第十三話 湖畔にて、婚約者とのひととき 〜sideファブリス〜

 涼しい風が吹き抜け、僕らの髪を優しく撫でていく。

 遠くから聞こえてくる鳥の囀り以外は何も聞こえない静かな湖畔。つい先ほどまで暴れ馬に乗っていた僕らはそこで昼食を楽しんでいる最中だ。


 美味しそうにパンを頬張る少女を横目に、僕はなんとも言えない心地でいた。


 城を離れ、こうして子供二人で出かけるなんて、本当はしてはならないことだ。

 それに今は護衛もいないから完全に無防備と言っていい状態でもある。帰ったら一体どれほど叱られるだろう。罰として謹慎を課せられるか、あるいは王子教育がさらに厳しくなるかも知れない。


 けれどなぜか僕は、今この時間を楽しいと感じてしまっている。

 名も知らぬ湖畔にやって来て、途中で寄った店で買ったパンを食べている。ただそれだけだ。でもここで穏やかに過ごす間は、王子として……そしてあの子・・・の兄としては見られなくて済むのだから、そう思ってしまうのも当然なのかも知れなかった。


「ファブリス殿下、何を考えていらっしゃるの?」


「……ただ風が気持ちいいなって思ってたんだ」


「そうでしょう! 王宮に引きこもっていてもこの爽快さは味わえないものね」


 自信満々に胸を張るのは、さらさらした銀髪に赤い瞳の可愛らしい少女。

 彼女――アイリーン・ライセット公爵令嬢は僕の婚約者だ。


 と言っても婚約を結ぶことで両家の繋がりを強くするため、かつ同い歳で家格も釣り合うという理由で選ばれただけの関係だが。


 アイリーンは良く言えば元気、悪く言えばワガママ放題な女の子だ。

 常に淑やかさを求められる貴族令嬢とは思えないような行動の数々を風の噂でたくさん耳にしていたし、月に一度のお茶会の時ですらその片鱗が見えるくらい。

 普通は遠巻きにされて当然だ。しかし、僕は彼女に憧れ、密かに羨んでもいた。


 やると決めたことはやる、思いつきを行動に移せるその生き方を。

 何にも縛られずに何があっても笑っていられる、彼女の在り方を。


 彼女のようになれたらどれほどいいだろうと、誘われるがままにアイリーンの手を取って自由に走り出してしまいたいと思ったことが今までに何度あったか。

 でも僕にはそれが許されない。いや、許されないと思っていた。


 なのに、アイリーンに城から引きずりだされて連れ回され、こんなに簡単なことだったのかと気付かされた。

 僕なんかが楽しんでいいのだろうか。僕なんかが……そう自責する気持ちはあったが、彼女のたった一言で僕は間違いなく救われたのだ。


『ファブリス殿下はお顔がいいんだから自信を持ちなさいって、そう言ったのよ!』


 ああ、なんて強い言葉なんだろう。

 彼女が好いているのはきっと僕の顔だけ。それが清々しいくらい伝わってきて、しかもそれだけの理由で励ましてくれるのだから、本当にアイリーンは優しい。


 僕を僕個人として好きでいてくれる子がいる。

 たとえ顔しか見ていなかったとしても構わない。初めて僕を見てくれた彼女に、僕は――。


 僕は、今までとは違う感情を抱いた、そんな気がする。


 この考えが非現実ということは子供の僕でもわかるけれども、王子という立場に縛られないでいつまでもこうしていられたらいいのにと思った。

 アイリーンの傍で、アイリーンと言葉を交わし、手を握り合って過ごす――それはどんなに素晴らしいだろうと。


「楽しんでもらえてるようで良かったわ。、こんなことをしたら王子様に嫌がられるんじゃないかと不安で」


 紅の瞳を細めて柔らかい笑みを僕に向けるアイリーン。

 基本的に勝ち気な面が強い彼女だが、こういう表情もなかなかに似合う。アイリーンは美しく、そして可愛かった。


「嫌がったりしないよ。本当はずっと、こうしてみたかった」


「さすがに今回はやり過ぎだから本当に申し訳ないけど怒られない程度なら……いいえ、これからもどんどん楽しいことしましょう、ファブリス殿下!」


「うん、そうだね」


 彼女は強い。思わず尊敬の念を抱いてしまうくらいに。

 早く追い付きたいなと心から思う。


 そのためにはおとなしい優等生な王子のままではダメだ。人目なんて気にせず、とはいかずともしっかりと芯を持った人間になろう。

 そしてアイリーンだけは何がなんでも手放さないようにするんだと、僕は静かに誓った。

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