第二部プルガトリオ #66

 確かに、カレントはやっていた。それがエレファントの考えている「対処」であるのかどうかというのは別の話であるが……とにかく、カレントがやっているということは事実だった。

 カレントはサテライトの精神にアクセスしていた。その流れを読み、どうすれば最適な影響を与えられるかということを勘案して。そして、そっと、その流れの中に沈み込むようにして、干渉を加えた。

 サテライトの精神の流れは完全な暴走状態であった。暴風雨の最中の氾濫している怒涛でさえこれほどの混沌になることはないだろう。それは、どちらかといえば孤島における火山の噴火のようなものであった。しかも当の孤島そのものを吹き飛ばしてしまうような大噴火。

 四方八方そこら中に向かって衝動が撒き散らされる。狂ったように渦を巻いているのは、ただ単なる精神的な力、外側に向かって炸裂・破裂する純粋な力だ。自分という生命によって、自分以外の全てのものに破滅的な影響を与えたいという力である。

 カレントは、その力に対して、ちょっとした衝撃を加えた。本当にちょっとした衝撃、例えばガラスで出来た巨大なビルディングの端の端、指先で弾いた程度のものだ。とはいえ……その場所さえ的確であれば。ガラスとガラスとが共振して、それは、ビルディングの全体に響き渡る一つの音楽ともなりうる。

 行程は二つだ。

 衝撃と。

 落下と。

 前者は外的要因だが。

 後者は。

 前者を。

 契機として。

 自動的に起こる。

 サテライトの精神という原初的な混沌の中に落ちていったのは、要するに論理的な結晶構造を持つ感情であった。人間は、感情のこと、いかにもそれが動物的な衝動であるように勘違いするが。先ほども述べたようにそれは間違いである。感情とは人間的な理性の一形式に過ぎない。理性のうちでも最も使い勝手がいいもの。周囲の環境が提示する全体主義的な傾向に対して、最も適応的な理性こそが感情と呼ばれているのだ。

 動物的衝動の中心地点に沈み込んだ感情は、深海を震わせる彗星の欠片のようにして、サテライトの精神全体を共振させる。凍り付いた鈴が、幾つも、幾つも、澄み渡った音色を響かせているみたいだ。そして、サテライトの感覚は冷たい麻薬にも似た何かを感じる。いうまでもなく、それは……結晶化の過程である。サテライトの全身で飽和していた衝動が、その感情によって、遂に、析出可能な結晶構造を獲得したのである。

 本来的に、衝動というのは目的を持たない。それは生命内部の独立した力であって、外部の環境に対する方向性を持った運動ではないからだ。サテライトがアビサル・ガルーダに襲い掛かったのも、それは動物的な衝動そのものがもたらす帰結では全然ない。まだサテライトが人間であった頃、未だ「それ」が感情であった頃の慣性が残っていたからそうなったというだけの話なのだ。

 何がいいたいのかといえば、力を、「それ」を、ある一つの方向に持っていきたいのならば。そのために原因と結果という方向性に当て嵌めなければいけないということだ。そういったものは力そのものとは全然関係ないところの二次的な構造に過ぎないが、そうしなければ、衝動は、目的なく暴れ狂う混沌になってしまう。そう、たった今の、このサテライトのように。

 ということで、この感情は「それ」を一つの方向に収束させるためのものであった。無論、これほどの暴走の全体を構造化することなんて不可能であるが。そんなことをする必要はない。カレントの目的を達するためには、ほんの一瞬だけ、サテライトの注意をそちら側に向けさせるだけで十分なのである。

 無明の蠢闇、因果の天球、方向の螺旋。サテライトの神経系を循環するようにして論理が浸透していく。標本化の過程。まず重要なのは、サテライトの中にある真実の人間性とは何かということだ。サテライトの中で根底的な関係知性とは何か? サテライトの理性は何によって組み立てられている? いうまでもなく、それは人間への憎悪だ。

 サテライトとはつまり人間への憎悪なのだ。人間への憎悪がある限りにおいてサテライトは人間でいることが出来る。さて、そこから導出していこう。サテライトという一つの世界解釈体系そのものをそこから導き出すことが出来るのは事実であるが、とはいえ、それほど巨大なものが必要というわけではない。些細な支流が一つあれば事足りる。

 る、ら、ら、歌え。る、ら、ら、その歌を歌え。歌こそは、関係知性の発露である。そして、他者依存的な方向性の絶対的な始動因でもある。人間への憎悪を歌え、人間という範疇、スペキエースという範疇。理性においてそれを象徴化せよ。

 だから……カレント自身が、それによって感情を感情化したという考えは間違っているだろう。そもそも、その結晶構造はサテライトのものだったのだから。本当に、カレントは、何もしていないにも等しいくらいである。カレントはサテライトの背中を押しただけだ。いや、というか、カレントは、サテライトに触れてさえいない。感情はそもそもサテライトの中にあった。カレントが与えた衝撃によって、それが、混沌の中心へと落ちていっただけだ。

 カレントに責任はない、カレントは免罪されている。もちろんだ、そうなるように操作したのだから。人間、人間への憎悪。ああ、そうだ、全て人間が悪い。スペキエースという種への差別も、その左目も、それにエレファントの死も。全部、全部、人間が悪い。そうだ、エレファントが死んだのだって、もとはといえば人間のせいなのである。詳しいことは覚えていないが、確かそうだったはずで、その推測は正しいはずだ。絶対に。ああ、人間、あの人間の名前は……なんだった?

 さて。

 さて。

 ところで、もしも、その落下が、サテライトの感情がサテライトの精神という混沌の中に落ちていっただけであるというのならば。カレントは一体何をしたのか? 簡単なことだ、もしも獣を自分の思い通りの方向に動かしたいのならば、ただ一言、その耳元に囁けばいいだけの話なのだから。

 それが衝撃。

 要するに。

 カレント、は。

 サテライトに。

 こう。

 囁いた。

「あそこに砂流原真昼がいますよ。」

 取り返しのつかないことが起こった音がした。それから生起した出来事は、一枚一枚並べていたカードが、他愛もなく倒れていくみたいだった。連続した運動、一枚が倒れると次のカードを押し倒す。その繰り返しでしかない。論理が方向性となって、サテライトの中に感情が発生する。感情が発生することによって、目的も発生する。目的が発生することで、世界が生まれる。世界の中に対象がある。それは人間で、その名前は砂流原真昼。

 そう。

 砂流原真昼。

 憎悪と。

 瞋恚と。

 る、ら、ら、歌う。

 互いに互いを喰らい合う星々の中心で、腐りかけた肉塊で出来た混沌の中心で、サテライトの青い目が見開かれた。それは、もう……先ほどまでの、ただただ外側に向かって溢れ出す爆発的なエネルギーの象徴ではなかった。そうではなく。それは、明らかに、一つの確定した飢餓であった。凝固した冷血のようなもの。燃焼しながら流れゆく氷河。

 要するにその青は探していたのだ。とある一つの姿を探して、その青い虹彩は動き回っていた。上に、下に、右に、左に、その精神に直接囁き掛けてきた声が指し示すものの姿。そして、それはすぐに見つけることが出来た。薄汚れた丁字シャツに、ぼろぼろのジーンズ。何かに導かれるようにして、ぼんやりと大地の上を歩いている……真昼の姿。

 壮絶なまでのcruellaによって。

 サテライトの頭部。

 その球体。

 にいっと。

 まるで。

 笑っているように。

 歪む。

 それから、その後で、一時さえも間を置くことなくサテライトの口が動いた。裂け目が二つに割れて、この銀河の底の底にまで続いているような深淵が姿を見せて、暗黒と暗黒とが反響しあって……それは言葉になる。「ごろせ」「ごろせごろせごろせごろせごろせごろせごろせごろせぇええええええええ!」。

 銀河の内側で完全に無秩序な基本子の運動みたいにして飛び回っていた衛星のうちの一匹が、その歌に気が付いた。今までの、暴風と怒涛と、不連続的に爆発する不協和音ではなく。それは確かに歌であった。稚拙ではあるが、それでもある一定の方向性を有した歌。

 衛星は、その歌に誘われるようにして踊り始めた。その歌詞が示す通りの理性的なダンスを踊り始めた。何がいいたいのかといえば、その方向性に向かって真っ直ぐに飛行し始めたということだ。サテライトの憎悪と瞋恚とが結晶として対象化した相手、真昼に向かって。

 ああ。

 災いが。

 一つの。

 星と。

 なって。

 真昼! 真昼! 気が付け、迫っている! これまでの、何にもまして現実であるところの災いが迫っている! だが、真昼は気が付かない。そちらの方に視線を向けることもなければ、それどころか、その災いを感覚したというあらゆる反応・兆候を示すこともない。真昼にはそれが見えていないのだろうか? 当然だ、見えているわけがない。

 なぜなら真昼は夢を見ているからだ。眠ることなく、両の目を虚ろに開いたままで、現実ではない夢を見ている。その夢の中では……物語が続いている。その夢の中では、真昼は、まだ、誰かを助けることが出来るヒーローで。そして、きらきらと輝く金の冠が、王子様の冠が、手を伸ばせば届いてしまいそうなところで真昼のことを待っている。

 本当に。

 すぐ近くで。

 金の冠、は。

 真昼のことを。

 真昼のことを。

 ねえ。

 お願い。

 お願いだよ。

 世界の全部。

 今度こそ。

 きっと。

 あたしを。

 愛して。

 もちろん世界の全部は真昼ちゃんのことを愛してくれるわけなどなく、そもそもの話として真昼ちゃんが感覚しているこの全体が真昼ちゃんのことを騙すためにカレントが仕掛けた罠に過ぎないのであって。結論としては真昼ちゃん・イズ・ベリー・ベリー・フーリッシュということになるのだが……あんまりにおかしくっておへそがベルヴィル・ワルツを踊ってしまいましてよ。まあ、なんにせよ、真昼の主観としてはそんな感じというわけです。

 だから、真昼には、災いの彗星の姿は見えていなかった。真昼に見えていたのは二つのものだけだ。生きているマラー、自分に向かって微笑んでくれているマラーと。その手の中にある金の冠。それだけであった。

 真昼はそちらに向かって一歩一歩進んでいく。アビサル・ガルーダによって草原が吹き飛ばされて岩肌だけになった大地の上を、まるで雲の上を踏んでいくような足取りで歩いていく。殉教者にも似た平穏の表情。

 何を心掻き乱す必要がある? 何を陰鬱に、何を沈痛に、なる必要があるというのか? 信仰における全ての幸いはここにある。ここには喜びしかない、涅槃の喜びしかない。全ての苦痛は幻想だ、全ての絶望は幻想なのだ。希望が幻想であるのならば。

 そう、あとは……真昼に残されているのは……戴冠だけだ。あらゆる夢から目覚めた夢の中で、真昼は戴冠する。そう、もう違う。もう、真昼の頭の上には、鉛の冠はない。どろどろと溶け出して、真昼の目を焼く鉛の冠、真昼の耳を塞ぐ鉛の冠。真昼の開かれた口の中に入り、とくんとくんと動いている心臓を、燃え盛る鉛の塊にしてしまう鉛の冠。

 砂流原と。

 そう刻まれた。

 鉛の冠は。

 ここには。

 もう。

 ない。

 その代わりに、マラーが、かぶせてくれる。きらきらと輝く金の冠を。ああ、ねえ、世界。愛して、愛して、抱き締めて。それから口づけをして。最初は一度だけ、それから何度も。無限に降り注ぐ星々のように宝石がこぼれ落ちる金の冠。春の草原みたいに緑色の宝石、深い海の底みたいに青色の宝石、透明な太陽みたいに黄色の宝石、人間の血が流れている心臓みたいに赤色の宝石。金の冠は、きっと、真昼の頭の上で、輝くだろう。まるで美味しそうなお菓子みたいに輝くだろう。金の冠は、鉛の冠みたいに真昼のことを責め苛むことはない。その代わりに、真昼のことを許してくれるのだ。きらきらとした輝きで、みんな、みんな、真昼のことを許してくれる。ああ、ねえ、世界。あたしに千度の口づけをして。何度口づけしたのかも忘れてしまうくらい口づけをして。あたしのことを愛していることの証明に。

 ばらばらに。

 砕けて。

 壊れて。

 あたしじゃなくなった。

 何かの欠片に。

 優しく。

 優しく。

 口づけを、して。

 そうして、真昼は……とうとうマラーが立っている場所にまで辿り着いた。というか、現実的な視点から見ればカレントが立っている場所ということであるが。真昼の精神は都合よく操作されて、その目にはカレントがマラーに見えていた。カレントのモニター画面には、いっぱいにマラーの顔が映し出されている。真昼のことを許してくれているような、そんな顔で微笑んでいる。そして、何よりも大事なことに、生きている。生きてここにいる。

 当然ながらカレントはマラーよりも背が高く、真昼のことを少し見下ろしてしまうくらいだったのだが……今の真昼には、自分というものを手放した真昼には、そんなことは全然気にならなかった。いや、それどころか、真昼にはこのように見えていた。金の冠を持ったマラーが、この世界の重力からも解き放たれて、ふわりゆらゆらと浮かび上がっている姿。傷一つない両足がごつごつとした岩肌を離れて柔らかく揺れている。ああ、天使みたい。

 そんなマラーの足元に、真昼は跪いた。あたかも教会のドゥルーグで、ティンダロス十字の前に跪くようにして。まずは右膝をついて、次に左膝をつく。膝立ちになった状態で、両方の腕は力なく体の両側に垂らして。それから、ぼうっとした表情でマラーを見上げる。

 アラリリハ、は、主の栄光。光っている、光っている。きらきら、きらきら。金の冠だけではなくて、マラーも。マラー、の、全身、も、光っている。真昼は全身に甘い甘い痺れのようなものを感じる。まるで夜明けとともに目覚めた体がまだ夢に溺れているかのように。真昼の目の前にある世界の全て。真昼自身が輝いている。

 ああ、マラー、あたしはあなたに教えてあげる。あなたはとっくに知っていたことかもしれないけれど、あたしはそれでもこのことを教えてあげる。あたしは、あたしは、流れていく。あたしというものを構成しているものの全部が過ぎ去っていく。今この瞬間にも、あたしは……あたしは気が付く。ああ、そうだ。あたしはあたしなんかじゃなかったんだ。あたしは、始まっては終わっていく、ばらばらな要素が、集まった一つの偶然に過ぎない。

 ね。

 マラー。

 そういうこと。

 なんでしょう。

 マラーは、そのような真昼の問い掛けに答えることはなかった。とはいえ、言葉による答えなど必要なかったのだ。なぜなら、マラーは微笑んでいたから。その微笑みこそが何よりの答えなのだ。真昼の心臓を射抜くような愛。信仰するに足る許し。

 真昼は、まるで毒の矢が突き刺さったかのように、その矢から毒が染み出してきて全身を巡っていくかのように。とろとろとした安寧が感覚を支配していくのを感じた。ああ、これでいいんだ。心配しなくていい、そんな必要はない。大丈夫なんだ、生きていくっていうことは、こんなに簡単なことなんだ。

 真昼は、大きく息を吸って、それから、長く長くそれを吐き出す。心臓の音に耳を澄ます、もしも涙を流せたのならば涙を流していただろう。悲しみのためではなく、怒りのためでもなく、この胸を塞いでしまいそうな安心感のためだ。

 あらゆる穢れが洗い流されていく。解釈の体系。認識の基礎。世界が止まる。現実が消える。本質などない、あたしなどない。夜空には星座なんてなかった、ただ、そこにはこぼれ落ちた宝石が星々のように輝いてるだけだったんだ。

 あたしと。

 あなたに。

 違いなんて。

 ない。

 そこには、ただ。

 夜の。

 闇が。

 あるだけ。

 マラーが、そっと腕を動かした。金の冠をその上に乗せた手のひら、両の手のひらを、手の甲を下にしたままで、真昼の方に差し出してきたのだ。ゆっくりゆっくりと、それを持ち上げて。真昼の真上に掲げるようにする。

 真昼は……陶然としたままで、それを見上げている。自分から何かをするようなことはない。首を垂れることはない。両手を祈りのように合わせることもしない。ただただ、膝をつき、マラーのことを見上げているだけだ。

 金の冠が、まるで太陽みたいに見えた。アーガミパータの太陽みたいに見えた。その内側では、何かが蠢いている。真昼が知りもしないし、考えることも出来ないような何かが。けれども、真昼は、そのことについて気にする必要はないのだ。だって、もう、真昼は、涅槃の中に落ちていくのだから。真昼は、目をつぶった。そして、目をつぶったまま、金の冠の方に、太陽の方に、自分の顔を向けている。自分を助けてくれる者の方に顔を向けている。

 すると、当然ながら、真昼の首筋は露わになる。真昼は、あたかも自らを差し出すようにして。あるいは自らが屠殺されることを待ち受ける従順な家畜のようにして、マラーに向かって……いや、カレントに向かって。喉元を差し出したのだ。

 さて、これで全てが思い通りに進んだということだ。驚くほど簡単であったが、別に驚く必要もないだろう。この未来は、カレントにとっては見えていた未来だからだ。知っていることをわざわざ驚く必要もあるまい。なんにせよカレントがすべきことはほとんど終わった。

 幾つも幾つもの演算子は完全に計算され終わり、シークエンスは終着点にまで辿り着いた。後は、カレントに残されていること、やるべきことは一つだけだ。それは、たった一歩横にずれるということ。この位置から離れて、真昼へと至るための一本の道を作るということ。

 だから。

 カレントはそれをする。

 一歩だけ、横に動いて。

 すると。

 このような声。

 聞こえてくる。

「ハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」

 もちろんだ、もちろん災いである。サテライトの憎しみの歌、サテライトの怒りの歌。その歌に合わせて直線的な舞踏を踊る、一つの破滅の彗星である。地獄の音楽……一つ一つの音が耳の奥で砕け散るような、途切れ途切れの、不協和の、不調和の、あまりにも醜い騒音。罵声と嘲笑と、その内側で踊られるダンスは、逆説的に官能性を内在させる。腐りかけた肉の情欲、炎のように焼き尽くす欲望。

 彗星は、駆ける、駆ける、空間を突っ切っていく。真っ直ぐに、右に逸れることもなく、左に逸れることもなく、ただただひたすらに、真昼に向かって突き進んでいく。サテライトから真昼までの距離を、ほとんど一瞬のうちに過ぎ去っていって……カレントが開いた道、真昼へと至る道を過ぎ去って。そして、そして、どうするのか? 方向性によって定義されたdisire、したいことをするのである。

 災いの彗星は。

 あたかも。

 捧げ物にも似た態度で。

 差し出された。

 真昼の、首筋。

 を。

 天使の羽のように広げた器官。

 一枚の刃のごとく研ぎ澄まされた。

 骨と、骨と、骨と、を束ねた指先。

 に。

 よって。

 人間に対する絶対の憎悪を込めて。

 人間に対する絶対の瞋恚を込めて。

 そ。

 れ。

 を。

 そ。

 れ。

 に。

 よ。

 っ。

 て、切り裂く。

 さんっという透き通ったように綺麗な音がした。あっさりと、他愛もなく、真昼の喉は切り裂かれた。具体的には、真ん中から片方の側に開いた、半分程度の大きさの傷口であった。皮膚が切り裂かれ、胸鎖乳突筋が切り裂かれ、胸骨舌骨筋が切り裂かれ。輪状軟骨が粉々に砕かれた上で、気管はずたずたになっていた。食道も引きちぎられていたし、それに、脊髄さえも半分ほど断ち切られ、ぐらぐらと傾きかけているような状態だ。当然ながら、頸動脈は――しかも、総頚動脈が――完全に切断されていた。

 あたかも世界が祝福しているかのように。真昼のことを祝福して、その肉体に、形而上の清浄な液体、甘い甘い天上の香水を注いだかのように。真昼と真昼との切断面から鮮血が迸る。赤く染めていく、空間のことを、時間のことを。真昼の首筋から、声なき喝采みたいにして血液が降り注いでいく。

 真昼は、両目を見開いていた。声を上げようとする、けれども、傷口から何もかもが逃げていく。息を吸い込もうとする、けれども、おもちゃのように顎が動くだけだ。ぱくぱくと口を開いたり閉じたりする、そのたびに、そこから血液が溢れ出る。

 あまりにも顕著な現象であるために、次第に、次第に、真昼の全身から力が抜けていく様子を観察することが出来る。腕を動かすことも出来ないままに、切り裂かれた喉とは反対の方向に倒れる。倒れたまま、横向きに倒れたまま、時折痙攣する。

 目を見開いたままで、肉体が倒れた方向とはかけ離れた方向に首が折れ曲がった。脊髄は遂にぶづんと切れてしまって、頭部と胴部との間は、筋肉の残渣に皮膚の残滓に、それにほんの申し訳程度に残っている頸椎のはしっかけで辛うじて結び付いているような感じだ。脊髄の切断面からは、神経と思われる、赤い糸のようなものが僅かに見えていて。そのうちの何本かは繋がっているが、大部分は切れてしまってる。

 真昼は体を動かせないようだ、まあそれも当然だろう、神経がほとんど繋がっていないのだから。本当に時々、指先が僅かに動いたりもするが。とはいえ、動作のうちの大半は、刺激に対して筋肉が見せる生物学的な反応に過ぎないようだ。真昼が、脳髄の制御によって動かすことが出来るのは、表情だけという感じになってしまっていて。そして、その表情は……口からこぼれていく大量の血液……純粋な恐怖だった。

 真昼は。

 真昼は。

 慄いて。

 いた。

 彗星が、真昼と真昼との間を通り抜けた時に。その刃による斬撃で、真昼の喉を切り裂いた時に。真昼が初めて感じたのは……冷たさだった。頸椎に感じた、凍り付かせるような冷たさだった。何かが頸椎に触れて、その奥底に沈んでいって。内側から、その冷度が結晶化する。え? と思った。真昼は、何かが起こったことを感じた。けれども、それが何かが分からない。

 次に感じた感覚は爆発だ。それは具体的に名付けようのない破壊的な衝撃であって、首筋から、その片側から、頭蓋骨を打ち砕く落雷が落ちたかのように。何がなんだか分からないほど巨大な感覚の爆発が起こる。真昼は、この時点で目を開いた。だが、その目は何も見ていなかった。視神経によって捉えられた、空も、大地も、それをそれとして理解しているだけの余裕がなかったのだ。真昼は、視覚も、あるいは他のあらゆる感覚も感覚していなかった。ただただ自分の内側にある爆発だけが真実であった。

 その爆発が……やがて判明になってくる。間違いない、これは痛みだ。激痛だ。とはいえ、その激痛について、真昼は記号的に痛みであると理解したわけではない。何か危機的な環境に対する反応として、それが痛みであると、全神経系が叫んでいるのである。そして、真昼も叫ぼうとした。けれども、そのような行動は全くの無意味だった。喉が、喉が、使い物にならない。

 そもそも、気が付くと、呼吸も出来なくなっていた。何かが漏れていくのを感じる、それなのにごぼごぼと溺れそうになる。喉から何かが漏れていって、それがあまりにも大量であるために、息をしようとする真昼のことを塞いでしまっているのだ。

 激痛は温度となり、真昼の内側にある肉を焼き尽くしてしまいそうな灼熱になる。それなのに、相変わらず、真昼の骨は凍り付いているのだ。灼熱はどろどろとした液体となって、喉の奥の方から漏れ出している。熱い、熱い、何かが沸騰している。

 ぎぃん、ぎぃん、という、何本も何本もの銀の剣が殺し合いをしているような音が耳の中で響いている。吐き出した血液が鼻の奥の方にも流れていって、嗅覚を司る器官を、惨たらしい匂いでべたべたに塗り潰す。舌の上に感じている温度は……溶けた金属のような温度だ。溶岩のようにどろどろと熱く、海水に晒されて錆びついた包丁のような味がする。

 痛い。

 痛い。

 それに。

 息が。

 出来ない。

 真昼は、何が起こったのか分からなかった。サテライトの衛星の一つが、自分の首をご愁傷様なことにしてしまったということなど、全然思いも至らなかった。それに、これから何が起ころうとしているのかということさえ分からなかった。いうまでもなく、真昼は今まさに死のうとしているのだが。それさえも、はっきりいって、真昼にはどうでもいいことだった。

 真昼に分かったのは次のようなことだけだ。なぜだかは分からないが、首の横が、今まで感じたことがないくらいの……いや、想像したことさえないくらいの痛みを訴えている。それだけではなく、恐らくは血液らしきものが、自分の呼吸器系の全てを溺れさせしまっていて。そのせいで息が出来ない、息をしようとしても全然出来ないという怯臆にも似た苦しさ。

 いや、それは理解という間接的な感覚ではなかった。というか、感覚でさえなかった。そこに真昼があった。世界と真昼とは一体化していた。真昼は真昼として、それでいて世界であった。つまり、痛みこそが真昼であり、苦しみこそが真昼であったのだ。

 そのうちに……痛みと、苦しみと、それ以外にも、もう一つの何かを、真昼は感じ取り始める。それは、敢えていえば虚無である。そこにあるはずのものがそこにないという感じ。具体的にいえば……真昼は、さっきからずっと、ほとんど無意識のうちに、首筋を押さえようとしていた。傷口がそこにあるということさえ明確に理解していない状態のまま、その傷口を、手のひらで押さえようとしていたのだ。けれども、右腕も左腕も、何をどうしようとも動かない。というか、腕という感覚が、真昼の中にないのだ。

 これはもちろん、脊髄が切断されたことにより、脳髄と首から下の肉体とがほとんど分離してしまったということなのだが。もちろん真昼にはそんなことは分からなかった。とにかく、無い。自分の体の一部が、自分の中の感覚として、どんなに探してもどこにも無いのだ。真昼は狂乱に近い恐慌状態に陥った。ただ、暴れようにも暴れることが出来ない、両手も両足も、その感覚として真昼の中にはないのだから。

 虚無になる。虚無になる。肉体の重さが虚無になる。当たり前のようにそこにあった確固とした足場が存在しなくて。落ちていくということさえ存在しない世界に落ちていく。この表情から下、真昼という肉体であったはずの真昼という肉体は、たった一つの例外を除いて、その肉も、その骨も、その内臓も、まるで馬鹿馬鹿しくて意地悪な手品みたいにして、いつの間にか無くなっていた。喪失ではない、消失でさえない、ただ単にそこに無い。ただ単なる虚無。ちなみに、ここでいうところの一つの例外とは、真昼の呼吸器官の感覚だった。動かすことは出来ない。感じるだけ。感覚だけ。それだけは、なぜか、たぶんその部分だけ神経が途切れていなかったのだろうが、とにもかくにも未だに残っていた。真昼に対して十分に溺水の感覚を味わわせてあげようという優しい優しい何者かの配慮。

 なんで、なにが、どうして? そんなわけがない、こんなことがあり得てはいけない。これがあたしのはずがないし、あたしがこれであることが、決して許されるはずがない。そんなことを感じているうちに……真昼は、首筋に、ぞっとするような寒さを感じ始めた。まるで、冷酷な世界が、首筋の傷口から、真昼を真昼でなくしていくみたいな寒さ。神経の一本一本が朽ち果てて崩れ落ちていくような寒さ。

 真昼の中から、温度が抜け出ていく。血液の漏出によって、心臓が発生させている熱量みたいなものが、だらだらと、体の外側に流れ出てしまっているのである。それとともに、痛みが、虹の九色のように様々な側面を見せ始める。相変わらず爆発し続ける絶叫のような激痛。ずっと突き刺さっている長さ一ダブルキュビトの針のような鋭痛。肉の全体を強く強く締め付けてくるような鈍痛。ずきずきと熟した柘榴の実のような疼痛。体の中を無数の寄生虫が這い回っているような痒痛。そして、真昼のことを嘲笑っているかのような、感情としての痛み。

 そうして。

 そうして。

 真昼の。

 苦しみが。

 真昼のことを。

 喰らい始める。

 最初は、頭蓋骨の中のものが溶けていくように感じていた。思考が、何かどろどろとした泥土のようなものになっていって。そのせいで、今まで感じていた痛みさえも、ふわふわとした雲のように曖昧になっていく。るわーんるわーんという耳鳴りがする、遠くの方で化け物が宇宙そのものを震わせているような音。

 だんだんと、真昼の視界が欠けていく。映写の仕方を間違えた映画、ランプの光でフィルムが焼かれていくみたいに。それから、ぞわぞわとする、麻痺の感覚が広がっていく。痺れる、痺れる、内側にたくさんの膿が溜まっていて、それがちゃぷちゃぷと揺れているみたいに痺れる。溶けた思考が、全部膿になってしまったみたいだ。脊髄と脳との付け根の辺りがすーっと透き通っていく。舌の全体が腐っていくような味がする。

 それは苦しみだった。それは確かに苦しみだった。ただし、あまりにも空白のような苦しみだった。まるで、脳髄が腐敗して、すかすかになって。えろえろとした透明な液体が、脊髄を通って、傷口から流れ出ていってしまっているようだった。

 つまり、真昼は……酸素欠乏症を起こしてしまっていたということだ。気管は真っ二つになっていたし、喉は全体的に血液で塞がれてしまっていたし、肺を動かそうにも神経が繋がっていない。それどころか、本来は、細胞の一つ一つに酸素をいき渡らせているところの血液が。そのほとんどが、真昼の体から流れ出してしまっていたのだ。これでは、いくらデニーの魔学式があったとしても無意味である。どれだけ効率的に酸素を使用しようとも、そもそも酸素の絶対量がゼロに近いのだから。

 すごく痛いよ。

 すごく苦しいよ。

 ねえ。

 ねえ。

 あたし、どうしちゃったの。

 さすがに笑ってしまったが、特にこの「すごく」というところが傑作だ。ガキじゃねぇんだからさ、もっと頭が良さそうな形容詞は思い付かなかったんですかね? なんにせよ、真昼に起こり始めている現象がなんなのかということは明白である。要するに真昼は死んでいるのだ。今まさに死んでいっているのである。

 でも、でも、どうして。どうしてあたし、こんなに怖がっているの? だって、だって、あたし、もう何も怖くなかったはずなのに。だって、あたしなんていうものは、色々な過程に過ぎなくて。痛みを感じるあたしも、苦しみを感じるあたしも、結局は条件とそれによって引き起こされる結果の連続性に過ぎなくて。燃えている、燃えている、幾つもの焚物。感覚だとか、識別だとか、志向だとか、意識だとか、それからその対象となる対象。そういったものの集合体に過ぎないはずなのに。苦しみも、痛みも、存在する、でも、それはそれとして存在しているだけで、それもやはり集合体の一部であって、始まっては終わっていく過程の一部であって、そんなもの、あたし、恐れない。恐れるわけがない。そう思ったはずなのに。あたしは永遠ではないと、そう理解したはずなのに……なんで、あたしは、この一瞬を恐怖しているの?

 もちろん、それは、真昼ちゃんが馬鹿で、ただ騙されていただけだったからですね。真昼が涅槃だと思ったものは涅槃でもなんでもない。ただ単なる洗脳の結果である。つまるところ……真昼が無我だと思ったものは無我ではないのだ。もしも、その無我を、まさに自分自身の「覚醒」によって手に入れることが出来たとするならば。どうしてそれが真実の無我であり得ようか? 自分自身を解体することによって、「自分自身がいない」という感覚も「自分自身がいる」という感覚もなくなり、そこには無我だけがあるという、そういう境地にまで達することが出来たとしても。その真実は自分自身の中にしかないのだ。そうであるならば、それは無我である自分自身になったというだけの話であり、ということは、その無我が真実であるということはあり得ないのである。無意識であるとはいえ、それは自己愛の一形式に過ぎない。

 そもそもの話。

 私とは何か?

 私とは。

 感覚でも。

 識別でも。

 志向でも。

 意識でも。

 それらの対象でも。

 ない。

 私とは。

 強制的な苦痛だ。

 真実の自己、現実において感じられる「私」とは、外的な要因によって強制的に押し付けられる、思いもよらなかった絶対の苦痛だけなのである。それ以外のあらゆるものは「私」ではあり得ない。「私」に従属する、取り外し可能な器官に過ぎないのである。その意味では真昼は正しかった、真昼が、「私」ではないと思ったもの、その全ては私ではあり得なかったのだから。

 苦痛だけが「私」なのだ。苦痛だけが「私」でありうるものなのだ。それは、自分の内的世界が外的世界に向かって散乱していくという焦燥感ではない。生命が侵食されるという嫌悪感でさえない。ただただ、苦悶、激痛、泣き喚きのたうち回っても逃れられないという現実。その身体的な絶対性、それだけが、透徹した「私」という唯一性を構成している。

 それが条件付けられたものに過ぎないとか、条件の前には存在せず条件の後にも存在しないとか。ばらばらの、無常の、過程的な、集合体に過ぎないということは。そんなことは徹底的にどうでもいいことなのだ。そんなことは現実というものを理解していない、小賢しい馬鹿の浅知恵に過ぎない。

 この瞬間に。まさに、この瞬間に、「私」というものは真実なのだ。始まる前の世界も終わった後の世界も、安寧に包まれた永遠とやらも、この瞬間に、お前のことを、守ってくれない。なぜなら、それは、所詮は信仰に過ぎないからである。それはお前が信じているだけの机上の空論に過ぎない。

 確かに、それを信じ込むことによって。瞑想でも禅那でもなんでもいいが、何度も何度も、そういった抽象的な観念を、思考の中に刻み付けることは出来るだろう。そうして、ちょっとした痛み、ちょっとした苦しみ、永遠ではない苦痛、孤独ではない苦痛、想定外ではない苦痛、つまりは絶対的ではない苦痛を耐えることが出来るようになるというのは本当のことだ。だが、それは、全く現実ではない。それは、お前がそうだと思っているだけの話なのだ。しかも、お前の出来損ないの脳髄で、完全性の欠片さえない脳髄で。そんなものが真実であるはずはない。結局は、現実の前には粉々に砕け去るところの馬鹿げた思い込みなのだ。

 自分自身の苦痛などというものはない。

 ただ、現実の苦痛が、あるだけなのだ。

 例えば……それが苦行のようなものであれば。お前はきっとそれについて耐えられるだろう。それは、自ら望んで招いたところの苦痛に過ぎないからだ。それは、完全に予測可能であって、それがなんであるかについてお前は理解している。どれほど凄まじい苦痛であったとしても、お前自身によって操作されているところの苦痛であるならば、それは絶対的な苦痛ではない。例えば……お前が、何十年も生きてきて。その間、やるべきことは全てやり、生きるべきことは全て生き。時折の難事には出会ったとしても、最後の最後には素晴らしい結果を残して。その結果が表わすもの、たくさんの弟子や、たくさんの讃嘆や、そういったものとともに死んでいくという時に。恐ろしい病、激しい苦痛を伴う病に侵されることがあるだろう。そして、その病によって死んでいくということもあるはずだ。だが、それもやはり絶対的な苦痛ではない。なぜなら、お前は、既に、何もかもを手に入れているからだ。その死は、かえって完成でさえあるだろう。そうであるならば、それは、お前の想定していなかった苦痛であったとしても、そこには絶対性などというものはさらさらない。

 絶対的な苦痛とは、そんな生易しいものではないのだ。というか、大前提として、それはあらゆる人間にとって同じレベルの苦痛であるというわけではない。それぞれの人間にはそれぞれの人間にとっての絶対的な苦痛がある。要するに……その人間が「これは絶対的な苦痛である」と考えた時に、それは絶対的な苦痛となる。お前がそれに耐えられる限り、それがどれほど強い苦しみ・強い痛みであろうとも、絶対的な苦痛ではないのだ。

 お前は……お前は間違えている。お前は、全ての苦痛が自分自身の中にあるといった。世界とは経験の中にしかない、苦しみとは移ろいゆく過程であり、痛みとは移ろいゆく過程であり、苦痛を感じている主体などというものは存在しないといった。それこそが傲慢であったのだ。

 果たして、お前は、自分自身という総体的感覚によって全ての経験を制御出来るのか? あるいは、自分自身という総体的感覚によって経験した全てのことが、自分自身以外の人間に対して適用不可能であるか? 自分自身の経験を、決して共通項として利用出来ない完全な孤独として定義出来るのか? お前の総体的感覚が他人を制御出来ない以上、他人というものが自分自身の内部にある錯覚であるという言い訳は通用しない。それは、確かに、制御不可能という一点において他者なのだ。

 お前は世界は存在しているといったかもしれない。ただし、それをそれとして知ることが出来るのはそのような経験の中だけであるという留保をつけて。それが、その留保こそが傲慢だったのだ。お前のその留保は自分自身という感覚の究極的優位を確立した。よくもまあ、これほどまでに愚かなものを玉座に座らせることが出来たものだ。

 精神にとって人間は重要ではない。自分自身などというものは、いくらでも操作可能であり、いくらでも破壊可能なのだ。精神は、そんなもので形作られはしない。完全なる精神は、現実によって形作られる。世界は存在している。経験としてではなく、現実として存在している。そして、それは制御不可能性となって、精神それ自体となる。

 浅緑の地平線の上に群青が君臨する。お前は、あそこにある太陽を見続けることが出来るといった。確かに出来るだろう、さりとて、お前の目は、太陽の光に焼かれる。そして、その城壁の陥落はお前の自分自身とは全く関係がない。喝采せよ、玉座を、玉座を、玉座を。hetoimasia tou thronou、いうまでもなく、人間は空虚でなければいけないのだ。

 苦痛は。

 現実だ。

 それならば。

 苦痛を感じている主体も。

 やはり現実の存在なのだ。

 ということで、真昼は間違えていた。より正確に表現するならば、上手くいいくるめられて騙くらかされていた。この詐話において最も重要な欺瞞は、苦痛という言語をどこまでもどこまでも曖昧にしてしまうことによって、真昼の危機感覚を極限まで薄めてしまったということだ。

 よくよく考えてみれば分かると思うのだが、「幸福が永続しないという苦痛」なんて苦痛でもなんでもない。せいぜいが不満である。そんなものと、脊髄をざっくり抉られるという苦痛とを等置することなんて出来るわけがないのである。あるいは「自分自身が消えてしまうという苦痛」、こんなものは気の持ちようなのである。それが苦痛だと思うから苦痛なのだ。それに対して、自分の体内から致死量の血液が失われるという苦痛は、どんなに前向きポジティブ・パーリーピーポーにとっても苦痛である。

 しかしながらカレントは、それらの苦痛が、いかにも同じものであるように見せかけることによって。この世界には恐怖するに足るものなど何もないと真昼に思い込ませたのである。結果として真昼は自分が全能であるように勘違いをした。怯えることなど何もない、自分には危機は訪れない。そんなふわふわとした生ぬるい幸福感に包まれたままで、真昼は、戦場へと足を踏み出して。そして結果として今の状況があるということだ。

 神経系が使い物にならなくなってしまった真昼は、のたうち回ることさえ出来ない。先ほどまであれほど勢い良く噴き出していた血液は、今となっては、どろどろと流れ落ちるだけになってしまった。肉体は痙攣さえも出来なくなってきて、横たわった胴体に辛うじて繋がっている顔はぼんやりとしている。焦点が合わない目、瞳孔が開きかけた目。口の端からだらりと垂れている舌。真昼は、まともに動かない思考でこう考えている。

 いたい。

 くるしい。

 いたい。

 くるしい。

 とおのいていく。

 とおのいていく。

 きえていく。

 きえていく。

 こわい。

 こわい。

 たすけて。

 たすけて。

 あたしをたすけてくれるひと。

 このせかいで、たったひとり。

 あたしのことを。

 たすけてくれる。

 つまり。

 それは。

「助けて、デナム・フーツ。」

 いうまでもなく……それは、そのような言葉であったわけではない。気管がざっくりとイっちまってる状態で、しかも、舌が全然動かない状態で。こんなはっきりとしたことを言えるはずがない。真昼が発したその音は、せいぜいが、喉の奥でごぼごぼと鳴る些喚き、血液混じりの唸り声に過ぎなかった。

 しかしながら。

 デニーには。

 確かに。

 そう。

 聞こえた。

「え?」

 今の今、ついさっきまで、ふわふわと空中に浮かんで、その場で転がるみたいにくるくると回って。あまりにも傍若無人なサテライトの大暴れ、手を叩きながらけらけらと笑っていたデニーが、不意にそう声を上げた。

 自分の笑い声に揺られるみたいに回転していた身体が、その位置とその形とのままに、ぱっと止まって。つまりは上下逆さまで、片方の脚を自分の体の方に折り曲げて、もう片方の脚は柔らかく伸ばして。両方の手のひらを、そっと重ねるみたいにして胸の上に置いた姿勢。全身は、半月のように、前方に向かって軽く弓なりになった姿勢。そのままに停止して。それから、デニーは、その声がした方向にくるっと顔を向けた。

 「真昼ちゃん?」。デニーがいたのは玉座の上空、数十ダブルキュビトの高さのところであったが。そこから、地上にいる真昼のことを見下ろしたということだ。真昼は……玉座から少し離れたところにいて、そこに横たわっていた。

 デニーは、サテライトが繰り広げる信じられないほど頭が悪い喜劇に夢中になってしまっていて。真昼がどこで何をしているのかということについて、完全に疎かになっていた、失念してしまっていた。そのため、真昼が、自分が作り出したアサイラム・フィールドの外側にいるということがまず大きな驚きだったし。それに、真昼がどう見ても死にかけているということについては、驚愕なんていうありきたりな単語で表現出来る領域を遥かに超えていた。もう、なんというか、オー・マイ・スマイスである。ちなみにこのスマイスとはもちろんジャネット・スマイスのことだ。

 その視線が、真昼のことを捉えるとともに。デニーは「真昼ちゃん!」と叫んだ。真昼は、首の半分を切断されて息も絶え絶えであったし。しかもそれだけではない、そんな真昼に向かって、何匹も何匹も、サテライトの衛星達が襲い掛かろうとしていたのである。最初に真昼の喉を切り裂いた衛星は、最初の一匹に過ぎなかった。その一匹を追いかけるようにして、あるいは、確実に真昼の息の根を止めようとして、数十匹の衛星達が、真昼に向かって突進してきていたのだ。

 いつの間にかデニーの姿が消えていた。この瞬間までいたその場所から、跡形さえ残さずに消えてしまって。そして、まるで違うところ、予めそこにいたかのような自然さでそこにいた。そことは、いうまでもないことであるが、真昼が横たわっている岩肌の上だ。恐らく短距離テレポートをしたのだろう。いくら短距離とはいえ、アーガミパータにおけるテレポートをなんの記号的補完もなく行うというのはちょっとびっくりなことであるが。今はそんなことに驚いている暇はない。

 デニーは、すぐさま真昼の横に跪いて。それから真昼の肉体を抱き上げた。それは、まるで骨を抜かれた肉の人形であるかのようにぐにゃぐにゃとしていて。しかも、血液の大部分が抜け出てしまっていたせいか、とてもとても軽くなっていた。デニーの腕に抱かれて、真昼は、だらんとしている。腕を垂らして、足を垂らして。全身が死んだ魚の切り身みたいだ。デニーは、そんな真昼に向かって、必死に呼びかける。「真昼ちゃん、真昼ちゃん、大丈夫!?」。もちろん大丈夫ではない。

 「しっかりして、真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃーん!」。いやー、あの、えーっとですね。そんなに激しく揺さぶらない方がいいと思いますよ。ホモ・サピエンスの肉体って、こう、非常に脆いものでして……ああ! ほら! 駄目だって! がくがくしないで! 脊髄から白質が漏れてるから! 灰白質もこぼれてるから! やべーって、首が、首が! ぐらんぐらんしてるから! 折れちゃうから、折れちゃうから!

 なんというか、あまりにもおかわいそうなことになっている真昼ちゃんであったが。一方で、サテライトの衛星達はどうしたのだろうか。確か、真昼にとどめを刺そうとして大挙して襲ってきていたはずだったが。

 衛星達は。デニーがそこに現れる直前までは、元気よく真昼に向かって突撃していたのだが。デニーが現れた瞬間に一匹残らず消し炭となって吹っ飛んでしまっていた。本当に粉々になって焼き尽くされて基本子の欠片さえ残らなかった。

 デニーが何かしたのだろうが何をしたのかは分からなかった。デニーは呪文も唱えなかったし魔学式も魔法円も書かなかったからだ。指を鳴らすことも舌を鳴らすこともせず、それどころか衛星達にちらと目を向けることもしなかった。

 たぶん本気を出したのだろう。今のデニーはこのような状態であって、完全な能力を発揮することは出来なかったが。そうではあってもヒーリング・ファクター持ちのアヴァターを消し去ることなど兎を踊らせるほどに簡単なことである。

 そんなわけで、真昼に襲い掛かった衛星達はこの世から完全に消滅していたのだが。そういえば、その他の衛星達はどうしたのだろうか。というか、そういった衛星達の親玉たるサテライトは一体何をしているのか? デニーは、現在のところ、真昼に掛かり切りになってしまっていて。アビサル・ガルーダに対する支配権は完全に放棄してしまっている。そんなアビサル・ガルーダとサテライトとの戦闘はどうなっているのか? いや、もっともっといってしまえば、五人のテロリストはどうしているのか? REV.Mの目的とは、真昼のことを生きたままの状態で、取引に使うことが出来る状態で捕獲するということだったはずだ。ということは、この状況は、REV.Mの目的とはかけ離れた状況であるはずである。それに対して、五人のテロリストのそれぞれはどのような反応を示しているのか。

 それを知るためには。

 まずは。

 プレッシャーの。

 このセリフから。

 お聞き頂こう。

「おいおい、お前、「今やってますよ」って……本当になんとか出来んのかよ? サテライトの姐さん、あんな感じなんだぜ? 俺達がなんか言っても聞いてくれるような状態じゃないだろ。いや、そりゃ、お前なら色々と方法はあるかもしんないけどさ。それはそれで駄目なんじゃねーの? 姐さんのハートは超デリケートなんだから……あんま、こう、いじくっちまうのはよくねーと思うんだよな。いくら作戦に必要だからっつったって、やっぱ、なんつーのかな、本人に同意もなくそういうことをするのもどうかと思うぜ? 俺は。

「っつーか、なんか姐さん変じゃね? いや、変ってーのはそういうことじゃなくて、なんか、えーと、これは……わっ! 目が、目が、なんか動いてる! いや、ちげーな、探してんだ。なんか探してる。何を探してんだ? もしかして砂流原真昼のことか? カレント、もしかしてお前、なんかしたのか? まあ、いいや! 何をしたのかは知らねーけど、とにかくよくやったぜ!

「とはいえ、お前、後でちゃんと姐さんに謝っとけよ? 姐さんだって、自分の心ん中に勝手に入り込まれたらなんかやだろーし。作戦のためにどうしても精神を操作する必要があったんです、ごめんなさいってな。まーまー、心配すんなよ。俺も一緒に謝ってやっからさ。なんにせよ、だ……姐さん! 姐さん! 違うっすよ、そっちじゃないっす! あっちっすよ、あっちっすよ!

「あっ! 見つけた、見つけましたよエレファントの姐さん! サテライトの姐さんが砂流原真昼を見つけました! よーし、これで後は、あのクソ野郎が気付く前に……あれ? サテライトの姐さん、どうしたんだ? なんか、ちょっと……な、な……なんだよ、サテライトの姐さん、どうしたんだよ……なんつー笑い方してんすか、サテライトの姐さん、そんな笑い方……え?

「サテライトの姐さん……殺せ? って言いました? ははは、んなわけないっすよね。ねえ、エレファントの姐さん、俺の聞き間違いっすよね。そんなわけが……ひっ! サテライトの姐さん、サテライトの姐さん、どうしちまったんすか! やめて下さい、駄目っすよ! 殺しちゃ駄目っす! 俺達の任務は砂流原真昼を生きて捕獲することなんすよ! っていうか、それ以前に、駄目っすよ! 確かにディープネットのクソ野郎の娘っすけど、砂流原真昼自身にはなんの罪もないんすから! 駄目っす! 駄目っす! ああ、そんな、駄目駄目駄目駄目……ああっ!」

 と。

 まあ。

 こんな。

 感じだ。

 いうまでもなく、このプレッシャーのセリフは、エレファントの問い掛けに対してカレントが回答した直後から、サテライトが真昼のことを殺害したその瞬間までに発せられたものである。これを聞いて頂ければ分かるように、プレッシャーにとって、これは、完全に想定外の出来事であった。

 それどころか、それが起こることを望んでさえいなかった。確かにプレッシャーは、これ以上強く憎むことは出来ないだろうというほどの強さでディープネットのことを憎んでいる。それは自分の人生の全てをめちゃくちゃにした冷酷な企業なのであって……とはいえ、真昼には恨みはない。

 だから、殺すほどのことはないと思っているのだ。というか、そもそも、プレッシャーには、人が死ぬということに強い恐怖感がある。自分が人を殺したことがないというわけではない、むしろ、自分が人を殺したことがあるからこそ、そのような感覚を抱くのだ。だって、だって……思い出してしまう。あの感触を。自分の能力、「圧力」を操作することが出来る能力によって。基本子の欠片、粉々の粒子の残骸となって、跡形もなく消え去っていく人間の感触。それを思い出してしまうのだ。

 プレッシャーがいる位置から、真昼がいる位置までは、遠く遠く離れていた。数エレフキュビトの距離が離れていた。だから、それは、ほとんど見えなかった。それでも分かった。砂流原真昼の首が切断されたということが。ほとんど真っ二つになりそうなくらいに深々と、真昼の首が切断されたということが。

 灰色く沈んだ背景の中に、赤い色がぱっと弾ける。真昼の頸動脈から噴き出した血液が、色鮮やかに、プレッシャーの視界に焼き付く。それが、遠い遠い景色の中で、まるで虫けらが潰されたみたいに、小さく小さく霞んでいる。

 プレッシャーは……一体どうすればいいのか分からなかった。こういう時にどうすればいいのか、まるで分からない。恐らく呼吸をすべきなのだろうが、それも上手く出来なかった。浅い呼吸を何度も何度も繰り返そうとするが、ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ、という奇妙なこすれ音がするだけである。

 暫くの間、そういう風にして、その光景を見つめていたが。やがて、ようやく、その口から言葉が漏れる、「そんな」。それから、プレッシャーは、振り返った。後ろにいる人……自分なんかよりも、ずっとずっと経験豊富で。こういう時に、一体どうすればいいのか、知っているはずの人。頼りがいがある人。つまり、エレファントに、どうすればいいのかを質問するために。また、その口が言葉を発する。「エレファントの姐さん」、けれども、そこから先が出てこない。どう質問していいのかさえも、もう分からないのだ。

 一方で、そのエレファントはどうしているのだろうか。エレファントは、今、立ち上がろうとしていた。先ほどのダメージ、大地に叩きつけられた時のダメージに、それに、当然のことであるが、セミフォルテアの大爆発に巻き込まれた時のダメージ。ちょっとずつではあるが回復してきて、なんとか体を起こすことが出来るようになったらしい。とはいえ、まだ、随分と身体的な損害は残っているらしく。かなり無理をしているのが分かる。

 膝に右の手のひらをついて、左の手のひらは大地について。勢いよく全身を押し上げるように肉体を持ち上げる。なんとかして膝を伸ばすと、一瞬だけ上半身が傾いだ。それでも、無理矢理、肉体の軸を整えて。ようやく立ち上がることが出来た。

 すーっと息を吸い込んで、ふーっと息を吐く。この行為は、精神を落ち着けようとしているというよりは、自分の肉体に対しての制御を取り戻そうとしているようだった。つまり、呼吸の過程で、なんとなくぶれていた肉体の軸が真っ直ぐになる。

 そして。

 エレファントは。

 こう、言葉する。

「カレント。」

 そのタイミングを計ったかのようにして……エレファントのすぐ横のところ、少しだけ後ろの方に何かが落下してきた。カレントだった、随分と上の方から飛び降りてきたはずなのに、とんっという感じ、軽やかに着地する。

 どこから降ってきたのか。

 というか。

 そもそも。

 カレントに何があったのか。

 順を追って説明するとなると、まずは真昼に襲い掛かった最初の衛星、つまり真昼の首を切り裂いた衛星が、その後どうしたのかということから話していく必要があるだろう。そういえば、よくよく思い出してみると。瀕死の真昼に最後の一撃を食らわせようとしていた衛星達、つまりはデニーに消し去られた衛星達の中にはその衛星はいなかった。それらの衛星達は、その全てが、新しく襲い掛かってきた衛星達だった。

 その衛星は……真昼ちゃんをリッパーリッパーした後で。勢いもそのままに、大地に激突した。まあ、そりゃそうなりますわなという話であって、その衛星は凄まじい勢いで斜め上から斜め下に向かって突進していたのだ。やるべきことをやったからといって、つまりリッパーリッパーが終わったからといって、「はい、その場でストップします」というわけにはいかないのである。この世界には慣性の法則というものがあるのだ。

 「ハハハハッ」と笑いながら岩肌に叩きつけられて、「グゲッ」「グゲッ」と気持ち悪い声を上げながら二度か三度かバウンドして。それから、ずざざーっという感じの音を立てながらその上を滑っていった。滑っていった後には、あたかもすりおろし器ですりおろした肉片のような跡がついて、非常に不気味だ。

 ようよう見かけの力を使い果たし、というか見かけの力は見かけに過ぎないんだから使い果たすとかなくない? なんにせよ、衛星という物体は停止した。「ハハハハッ」と笑いながら、衛星は……ほとんどダメージを受けていないし、受けたダメージもヒーリングしたらしく、即座にその場に浮かび上がった。

 そして、もちろん、真昼のことを確実に殺すために。メルシーなストライクをぶっぱなそうとしたのだが。ふと、その場で動かなくなってしまった。まるでそう行動しようとする衛星のことを押しとどめる何かを感じたかのように。そのまま、なんとなくふらふらとした感じで、真昼がいる方向ではない方向に進んでいく。夜の闇の中、ライターの炎、幻みたいに揺らめく炎に引き付けられる、死にかけた蛾のような感じだ。

 衛星が引き寄せられたのは……カレントだった。つまり、カレントが、衛星の精神の流れに干渉して、自分の方に来るように仕向けたのだ。しかもそれだけではない。そちらに向かう衛星の肉塊の中から、新しく、何かが生えてくる。それは、どうやら腕のようだった。右腕なのか左腕なのかは分からないが、とにかく腕が生えてくる。先端には手がついていて、指は七本あり、右側にも左側にも小指と親指とが生えている。

 その腕。

 ゆらゆらと揺らしながら。

 カレントに近付いていく。

 カレントは当たり前のようにして。

 その腕に、自分の腕を、伸ばして。

 すると。

 七本指の手が。

 伸ばされたカレントの手を。

 はっしと。

 掴む。

 「ハハハハッ?」という、自分でも何をしているのか分からないといったような笑い声を上げた後で。衛星は、そうやって掴んだカレントのことを持ち上げた。そのまま上空に向かって高く高く舞い上がって、それから、その場から一刻も早く離れようとしているかのように、かなりの勢いですっ飛んでいく……カレントのことを運んでいく。

 カレントは理解していた。未来を読むまでもなく完全に分かっていた、この場にとどまるということの危険性を。デニーは気が付くだろう。真昼が今にも死にかけているということに。そして、そのことに気が付いたら、一瞬の猶予もなく、即座にこちらにやって来るに違いない。

 それだけではなく、真昼の周囲にある少しでも危険性のあるものを即座に消し去ってしまうに決まっている。ということは、いつまでもいつまでもその場にとどまっていたら、カレントも消されてしまうということである。だから、サテライトの衛星を利用して逃亡を図ったのだ。

 そうやって、衛星に運ばれて。カレントは、真昼が死に損ないの痙攣をしている地点から、可及的速やかに遠ざかっていって。その代わりに別の場所へと近付いていく、つまりはエレファントとプレッシャーとがいる地点へ。

 そして、その上空に到達すると。

 ぱっと。

 衛星の手。

 手放して。

 エレファントのすぐそばに。

 軽快な着地を。

 決めたということだ。

「なんですか、エレファント。」

 エレファントの呼びかけに、なんということはないという感じで答えるカレント。その全身は……血液と髄液とが混じり合った物でべっとりと汚れていた。もちろんカレントの物ではなく真昼の物である。カレントは、真昼に致命傷が与えられるところを、まさにその真横で見ていたのであって。当然ながら、その返り血の巻き添えを食っていたのだ。

 カレントが、見下ろしている前で、真昼の体が、ゆっくりゆっくり、倒れていく。その時に、あたかも消えていく流星が尾を引いていくように、生きていた血液が吐き出され吐き出され。カレントを濡らしたのである。カレントは顔色一つ変えることなくそれを見ていて。なぜというに、カレントには、もう、顔色を変えるための顔もないからである。

 真昼の体液は、カレントの顔から、胸を通って、腰の辺りまで。右側の半身の全体に広がっていた。未だに……モニター画面からは、その液体がぽたぽたと滴ってる。カレントは、そのような自分のことを、何かの布切れで拭い取ることもしなかった。カレントには目も鼻もないので、別にそのままにしておいても不都合がないのだ。それに、カレントにとっては、他人の返り血など気に掛けるにも値しない些事であった。

「一つ聞きたいことがある。」

「なんなりと。」

「私達が砂流原真昼のことを生きたまま捕獲できる可能性は、本当にあったのか。」

「ありませんよ、あるわけないじゃないですか。正確にいえば、デナム・フーツが隠していた未来を明かしてスパルナを兵器として投入してくるまでは、その可能性もなかったわけじゃありません。かなり低いものでしたがね、それでも、あなたと私とで立てた計画通りに進めば、砂流原真昼を生きたまま捕獲出来る可能性もありました。

「けれども、あんな化け物を持ち出されたら、私達に勝ち目なんてありませんよ。いいですか、プランCにおいては……私が砂流原真昼に対する支配権を確立出来たとして。それでも、もう一つ、解決しなければいけない問題があるんです。それはデナム・フーツからの妨害なく砂流原真昼を動かさなければいけないということです。

「スパルナがいないうちは、それも不可能ではありませんでした。私達が全員でデナム・フーツの注意を逸らすことが出来たんですからね。しかしながら、スパルナが戦場に配置されてしまった状況下においては、私達はデナム・フーツに直接攻撃することさえ出来ません。ということは、何かよほどのことが起こらない限りは、デナム・フーツの注意を逸らすことが出来ない。デナム・フーツの注意は、常時、砂流原真昼に注がれることになる。

「あなたは……こう考えたんでしょうね。砂流原真昼のことを、あのアサイラム・フィールドから誘い出して、サテライトが捕獲するまでの時間。それくらいの時間であれば、私の能力によってデナム・フーツの注意を逸らしておくことが出来るだろうと。そう考えて頂けるのは大変光栄です。けれども、その評価はあまりにも過分ですよ。私には、あの生き物の精神構造に触れることすら出来ない。それほどまでに、あの生き物は、強く賢い生き物です。

「私に出来るのは、せいぜいが、その精神構造を読み取ることくらいです。どのような方向性によってプロセス化されているか。どのような刺激に対してどのような反応を示すか。もっとはっきりと言ってしまえば、何に対して興味を持つか。

「あらゆる生き物と同じように、あの生き物も、状態の変化・状況の変更に興味を持つことが分かりました。それも、大きければ大きいほどにその注意を引くということもね。ということは、砂流原真昼からあの生き物の注意を逸らすためには、この戦場に、あの生き物が思ってもいなかったようなことを引き起こせばいいということです。

「それは何か? デナム・フーツのように賢い生き物にとって大抵のことは想定の範囲内です。というか、あらゆる「論理的」な出来事は理解可能であるはずです。なぜなら、それが「論理的」である限り、その論理を追っていきさえすれば、結果は予測出来るからです。もしも、あの生き物を驚かせようとするならば、「論理的」であることを捨てなければいけない。

「つまり愚かでなければいけないということです。しかも、この世界を構成する論理を完膚なきまでに破壊することが出来るほどにね。私達には……一つだけ利用可能なものがあった。あの生き物を驚かしうるほどの、極限まで達した愚かさを有していた。いうまでもないことですがサテライトのことですよ。そういうわけで、私はサテライトを利用することにした。

「とはいえ、そうしようとすると一つ問題が出てきます。それは、サテライトの愚かさを完全に引き出し切ってしまった場合、サテライトは制御不可能になるということです。サテライトの愚かさとは、非論理性のことであり、混沌における無秩序のことですからね。そうなってしまえば、秩序のもとに計画された作戦に従わせることなど出来るわけがありません。簡単に言ってしまえば、ああなったサテライトは、もう、一人の人間を生きたまま捕獲するなんていう複雑な作業を実行することなんて出来るわけがないんです。

「ということで……デナム・フーツがスパルナを持ち出した瞬間から、私達には三つの結末しか残されていなかったんですよ。まず一つ目が、一欠片の勝ち目さえない戦いの末に全滅するという結末。二つ目が、作戦を放棄して逃走するという結末。そして、三つ目があれです。」

 その答えを聞いて。

 エレファント、は。

「ということは。」

「はい。」

「私達はお前に騙されていたということだな。」

「まあ、そういうことになりますね。」

 それから、少し、何かを考えているようだった。何を考えているのかは分からないが、口を閉じたままで、じっとカレントのことを見つめていて。やがて、また口を開く。

 「デナム・フーツがスパルナの死骸を所有しているということは分かっていたのか」「いいえ、それについてはちょっと前に言った通りですよ。つまり、デナム・フーツはなんらかの方法で未来を隠していた。あのような兵器を使用してくる未来は全く見えていませんでした」。

 カレントは、そこで言葉を止めると。少しだけ首を傾げて、こう続ける。「さすがの私でも、実行不可能であると予め理解している作戦を提案しはしませんよ」。エレファントは、それに対して「そうか」と答えた。それから、暫くして「分かった」と付け加える。

 エレファントはそれを理解出来たらしい。

 ただ、理解出来なかった者もいるようだ。

「おい……ちょっと待てよ。」

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