9 脱走

 寒さが厳しくなってきた。ディレイムの南東に位置する王都でも雪が積もり、桶にはった水は翌朝には凍っている。

 吹雪が激しい日はすぐ目の前の景色すら霞んで見えず、危険なので出歩く人もまばらなようだ。


 レクオンの面会もぴたりと止まり、最近では手紙のやりとりだけになった。大雪のせいで公務が忙しいらしい。


 でもシーナにとっては有難いことだった。寒さが厳しくなるほど、ルターナの病状も重くなってきたからだ。

 仮に今の状況でレクオンと会っても、シーナは上の空でまともな会話は出来ないだろうと思う。


 冬の初めにたくさん薪を用意したお陰で、ルターナの部屋はいつも暖かい。暖炉には絶えず湯を沸かし、ルターナが喉を痛めないように気をつけている。


 それでも姉の病気は回復に向かわず、熱が高いせいで食事もほとんど取らないので、痩せる一方だった。

 薪を運ぶときにぐったりと寝ているルターナの様子を見たが、木の枝のように痩せた腕を見たら涙が出てきた。


(神様、お願いします。お姉さまの病気を治してください。わたしからお姉さまを取り上げないで……)


 シーナは働きながら、暇を見つけては手を組んで祈りを捧げた。こんな事は気休めだと分かっていても、シーナには祈ることしか出来ない。


 主棟に医師が出入りする様子を見るたび、心臓をぎゅっとつかまれたように苦しくなった。まさか、そんなとハラハラしながら毎日を送るのはつらく、シーナまで食事がのどを通らなくなってきた。


 廊下を誰かがバタバタと通るたびに夜中でも目が覚めるし、何かあったらと思うと熟睡できず、お仕着せのまま寝台に横になる日々だ。


 もし異変があれば、マリベルがすぐに知らせに来てくれるらしい。でも不吉な知らせなら聞きたくない。

 マリベルには申し訳ないけれど、知らせなんか永遠に来なければいいと思っている。


 でも現実は甘くはなく、とうとうある晩、シーナの部屋のドアがノックされた。夜中なのでそっとドアを開けると、険しい表情のマリベルが立っている。


 ――ああ、ついにその時が来てしまったのだ。

 シーナはかすかに頷き、何も訊かないままマリベルの後に続いてルターナの部屋へ向かった。


 姉の部屋は明るかった。暖炉には山のように薪が積まれ、煌々と燃えて光を放っている。しかしそれとは対照的に、ルターナの顔色は悪かった。


 今までは青白いだけだったのに、今夜は土のように黒っぽい色だ。生気が失われつつあるのは確実で、シーナは青ざめて姉のもとへ駆け寄った。


「シー、ナ……。あなたに、伝えたいことが……あるの……」


「お姉さま、無理なさらないで。きっと今に治るはずですから……!」


 声がかすれて、ほとんど聞こえない。シーナはルターナの顔に耳をよせて、囁くように声をかけた。


「自分の体のことは……よく分かって、いるわ……。この体はもう、長くない。だから、あなたに……渡しておこうと、思って」


 ルターナが喋るたびに、胸が激しく上下する。話すだけでもかなりの負担があるのだ。シーナは枝のようになった姉の手を必死で撫でた。でもいくら擦っても、シーナの熱が移ってはくれない。

 マリベルが衣装棚の引き出しを開けて袋をとり、シーナの手に握らせた。


「これは……?」


「装飾品を、マリベルに換金してもらったの……。少しは足しに、なるはず、よ……」


「なんで、そんなこと」


「お父様は……多分あなたに“ルターナ”として生きるよう、強制すると思うの……。でもシーナは……それを望まないと、思ったから……。お金を持って、ここから……逃げて……」


「そんな――そんなの嫌です! お姉さまを置いたままで逃げるなんて出来ない! 何もいらないから……お願いだから、わたしを一人にしないで……っ!」


 シーナはとうとう泣き出して、姉のがりがりに痩せた体に抱きついた。まるで子供のように細く小さな体に変わり果て、力を入れたら折れてしまいそうだ。

 ルターナはふっと微笑み、泣きつく妹の髪を撫でた。


「シーナが……自分の望みを口にしたのは……初めてね……。でも、ごめん、ね……。その望みは、叶えてあげられそうに、ない……。ごめんね、シーナ……ごめんね…………」


 ルターナは謝りながら気を失うように寝てしまった。マリベルが急いでルターナの脈を調べる。


「私は医者を呼んでくるから、シーナは部屋に戻りなさい。戻ったらこの服に着替えて、すぐにお屋敷を出るのよ。逃げるとしたら今夜しかないからね。王都を出て、隣町にあるアリーシャという店に行けば何とかなるから……さあ、行きなさい」


「うっ、うぅ……」


 マリベルが手に押し付けてきた服を持って、泣きながら部屋へ戻った。フード付きの暖かそうなコートまで買ってくれたようだ。

 でも着替えてもまだ逃げる勇気は出せず、いつまでも部屋のなかをうろうろと歩いてしまう。


(どうしよう。なにかわたしに出来ることは……)


 マリベルが呼んだ医者が、魔法のようにルターナを治してくれないだろうか。先ほど見たルターナは夢で、現実の彼女は元気だったらいいのに……。


 目を閉じて祈っていると、勝手に子供の頃の記憶がよみがえってくる。ルターナと一緒に裏庭でままごと遊びをして、端の欠けたお皿に花のサラダを盛り付けたこと。

 ティム爺が木の枝に作ってくれたブランコで、代わりばんこに背中を押したこと。


 レクオンが贈ってくれた難しい本を二人で解読したこともあるし、時には夜中までカードゲームをしたこともある。

 あの頃のルターナは今よりずっと元気だった。永遠に幸せな日々が続くと信じていたのに……。


 明け方ちかくまで起きていたが、ふいに主棟のほうが騒がしくなった。誰かが廊下をばたばたと走る音が聞こえ、「大変だ」と叫ぶ声がする。


「おい、みんな起きろ! お嬢さまが亡くなったらしい!」


 ああ――。


 気が付いたときには屋敷を飛び出していた。ルターナが亡くなって屋敷内が混乱していたせいか、誰も追ってはこなかった。

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