〈17-3〉

「約束…」


吸い込まれそうな琥珀の瞳に、感覚がまどろんでいく。約束、つまり契約。誠はいつのまにか、異世界の前で頷いていた。その瞬間、異世界の口が耳まで裂けて笑い出す。直後、左右の瞳に灼熱を帯びる激痛が走った。呻きながら、誠はそこを手で庇うとその場で転げ回った。


「ッ…何を…したッ!」


『これで石碑の場所がわかるようになった

…夜に探して。それじゃあ、約束だからね―――』


異世界は言い残し、光の蜃気楼を微かに残しながら消え去っていく。

当たり前の夜が、静寂と共に訪れた。星も、もう流れなくなっていた。百星の丘で仰向けに倒れたままの少年、それを哀れむように月がただ見下ろしていた。そしてついに、意識が手放される。


誠は夢を見ていた、そこにはウェインはいない。

誰かの背中におんぶされていて、これは縁日の帰りだ。遠くの空では花火の音が聞こえている、女性が子守歌を歌っている、これは何歳の記憶なのかはよくわからない。女性の顔はよくみえない、だけどすごく心が安らいだ。


「ウェイン…お前は本当にっ…愚かだ」


突然目が覚める、誰かが涙声で鼻を啜っている。寝惚け眼が次第に醒めていき、顔を持ち上げるとウェインの体はサイラスに背負われて運ばれているのだと気付く。着の身着のまま飛び出してきたのかサイラスは薄着だった、2人はすでに湖を渡った直後のようで、もう屋敷へ続く森の中を歩いていた。


謝ろうかと思った、部屋にいない息子に気付いてわざわざ迎えに来てくれた父親だ。誠は結局、ウェイン1人のせいにはできないと思った、約束を破ってしまった。でも、今はそれを声にできそうにない。まず、体を休ませなければならない。


雪が降っている、このまま朝まで続けば深く積もる。そして、あの石碑を壊したことにより既に動き出している別の存在。それが、もう近くまで来ていたことに気付けなかった。



「嘘…っなんでこんなことに」


粉々に破壊されてしまった石碑の前で、若い女が一人打ち震えていた。裏起毛の皮ジャケットにシルエットの綺麗なパンツを履いて、肩越えの銀色アッシュの髪を赤いマフラーと一緒に首元で巻き込んでいる。切っ先が退魔水晶に分類される、黒く透けた〈ブラックタリストーン〉で形成された槍を握りしめていた。右耳に銀色の輪が三連になったイヤーカフを引っ掛け、それはアクセサリーを装った通信機器でインカムの役割をしている。スピーカー越しに男が話しかける。


『サオリ、大丈夫?石碑は――…無事だった?』


それにサオリはなんと答えようか思惑したが、正直にありのままを伝えようと思い声にした。


「壊されてる」


『マジか…わかった。とにかくそのまま動かないで、すぐに行くから―――て、聞いてる?おーいっサオリ』


サオリは、先程までここに居たであろう人物達の痕跡に視線を走らせていた。薄ら積もっている雪の上には足跡が二つ残っている、それは途中から一つになると丘から湖の方へ下りていっているようだった。


『無断行動は駄目だから、それに急にスキルが使えなくなったんだ…特にその場所は危険過ぎる』


「犯人が、どんな奴なのかぐらいは確認できる」


『勇者だからって、俺たちはもう無茶しなくていいんだ。だから、ね…お願いだから―――』


イヤーカフの三つ連なる銀色の輪の真ん中を指でなぞる、発光と同時に内蔵されているスピーカーから必死に止めようとする男の声が途切れてしまった。湖の先にある存在がなんなのかはもちろん知っている、サオリは百星の丘を一気に駆け下りた。


湖の周辺に密集していた針葉樹がなにかの衝撃で派手に倒れて流木になっている、それが水面で寄せ集まると向こう岸まで続く橋が完成していた。そこを器用に渡っていくと森に差し掛かった、サオリは薄暗い森の中に意識を集中させた。木立の影を移動し、犯人と思わしき足跡を注意深く追跡していくのだった―――。


サイラスは寒さに凍えながら息子を背負い黙々と歩いている。背後からの忍び寄る追跡者の距離が10メートル、5メートル、どんどん縮まっているのにも気付かない。


「…もう少しで、うちにつくからな」


白い息を吐きながら前を見据えてサイラスはウェインを励ましていた、その光景を鋭い眼でサオリは見つめた。そして確信する、あれは魔族と言えど半端者。勇者間で、現在生き残っている魔族の情報は共有されていた。


人間の血が濃く、魔族と言うには無理があるとまで言われているサイラス・ギャラガー。そして、例の息子は死んだと聞いていたが―――首を傾げながらここで一つの行動にでる、勇者として与えられた異世界の能力はもう使えない。だが、神から貰った加護の能力は健在だ。さらに今だったら、2人まとめて確実に殺せる。


いける、この位置から一気に飛び込めば串刺しに出来る!

――――パチッ…バチバチッ


サオリは笑みを浮かべ、高揚していた。

ブラックタリストーンに宿ったのは亀裂のように炸裂する雷、イメージする為に胸の内で独白した。〈雷神の加護〉!、心臓を外したとしてもあいつらは暫く動けない。その後に、余裕を持って体中を穴だらけにしてやればいい。


脚力が込められる、そして――――。


「…あれっ」


呆気に取られた声が漏れていた、握っていたはずのブラックタリストーンの槍が地面に転がっていたのだ。拾おうとする、しかしなぜだか掴めない。


「うそ!うそうそっ…」


理由が明らかになった、左右ともに手首から先を失っていたのだ。

あたたかい血潮が景気よく断面図から噴いて滴ると白い雪を溶かしていく、追いついていたはずのサイラス達の背中が徐々に遠ざかる。


「悪い子ねぇ…妻子持ちの男に手を出そうだなんて」


耳許で声がした、背後からサオリの首へきめ細やかな白い両腕が回される。それから滑らかに豊満な胸部が押し付けられ、冷たい舌が頬筋を縦に舐め上げた。


「―――シャーロットォ!!」


サオリは血相を変えて叫んだ、長い髪が天へ向け逆立つように持ち上がっていく。全身に高圧電流を走らせると放射線状に一気に激しく放電した、慌てて振り向くがシャーロットはその場にはもういない。


「あらあら…あまり動くと死んでしまうわよ」


「殺す!!」


今度は左からだ。黒いブーツに一点集中で豪雷を纏わせた、声の方へ鋭く蹴り込む。だが手応えがない、針葉樹の幹が電圧で焦げ付きながら傾くとやがて全体がなぎ倒される。先程と同じく、シャーロットの姿はまだ見えないままだ。


「フフフッ…あっはははっ」


声だけの笑いが北風に吹かれて揺れる葉のさえずりと重なった、サオリは顔面から血色を失いながらフラついて膝をついた。出血が酷い、それからようやく正面に水彩絵の具で描かれるようボンヤリ人の輪郭が現れていく。


「…ばけものッ!!もう死にかけてるって聞いてたのに!」


猫目がちなくっきりした香色の瞳を見開きながら、サオリは肩で息をしている。ついに姿を現したシャーロットを見据えながら寒さにかじかむ唇を震わせた、微かに這い寄る死の恐怖に思わず噛みしめると血が滲む。


「それはきっと誤情報ねぇ、それにしてもあなたたち勇者ときたら…夜は私の庭だと知っているでしょう。なのにわざわざ敷地内に不法侵入だなんて―――…随分、みくびられたものね」


淡々とした口調で、美しい雛色の髪を頭頂部で丸く束ね結っているシャーロットはベルベットフリルのついたピンクのナイトドレスを着ていた。白い素足が長めの裾から痛々しく覗いている。そして両手にはサオリから拝借した手の平を二つ、持て余すかのように揺らすと笑っているのだった。

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