第3話 サラ・ヴォーンと風邪っぴき
結局その日も小林さんは潰れて当たり前のように泊まった。ベッドで寝てくださいと言う俺を頑なに拒否してソファにしがみつき、ここがいい!と駄々を捏ねた。
体痛くなっても知りませんよと言う俺を寝室に追い払うとすぐに寝落ちたようだった。
さっきのキスの感触が邪魔して上手く眠れなかった。小林さんは俺を初心だとか言ってからかったが、普段あんな触れる程度のキスでこんなに動揺なんてしない。
俺は小林さんが好きなのだ。
男相手に色を見せないサラッとしたこの関係や距離感が心地よかった。
この関係のままが理想的だと解っている。俺がゲイだと知ったらきっともうこんな気安い距離には戻れない事は明白だ。
そして俺はいつも一線を越えられないまま昇華出来ない気持ちをまた仕舞うのだ。
でもそれでいい。間違いがあれば俺は居場所を無くしてしまう。
水を飲もうと立ち上がりリビングに入るとベランダのサッシが開いていた。
小林さんがベランダで煙草を吸っているようだった。
手摺に寄りかかる華奢な猫背を少しの間ぼうっと見ていたが、気づかれないようにそっと部屋に戻った。
朝、目が覚めると隣に寝息を立てている小林さんの顔がすぐそこにあった。
思わずがばりと起き上がると盛大に眉間に皺を寄せて小林さんは寝返りを打った。
昨日はこの人はリビングで寝ると聞かなくて、途中で見た時はベランダで煙草吸ってて、その後何があった?
「んー、寝んの?起きんの?」と布団に半分顔を埋めたままじろりと俺を見る。
時計を見るとまだ6時過ぎだった。起きるには早いが、このまま一緒に寝るのもダメな気がして躊躇していると
「休みなんだしもうちょい寝てろよ」
自分の隣をばふばふ叩いて「寝ろ」と合図した。
「リビングで寝てませんでしたっけ?」
「知らん」
そう一蹴されたが、恐らく本当に知らないのだろう。男二人が横になるには狭いシングルベッドに諦めて横になったが、隣の小林さんが気になって仕方がない。おまけに朝だからか下半身まで反応してしまい、収めるのに必死ですやすや二度寝する小林さんを横目に全く眠気は訪れなかった。
やはり朝食は要らないと言うがバナナは勝手に食べ、コーヒーを片手にCDを物色し、サラ・ヴォーンの「Misty」をかける。
「ジャズ、好きなんですか?」
「全然」
嘘つき、と思いながら
「サラ・ヴォーンなんていいチョイスですね」
小林さんはそれには答えず、ハミングしながらテーブルに着く。
「今日もデートなん?」
急に聞かれて動揺してしまい、正直に答える。
「いえ、今週は予定無いです」
「ふーん、まぁ仲良くしなよ」
短い言葉で核心を突くようなことをさらりと言う。この人の本心は結局掴めない。
何が気になるのかコーヒー豆の袋をまじまじと見ながらクイと飲み干してしまうと
「以千佳カフェのコーヒーは美味いね。じゃあごっそさん」
そう言うな否やあっさりと帰って行った。
一人になった部屋でサラが歌う
『私がどれほど絶望的にさまよってるか気づいていない』
翌週からは既に年末のクリスマス商戦に向けての企画が動き出し、部内は初動でバタバタしていた。
先週まで小林さんとやり取りしていた案件は技術部とデザインでの詰めに入ってるため、俺の手はほぼほぼ手は離れてしまっている。あれからメッセージも来ず、駅や社内でも見かけることもなかった。
『げねつざいかってきて』
小林さんからメッセージが来たのはあれから十日後の会議中だった。
『風邪ですか?』驚いて返信をすると
『むり』とだけ帰ってきた。
食事は、とか熱は何度?とか質問を送ったがそれ以降は既読も付かず、何も応答は無い。
その日に限って忙しく、打ち合わせが二つあり、部長に捕まり、帰宅出来たのは二十一時を回っていた。
家までの道のりを聞くと地元駅に着く頃やっと返信があり、デザイナーが書いたとは到底思えない下手くそな手書きの地図が添付されていた。
駅前の遅くまでやっているドラッグストアで解熱剤とスポーツドリンク、風邪でも食べられそうなものを買い、地図を頼りに家に向かう。下手な地図の割に要領を得ていて迷わず無事に辿り着いた。チャイムを鳴らしたが応答はなく、試しにドアノブを捻ると不用心にも扉は開いた。
玄関先には大きなリュックと簡易テントが並べて置いてあった。以前、休みに何をしているのか聞いた時に「キャンプ」と答えた小林さんを冗談と笑って話を終わらせてしまったが、どうやら本当のことのようだった。「だから意外すぎなんだよ」と呟いて突き当たりの部屋を覗くとベッドに人の気配がした。
「小林さん」と呼んだが荒い息遣いで頬に触れるとやけに熱かった。冷却シートを出そうと手を離すと小林さんがそっと手を掴んだ。
「小林さん、遅くなりました」
「手、気持ちい」
体温の低い俺の手を自分の頬に戻す。
「冷却シート買ってきたんでおでこに貼っていいですか?」
「うん」
素直に言ったものの、手を離さない。両手で頬を包むと眉間に寄せた皺が緩む、安心したのか今度は手を離してくれた。
冷却シートを貼り、ゼリー飲料を手渡すとズルズルと何とか飲み干した。もっと何か食べるか聞いたがゆるゆると首を振り、またベッドに潜ろうとするので慌てて水と解熱剤を渡し、飲ませた。
「少し寝てください。また様子見に来ます」
「…ダメ」と小さい声で呟くとすうすうと寝息を立て始めた。
駄目と言われ何となく帰りづらくなり、仕方ないのでもう少し居ることにした。
小林さんの部屋はいわゆるワンルームでベッドの向かいにMacの乗ったデスク、ニ人がけソファに小さなキッチンが備え付けてあった。
酒しか入っていない冷蔵庫に水やスポーツドリンク、ゼリーなどを入れ、バナナの置き場所に困り、シンク横の調理スペースに置いた。
棚にパックのご飯があったので、買ってきたスープと鍋にかければ雑炊になるかなとか思いながらビールをひと缶拝借した。
ソファに座り、仕事でもしようかとも思ったが慣れない場所で集中出来ないと早々に諦める。コーヒーテーブルの横に単行本や文庫本が無造作に積んである。読書家というまた知らない面に出会う。美しい鳥の絵の表紙の文庫本を一冊手に取って読んだ。
人とは言葉でコミュニケーションが取れないけれど、小鳥のさえずりは理解出来る兄と彼の言葉を唯一理解する弟の話だった。
半分くらい読んだ辺りで小林さんが小さく呻いて身体を起こした。
「目が覚めました?」
「おう、トイレ」
立ち上がろうとするがふらついているので手を貸すと大人しく凭れ掛かった。
「すまんの以千佳ちゃん」
「次はもう少し早く教えてくださいね」
背中を手で支えると汗でびっしょりと濡れていた。着替えさせないとと思いながらトイレのドアを閉めると脱衣所の棚からタオルを取った。トイレから出てくると「一人で行ける」とよろけながら戻ってきた。
誰かの看病などした事はなく、何が正解かよく分からないが、自分が熱を出した時に母親が「汗をかいたなら大丈夫」とよく言っていたので、良くなっているのかなと思いながら洗濯したであろうTシャツがあったのでベッドに置いた。
「それ、着替えてください」
湯をくぐらせて固く搾ったタオルをキッチンで用意する。これも母親がしていた事だ。寝汗をかいた後にこれで身体を拭いてもらうと気持ちよかった。
「だる…」と言ってまたベッドにゴロンと横になる。
「ああ、もうー」とTシャツを脱がせ身体を起こすと背中を拭いた。
背骨の浮き出た痩せた身体は薄暗い影が落ちてなんだか標本のようで美しかった。汗を拭っていると俺の方に凭れて来て「まだ居る?」と聞いた。
甘えた声がお強請りする子どもの様でつい
「朝まで居ますよ」
「やった」
やっと聞き取れるくらいの小さな声で言った。
スープが飲みたいと言うのでお湯を沸かしてフリーズドライのスープをマグカップにコトン入れる。
小林さんは下着も変えようとしたのでキッチンに入って背中を向けた。
「あのさ」
「何ですか?」
背中を向けたまま答えると思いもかけない言葉が投げられた。
「もしかして以千佳ちゃんて、ゲイ?」
思わずスプーンを床に落とした。
拾わなきゃと思うのに体が動かない。小林さんがどんな表情なのか怖くて振り返ることも出来なかった。
どこでミスした?いつバレた?
「以千佳ちゃん、それいいからちょっとこっち来なよ」
小林さんは俺をソファに座らせると自分は床に座った。
「なによ、バレたのがそんなにショック?」
「なんで、分かりました?」
「うーん、最初はこないだキスした時の反応。あとは今俺がパンツ替える時にキッチンに逃げた、とか?」
溜息しか出なかった。いたたまれなくて消えてしまいたかった。
「そんな落ち込む?別に弱味握ったとか思ってねぇよ」
「すいません、気持ち悪いですよね?俺、もう帰ります」
荷物を掴んで立ち上がると
「嘘つき」
小林さんはひとこと言った。
「え?何が?」
「朝まで居るって言ったじゃん」
子供みたいに口を尖らせて言い、そして
「あ、スープ飲みたい。腹減った」
「さっきもういい、って言ったじゃないですか」
「やっぱ飲みたい、つくって」
俺はもう一度深く溜息をつくとキッチンに戻った。
「ねぇ以千佳ちゃん」
オニオンスープを美味しそうに飲みながら小林さんは続けた。
「キャンプ行かない?」
「は?何言ってんですか?そんな体で…」
「誰が今すぐっつってんだよ!ばーか」
俺がゲイだってことを楽しんでいるのか、いやそんな風には思いたくない。でも真意が見えなくて不安で小林さんに応えられなかった。
「行きません」
「ふーん、つまんねえの」
「いつも誰と行ってるんですか?」
朝までは居ると腹を括る。それまで気まずい雰囲気にはしたくなくて聞きたくもないことを聞いてみる。
「別に、誰とも」そう言ってカップをテーブルにコトンと置く。
「一人で行って、本読んで、景色眺めて、昼寝して。焚き火して、飲んで食って、寝て、帰る。そんだけ。」
「それって家でしてる事と変わらなく無いですか?」
「そうかもね」
小林さんは素っ気なく言って黙った。
「ほら、まだ熱あるんですから寝てください」
小林さんは大人しくベッドに潜り込むと背中を向けて横になった。
「その小説さ、弟は幸せだったと思う?」
「…」
咄嗟に答えられなかった。鳥としかコミュニケーションのはかれない兄に献身的に尽くし、兄亡き後は隠居のような生活をし、小さなロマンスはあるものの最終的には独りでひっそりと穏やかに暮らしたと言う。
恋人と関係が悪化している今、自分が切り出せば簡単には別れられるだろう。でもまたそんな親密な関係になれる相手は見つかるだろうか。
そんな関係に辿り着くまでどれだけ傷つかなければならないのだろうか。
ゴミを分別して捨て、洗い物を片付け、取り込んだままの洗濯物を畳んだ。靴下がバラバラで合わなくて悩んだ末に片方ずつ並べておいた。そこまですると白白と夜が明けて来る。
「彼は誰時とはよく言ったもんだな」独りごちてもう一度小林さんの様子を見る。呼吸も楽そうで頬に手を充てると解熱剤も効いたようだった。靴箱の上の鍵を取って、外から鍵を閉めると新聞受けから鍵を落とすとドアの向こうでカシャンと音がした。
何も起きていないのに何だか別れ話の後みたいだった。
土曜も日曜も小林さんからは連絡はなく、俺が送った『体調どうですか』と言うメッセージは既読が付いただけだった。
先輩後輩でもなく、友人でもない心地よかったあの関係にはきっと戻れない。
どれもこれも自業自得なのだ、甘えてばかりの自分にツケが一度に回ってくる気がした。
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