間とは便利なものだったのだなと、しみじみ思う。

”魔法使えたほうがずっといいと思いますよ。ムデンさん”

 ボーラはそうテレパスを飛ばしてくるがムデンとしては考えが変わらぬ。魔法が使える回数を考えれば、人間のほうが有利なのは動かないだろう。寿命が伸びたにしても、ムデンとしてはあまり嬉しい話ではなかった。

”長生きは重要ですよ。私の裸をもっと眺められるってものじゃないですか”

 肩の上に座って、ボーラはそんなことを言う。ムデンは少し笑うと。それは大きいなと思った。

”まあ、無駄口を叩いてないで、やるか”

”がんばれー。エルフ目がなかったら脱いで踊っているところです!”

”気持ちだけ受け取っておく”

 ムデンはヒヨコ豆と小麦粉を混ぜ、塩とオリーブ油、多めの水を入れて生地を作ると、油を引いた銅板の上で焼き始めた。小さなトンボを使い、生地を薄く均す。裏返したら粗い砂糖を乗せて折りたたんで完成である。

 これをファリナ―タという。家庭でもでてくる素朴な菓子である。秋になれば多彩な果物もでてきて彩りを飾るのだが、この季節では砂糖、または蜂蜜だけで質素なものであった。

”ひよこ豆ばっかりですよねえ”

”安いからな”

 ひよこ豆、価格が安い。この季節に出回り始める黒麦より安い。蕎麦より面積当たりの収量が多く、麦より水を使わないからである。記録に残る約三〇年後の戦いから想像するに、この頃でもかなりの砂漠化が進んでいたと思われ、山から離れれば麦を育てるのも難しい荒涼とした荒れ地が続いていたはずである。その荒れ地で栽培されていたのが、このひよこ豆であった。

”自然破壊なんかするから……”

”そうかもしれん”

 もっとも、魔法を使わないと日常生活にも支障がでかねない。魔法が使えないエルフたちはどうしているのだろうか。そう思って、仕事が一段落して追いかけっこしている子どもたちを見た。雨で遊びに行けなかったからとはいえ、元気なものだ。そうか。

”エルフが、ではなく、俺の体力がないんだな”

”鍛えるしかないですよ。ムデンさん”

”そうだな”

 問題は人間と比べて、筋肉がつくまでにひどく時間がかかることである。

 まあ、なくしたものを嘆いていても仕方がない。そう思いながら自分も店先に出ることにした。新たに焼いたファリナ―タを持ち、屋台を曳いて売り歩くのである。

 この時代、街なかでも道は舗装されていない。この山都では石材を運ぶのがたいへんだったのでなおさらである。道のほとんど全部は石畳すらなく、それ故にあちらこちらでぬかるみや水たまりがあった。土中の微生物が元気になるのか、変な匂いまでする。

 この状況では屋台を曳くものは殆どおらず、現にムデンはこの日、行李による行商は許しても屋台での仕事はさせていなかった。

”いい鍛錬というわけですね!”

”ああ”

 ぬかるみに入って持ち上がる屋台をどうにかするのに力がいる。数百m歩くだけでひどく疲れた。

 時刻は夕刻である。急いで、そしてもう少し街の中心部に向かわねば、商売にならない。

「美味しそう……匂いが、する」

 ムデンが顔を向ければ獣耳の美女がいた。ただ格好は今しがたまで山の中にいたかのような重装備である。

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