第166話
「愛し子、南の方で沢山の悪意が動いてる」
ツキヨが僕にそう告げたのは、前線の砦からの指示でジャックスの隊が哨戒を始めて、丁度一週間になる日の事だった。
沢山の悪意と言われても具体的な数はちっとも伝わらないけれど、それでもその正体が何なのかは察せられる。
ルーゲント公国に、ウィルダージェスト同盟へと攻め入ろうとするボンヴィッジ連邦の軍だろう。
ボンヴィッジの兵は、魔法使いへの憎さと、長く続くウィルダージェスト同盟との戦で積もった恨みから、戦意が高いと聞く。
つまりその高い戦意を、ツキヨの感覚は悪意と捉えたのだろう。
……さて、どうするべきか。
僕は暫し考え込む。
この隊は哨戒任務中だから、敵を発見すればその事自体が隊の、ジャックスの功績になる筈だ。
しかし敵の存在の根拠がツキヨの感覚だけでは、まだ発見した内には入らない。
ちゃんと実際にそれを目で見て、数を大雑把であれ把握して、そうして漸く発見したと認められる。
だがこちらが敵を見付けるという事は、逆に敵がこちらを見付ける可能性もあった。
敵が少数であったなら、この三百人の兵士で相手を殲滅できるだろう。
けれどもこちらよりも多数の敵に見付かれば、当然ながらこの隊は窮地に陥る。
故に僕は、ツキヨが把握した敵の存在をジャックスに伝えるべきかを悩む。
「……兵士の戦いを良く知らないキリクが考えたっていい答えなんて出ないんだから、ジャックスにわかった事を伝えて判断を任せなよ。その上で、ボク等だけで偵察に出るって手もあるんだから」
でもシャムは溜息を吐きながら、僕にだけ聞こえるように小さく耳元でそう囁く。
あぁ、うん、それもそうか。
魔法使いではあっても戦の素人の僕よりも、魔法使いであり、貴族として戦も理解してるジャックスの方が、より良い判断ができるのは道理だ。
彼に方針の判断を任せた上で、そこから僕にできる事を考えた方が、こうして悩むよりも効率がいい。
なんでも自分で決めたくなるのは、僕のあまり良くない癖なのかもしれなかった。
周りよりも幾らか強い力を持ってるからって、何でも解決できるわけじゃないのに。
しかも結局は、状況に流される事も多いし……。
僕は溜息を一つ吐いてから、ジャックスの下へと向かう。
彼は野営の指示を出していたけれど、近付く僕に気付くと、そのまま作業を続けるように兵士達に命じ、こちらへとやって来てくれた。
どうやら僕の表情を見て、用事がある事を察したらしい。
そこまで大仰な、他の誰かに聞かれて困る用件ではないのに。
「ジャックス、ツキヨが南で悪意が動いてるって言ってる。多分ボンヴィッジだと思うけれど、数は不明。何なら僕達が見てくるけれど、どうする?」
僕はツキヨから聞いた話を伝えるついでに、自分達が物見に出ると提案する。
ジャックスは、僕の力を借りる事を遠慮してるような節があるので、こう言った方が彼も頼み易いと考えて。
直接的な戦いが発生しそうにない、物資の引き寄せ等は遠慮なく頼むんだけれど、恐らくジャックスは、なるべく僕が戦わなくて済むようにしたいのだろう。
そして物見は、最悪の場合は交戦の可能性があるから、……僕は彼に遠慮は要らないと、敢えて自分から提案した。
もちろん、物見が必要になるならばの話だけれど。
「……南か。砦から離れた場所をすり抜けようとしてる部隊の可能性が高いな。だとしたらあまり数は多くないと思うが、いや、見に行くなら私も行こう」
するとジャックスは、僕の言葉に少し悩むような素振りを見せて、それからとんでもない事を言い出す。
僕の用件は、他の誰かに聞かれて困るものではなかったけれど、それに対するジャックスの対応は、兵士達に聞かれると問題がある代物だ。
一体、どこの世界に自ら物見に出る部隊の指揮官がいるというのか。
あぁ、いや、意外にいるのかもしれないけれど、……それでも貴族の子息がやる事ではないだろう。
僕が貴族を語るのも、実におかしな話ではあるが。
ただ、ジャックスが付いて来てくれるのは、僕にとっては都合がいいかもしれない。
今回の戦いで僕が忘れずに注意を払わなければならないのは、ボンヴィッジ連邦よりも星の灯だ。
この一週間も星の灯を警戒してはいたけれど、奴らが動くとするなら、ボンヴィッジ連邦の影に隠れてだろう。
つまり、今、このタイミングである可能性は決して低くなかった。
僕を狙ってくるならば、それは別にどうとでもなる自信はある。
但し、離れたタイミングでジャックスが狙われれば、流石に僕も手が届かないのだ。
彼も実力のある魔法使いではあるけれど、星の灯は何をしてくるかわからない。
けれどもそれを過剰に恐れて動きを止めてしまうのも、ジャックスの初陣を無事に終わらせるという目的にとってはマイナスになるし。
だから共に物見に出るというのは、手が届く範囲に居てくれるという事になるので、僕にとって都合がよかった。
尤も、
「別に良いけれど、部隊の人には自分で言って、説得もしてよ。気付いたら僕が誘拐犯になってたとか、嫌だからね」
部隊への説明は、彼自身にして貰おう。
変に口を挟んで、僕が無理に連れ出したと思われても厄介だ。
ジャックスは自分の部隊を良く統率していて、配下の兵士に好かれていた。
それは当然ながら、彼がフィルトリアータ伯爵家の子息である事と無関係ではないが、きっとそれだけでもないのだろう。
けれどもそれ故に、配下の兵士達はジャックスの身の安全を第一に考える。
彼が物見に出る事に関して、兵士達は決していい顔をしないだろうけれど、そこはどうにか頑張って、自分で説得して欲しい。
「あぁ、キレウスには話して、私が留守の間の指揮を任せる。それに関しては心配しなくていい」
そう言って、ジャックスは僕に向かって頷く。
彼が口にしたキレウスというのは、フィルトリアータ伯爵家に仕える騎士の一人で、今回の部隊の実質的な纏め役だ。
本来ならば、ジャックスの副官として彼を補佐する立場になるのだろう。
……何故か、その副官という役割には、僕が据えられているけれども。
しかしそうでありながらも、これまでキレウスが僕を邪険にする様な事は一度もなく、主の意図を良く汲んだ忠臣といった印象を、僕は彼に抱いてる。
キレウスに話を通しておくなら、僕があれこれと気にする必要はない。
故に残る心配は、僕らが物見に出た先で、一体何と出くわすのかという事のみだった。
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