第四十三話 決定的な事件 〜sideアイリーン〜
(あれはきっと何かの勘違いよ! ファブリス殿下はピンク髪女にころっと騙されている他の馬鹿どもとは違うもの。だって――)
言い訳のような考えばかりが浮かんでくる。
勉強なんてやっていられなくて、机の上で開かれていたノートの上で頬杖をついた。
「もう飽きたわ、こんなの!」
ファブリス殿下と一緒でなくては、学年単独一位の座を狙うために勉強をしようという気も起こらない。
最近はわたくしも彼も常に満点で引き分け状態が続いたけれど今回は負けてしまうかも。
でもそんなこと、今はどうでも良く思えてしまう。それほどにわたくしは衝撃を受けていた。
――あのピンク髪女とファブリス殿下が楽しげに言葉を交わしていた、その事実に。
こんなに傷ついたのは初めてだった。アイにも言った通り、大したことではないはずだ。それがわかっていながらどうして胸のつかえが取れてくれないのか。
「……新作のワガシ作りもしましたし、晩御飯ももう食べましたよ。それともどこか散歩でも行きますか?」
「あんたがそんなことを言うなんて珍しいわね。散歩に行くのも悪くないけれど、くだらない勉強で眠くなったことだし今日はこのまま寝るとするわ」
(決して早く寝て全て忘れたいからなんて、思ってないんだから)
わかっている。これは単なる強がりだ。
わたくしは平気。そう思い込みたいからの言葉でしかないと。
眠ることに苦労した経験なんて一度もなかった。でも、ベッドにぼふんと横たわって目を閉じ、しばらく待っても全く眠気は来ない。
(明日、ファブリス殿下にどんな顔をして会えばいいの?)
何を話していたか洗いざらい吐かせてスッキリしたい。安心、したい。
しかしもし何でもないと誤魔化されたら。素晴らしく美しい笑みで、柔らかそうな唇で嘘を告げられたら。
きっともうわたくしは何も信じられなってしまう、そんな気がした。
ファブリス殿下の婚約者になってから、長い年月が経つ。
アイがわたくしの体に入ってくるより数年前。その頃は彼のことを弟と同類だと思っていた。
自分の身分と立場をわきまえた、おとなしい立ち振る舞い。
優等生ではあるけれど貧弱で意思薄弱。わたくしのことを貴族令嬢らしくないだの何だの心の中で馬鹿にしているのだろう、と。
(だけれどそれは思い違いだったわ)
ファブリス殿下は意外にしっかりついて来てくれたし、楽しんでくれたし、何よりわたくしをしっかり見つめてくれていて。
顔以外にもいいところがあるじゃない――そう気づいたのだ。
そんな彼が今更わたくしを裏切るわけがない。
きっと何か考えがあってのことだ。
「そうよ。心配することなんて、何もないんだわ」
気がつけば窓の外の空が白み、陽が昇っている。
結局ろくに眠れないままで朝を迎えてしまった。
アイがもうすぐ目を覚ます。わたくしは一足お先にベッドから抜け出した。
うじうじと悩むのは似合わない。気持ちを切り替えなくては。
そんな風に思いながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おはよう。……なんだか顔色が悪いように見えるけど」
「別になんでもないわ! まったくファブリス殿下は心配性ね」
登校時間にファブリス殿下が迎えに来たが、彼は昨日の件について何も言われなかった。
それから他愛ない会話をしながら教室に行き、授業が始まる。呆れるくらい普段となんら変わりない日常だ。
昼休み、アイが不思議そうに首を捻りながら呟く。
「妙ですね、あれだけの目撃者がいて噂話の一つも流れていないなんて」
「ファブリス殿下は王子なのよ? うっかり騒ぎ立てたら不敬罪になるかも知れないから迂闊に首を突っ込まないでいるに決まってるでしょ」
陰では好き放題言ってくれているのかも知れないけれど、そんなことは確かめようがないしどうでもいい。
それはさておき、本当にいつも通り過ぎる。
昨日、ファブリス殿下たちと居合わせていたはずの友人たちまで普通に話しかけてくるものだから、まるで昨日の出来事が嘘だったかとすら思えてきてしまう。
(不安がってたのが馬鹿みたいじゃない)
ふっ、と小さく笑った。
放課後は約束通り勉強会の予定だ。
すっかり定位置になったファブリス殿下の膝の上に座れば、退屈な勉強も少しは捗るだろう――。
などと考えていた矢先のことだった。
なんとも言えない、甘ったるい砂糖菓子のごとき不快な声が耳に飛び込んできたのは。
「……あ、アイリーン様。奇遇ですねぇ」
足を止めるか止めざるべきか。少し躊躇ったあと、覚悟を決めて振り返った。
メアリ・ハーマン。平民から男爵家の養女となって昨年の夏季休暇明けに学園にやって来た編入生。そして、図々しくもファブリス殿下に近づくピンク髪の女が、そこにいた。
その瞳は不自然にぎらついているのにどこか怯えも見えて、いまいち意図が掴めない。
「何の用? 仮にも学園二位の成績を保持しておきながら、以前わたくしが二度と関わらないでと言ったのを忘れたのかしら!」
広い学園だけれど、クラスや学年ごとに使う場所は分けられていて、出くわすことはまずない。
つまりピンク髪女がなんらかの企みによって、故意に接触してきたのは明らかだ。
ここは一階と二階を繋ぐ階段の踊り場。わざわざ待ち伏せしていた可能性もある。
「ダメですアイリーン様っ、逃げましょう」
小声でそう言って、アイは今にも駆け出しそうな勢いで足を前に出そうとした。
その判断はきっと正しい。
でも振り返った以上、わたくしはこの女と戦わなければならなかった。
「ちょっとお話したいことがありまして」
「何よ?」
「王子様とアタシの関係についてですよぉ。……知りたい、ですよね?」
もし周囲に他の人間がいれば絶対に見せないだろう、わたくしを挑発するような笑み。
これに乗れば相手の思う壺だということはわかる。でも、あまりにも彼女の態度はわたくしの神経を逆撫でするものだった。
一歩。ほんの一歩にじり寄ったのがいけなかった。
その瞬間、メアリは「ありがとうございます」とわたくしに囁きかけて。
「これで仕上げはおしまい。やっと
まるでわたくしに突き飛ばされたかのような格好で、階段を背にして倒れた。
(何してるの!?)
咄嗟に手を伸ばすが、もう遅い。メアリは甲高い悲鳴を上げながら階下へと滑り落ちていく。
あまりの突然のこと過ぎてわけがわからない。
わたくしはただただ、嫌な予感を胸に見下ろすしかできなかった。
そしてその予感はまもなく的中することになる。
いつも通りの日が非日常に変わり、それまでとは比べ物にならないほどの大事件になってしまったのだから。
わたくし――公爵令嬢アイリーン・ライセットが男爵令嬢を階段から突き落としたという噂は瞬く間に学園中に広まり、駆け巡った。
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