10. ふたつの選択
ライブのない日の「フィロソフィING」は、芸人がネタの練習をするために開かれている。もちろん、だれでもいいわけではない。ここで開催されているライブに「5回以上」出ていることが条件だ。もちろん、西岡さんがいない日は閉まっている。
運のいいことに、今日は西岡さんがいた。
だけど西岡さんは、「もう夜になるし帰りな。遅くまで高校生を入れておくとなにかとうるさいから」と、机の上の書類を整理しながら
その通りだ。高校生が夜遅くまで外を出歩いていると、どんな危険があるか分からない。西岡さんは経営者だから、リスク管理もしっかりとしている。
「明日、笠原くんとネタ合わせをするんだろ。いったい、今日はなにしに来たんだ?」
ペンを走らせる手を止めずに、そう
「ここは、悩み事ができたときに、駆け込むところじゃないよ」
そっけなくそう言われてしまうと、ぼくはもう帰るしかない。西岡さんの言う通りだ。ネタの練習をするわけでもないぼくを、ここに入れる道理なんてひとつもないだろう。
「そこに、ウーロン茶があるだろ。小さい缶のやつ。それ、飲んでいいぞ」
「えっ……」
「ちょっとだけ、ここにいてもいいよ。それを飲んでしまったら、帰るように」
隅にある椅子に座っていいぞ――西岡さんは、あいかわらず書類に目を通したりペンを走らせたりしながら、こんなぼくを気遣ってくれた。
「大ぶりになってきそうだから、傘を持っていっていいよ。そんで、明日帰してくれれば。だれのものか分からないけど、捨てるわけにはいかないし、いまでは共有物みたいになってるから」
窓には、
ぼくは、西岡さんに声をかけることもできず、スマホを取り出して、芽依から連絡がきていないかを確認したが、母さんからの「いまどこにいるの?」というメッセージだけが届いていた。
素直に「フィロソフィINGにいる」ということを言った。「何時頃に帰ってくるの?」という、怒った顔が浮かんでくるような返信に、「1時間後には」と応えたら、それっきりなにも折り返してこなくなった。
「オンリーワン・グランプリは来年の2月だったっけ。ということは、予選は夏からか?」
書類のひとつひとつに印鑑を
「7月からです」
「1回戦で落ちたら、受験勉強に専念するのか?」
「たぶん、そうすると思います」
「じゃあ、うちには来なくなるの?」
はっとする。そんなことは考えていなかった。ぼくはどこまでも能天気だ。
もし1回戦で落ちても、ぼくは「お笑い」を続けるだろうか――もちろん、続けるつもりだ。
「俺はさ、舞台に立ってくれると嬉しいよ」
「えっ……?」
「継続は力なりというだろ? 芸人はまさにそうなんだよ。ブランクがあったら、回復するのにすごく時間がかかる。良い例ではないと思うけれど、不祥事を起こして謹慎明けの芸人がバラエティに出ると、うまく立ち回れないんだよ。お笑いのノリが分からなくなってるから」
たしかに、深夜のバラエティー番組とかで、事情があって久しぶりに登場する芸人が、現場の雰囲気に戸惑っているのを見かけることがある。そしてその戸惑っている様子を、周りの芸人が「いじる」ことで笑いが生まれている。
「大学に入っても、お笑いをするつもりだろ?」
「はい、そのつもりです」
「いま、大学お笑いの勢いはすごいからな。賞レースで結果を出しているのは、大学のお笑いサークルにいた芸人の方が多いし」
いま、大学お笑いは「熱い」――賞レースも開催されているし、大学を越えてコンビを組む学生もいるほどコミュニティは広く、サークル内では「お笑い」に関する活発な議論が行なわれているとのことだ。
「でもさ、それも不確定なことだろ? こう言っちゃなんだけど、大学に受からないことだってある。浪人したとしたら、そのときは『お笑い』なんてできないだろ?」
「……そうですね」
西岡さんに言われて、そうした可能性があることに、はじめて気付いた。どこまでぼくは、バカなんだろう。
「じゃあ、受験勉強に努力を全振りするべきだろうに、うちの舞台に立っている。もしかしたら、これからも立ち続ける……このパラドックスのようなものを克服するには、ふたつの選択しかないと思うんだよ」
「ふたつの、選択……?」
「そう。受験勉強だけに専念するか、それとも、勉強なんてほどほどにして、ずっと舞台に立ち続けるか」
ほんとうに、その二択だけなのだろうか?――という疑問は、西岡さんの次の言葉で、消滅した。
「なんでも中途半端なやつには、なにも成しえないんだよ」
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