第二部プルガトリオ #64

 ということで、デニーは、そのような「出来ること」のうちの一つを実際の行動に移すことにした。インターフェースの入力側の手を軽く動かして、ムドラーを結ぶと。その入力に従って、アビサル・ガルーダが、今までとは別の行動を取り始める。

 エレファントによる砲撃と砲撃との合間を縫って、何をし出したのかといえば。まずは、手に持っていたヴァジュラを、胸の辺りまで軽く持ち上げて。それから、ゆっくりゆっくりと回転させ始めた。まるで、手のひらの中を滑っているみたいにして中心の球体が転がって。指先と指先との間、セミフォルテアの槍とオルフォルテアの槍とがなめらかにダンスする。

 最初は右の手で持って体の右側で回転させていたヴァジュラ。するりと抛ってしまうように左の手に移して、今度は体の左側で回し始める。くるくる、くるくる、回る回る。次第にスピードを上げながら、アビサル・ガルーダはヴァジュラを回転させる。その速度は……最初は、人間の目でも十分追える程度のものだったが。速く、速く、速く、目に留まらぬほどの速さになる。

 右の手と左の手と、交互に持ち替えながら。ぐるぐる、ぐるぐる、それは旋風・烈風・颶風のようなものになっていく。破壊的な竜巻、そして、それだけではなかった。どういうことかといえば、その大風の内側で、はらはらしく轟き渡る閃光、迅雷に似たものが発生し始めたのである。

 ごうごう。

 ごうごう。

 これは要するに……ヴァジュラをあまりにも早く回転させてしまっているせいで、オリジン・ポイントから漏出している二つの原理、セミハの原理とオルハの原理とが互いに影響し始めたということだった。

 普通であれば魔学と科学とが混ざり合っても大したことはない。というか、この世界にあるほぼ全てのものは幾分たりともセミハとオルハとが混ざり合うことによって作られている。兎戮の民のような特殊な例外はないことはないのだが、それでも、ほとんど物質には魔学的側面と科学的側面とがある。とはいえ、ルテアにまで純粋化された原理が衝突し合うとなると、これはもう全く別の話になってくる。

 セミハとオルハとは根本的に対立する二つの原理なのだ。科学と魔学との違いは、その方法の違いではなく、それが取り扱う二つの原理の、この異質さからきたっている。そう、以前にも書いたことであるが、「科学は冷酷の方法であり、魔学は傲慢の方法である」。セミハとは冷酷なまでに決定を絶対化するテクノクラートであり、オルハとは傲慢にも混沌に混沌を重ねるソフィストなのだ。セミハを一言で表すとすれば「完全なものは不可謬である」、オルハを一言で表すとすれば「ここにいるわけではない私にどうして幸福が訪れる?」。あらゆる法則は主観的な恣意でしかないにせよ、それが権威によって定められる場合、諦めとなりうる。諦めは真実の別名だ、諦めのもとには現実など無意味である。雨は地から天に向かって降り注ぎ、白い烏が鏡の中を埋め尽くす。

 ルテア化した二つの原理が混ざり合うというのは、一つしかない玉座を二つの統治機械が争うようなものである。しかも、一つの統治機械は氷で出来ていて、もう一つの統治機械は炎で出来ている。互いが互いの栄光を無為へと還元し、あるいは予表されていたはずのモナルキアを巡る論争を開始する。原理とは常に論破されうるものであり、不動の玉座はいつだって空虚だ。ピュランクス、カリテア、カリテア。さりとて、真実を殺したのは何者か? 真実の血に濡れた短剣を後ろ手に隠して、角を生やしていたあの子供は、今どこを走っている?

 角の数を数えろ。

 一本。

 二本。

 三本。

 四本。

 五本。

 六本。

 七本。

 八本。

 九本。

 無論。

 その数は。

 九本だ。

 ごめん、これじゃなんも分かんないよね。えーっと、分かりやすくいうと、アビサル・ガルーダがヴァジュラを勢い良く回転させることによって、オリジン・ポイントから漏出したセミフォルテアとオルフォルテアとがいい感じに混ざり合って。結果的に、この世界全体をわちゃわちゃさせている混合的な法則そのものが破綻し始めたということである。

 迅雷のように見えている何か、がりがりと音を立てながら弾けている何かは、実際には、現実が罅割れてしまいその裏側が見えてしまっているところである。あまりにも強い力で布を引っ張ってしまったせいで、その布のそこら中に、破れ目やら糸のほつれ目やらが出来てしまった、イメージとしてはそんな感じだ。

 アビサル・ガルーダは、なおもなおも、ヴァジュラを回転させるスピードを上げていき。それとともに迅雷の勢いも加速度的に増していく。ヴァジュラの大きさからすればほんの静電気程度に過ぎなかったものが、どんどんと大きさを増していって。ついにはヴァジュラの全体に絡み付く蔓性植物のような姿になる。

 右手。

 左手。

 右手。

 左手。

 そうして。

 アビサル・ガルーダは。

 いきなり。

 手を放す。

 ごおうっという。

 衝撃音を立てて。

 そのヴァジュラ。

 高く、高く。

 放り投げる。

 そもそもアビサル・ガルーダの身長が百ダブルキュビト以上あったのであって。ヴァジュラはその三倍近い高さまで投げ飛ばされた。ということは三百ダブルキュビト以上の地点にまで到達したということだ。

 そして……ヴァジュラは、その地点に到達すると。今まで全体に纏わりつけていた迅雷、全てを、たった一つの刹那のうちに解放した。迅雷は、その高みから、獲物に襲い掛かる怪物みたいな勢いで落雷する。

 地上に向かって走駆する、現実を引き裂きながら亀裂を走らせていく。それは、あたかもこの戦場に向かって何か計り知れないほどの力を持った者の拳が振り下ろされたかのようだった。この戦場をこの戦場としてアガトラシー化していたところの現勢力が、次々にテンピカライズされていって。罅割れる、罅割れる、叩き割られた食器のようにして、戦場の全体に、ほんの一瞬、蜘蛛の巣のような罅割れが入る。

 それから。

 それから。

 アビサル・ガルーダが。

 そう望んだ通りに。

 とても。

 邪魔な。

 法則が。

 粉々に。

 砕かれる。

 正確にいえば、アビサル・ガルーダはデニーによって操られているだけなので、そうなることを望んでいたのはアビサル・ガルーダではなく操り主であるデニーの方なのだが。なんにせよそれが起こった。何が起こったのかといえば、ヴァジュラが放った迅雷によって、戦場中に撒き散らされていた「感覚に対する抵抗力」が吹っ飛んでしまったということだ。

 文字通り、吹っ飛んだ。エレファントに、レジスタンスに、それに無数の衛星達に付着していた抵抗力が。春の嵐に吹かれて飛んでいく朝露みたいにして飛び散っていった。抵抗力は、そのまま跡形もなく蒸発してしまって……後には、あらゆるものの姿が剥き出しになった状態だけが残される。

 アビサル・ガルーダがしたことは、つまり、こういうことだった。セミフォルテアとオルフォルテアとを相互作用させることによって、一時的に法則性の揺らぎを発生させる。その揺らぎを、取り除こうとしていた法則、要するにレジスタンスが作り出した抵抗力、へと向かう一方向に、精神力によって収束させて。それを、戦場の全体に放ったということだ。

 なんにせよ。

 もう。

 エレファントも。

 レジスタンスも。

 隠れては。

 いない。

 ヴァジュラが落ちてくる。被告人に対する刑の宣告のようにして、極めて速やかに。セミフォルテアが時を切り、オルフォルテアが空を裂き。先ほどまでの回転の余韻みたいに、けれども随分と緩やかなスピードで、くるりくるりと回りながら落ちてきて……次の、瞬間、には。アビサル・ガルーダの指先、ヴァジュラの中心の球体を、ぱしっと掴んでいた。

 落下の勢いもそのままに、手のひらの中で、ヴァジュラを二回か三回か回して見せながら、アビサル・ガルーダは、その巨体からは信じられないほどのスピードで身を翻した。左の羽を真っ直ぐに伸ばして、右の羽を軽く畳んで。体の重心を屈み込むようにして下ろすと、ヴァジュラの槍先、自分の腰の高さ、右横十数ダブルキュビトの辺りに叩き込む。

 もちろん、そこにはエレファントがいたのだった。抵抗力によって身を隠したままで、次の攻撃の準備をしていたはずのエレファントが。既にその姿を感覚出来なくするための迷彩は何一つ纏っておらず、ゆえにアビサル・ガルーダからは丸見えだった。

 セミフォルテアの槍先は、正確に、エレファントのことを捉えていて。カレントの能力によって、予めこのことが起こることを予測していたために、エレファントの背中に飛び乗ってシールドを展開することが出来ていたレジスタンスがいなければ、間違いなくエレファントのことを貫いていただろう。

 エレファントは、シールドに頼って、その場から逃避するので精一杯だった。足場を蹴って跳んで……と、その拍子に、砲口の部分に作り出しかけていた砲弾、搔き集められた衛星達がぽろぽろと落ちていってしまった。それから、セミフォルテアの槍先が放つエネルギーに影響を受けたことによって、それらの衛星達の一つ一つが次々に爆発していく。

 もちろんセミフォルテア爆弾として爆発していくわけではなかったが。とはいえ、フィーリング・ファクター持ちの人間の肉体が持ちこたえられる限界まで魔学的エネルギーを溜めた、その全体が爆発するわけであって。かなり強力な衝撃としてエレファントのことを襲う。どぐっどぐっどぐっ! そのたびにレジスタンスがシールドを展開していく。

 まるで房になって実をつけた葡萄みたいな、爆発の連続を切り抜けると。一瞬のいとまさえ与えることなくヴァジュラの槍先が襲い掛かってくる。今度はオルフォルテアのそれが、まさにエレファントが向かっている先、上の方向から叩き下ろされてきたのだ。レジスタンスが展開した紙のように薄いシールドはすぐに突き破られ、エレファントは、そこにあった衛星を横ざまに蹴り飛ばしてなんとか回避する。

 これでは……またあの状態に逆戻りだ。追い詰められるだけ、反撃するための一瞬さえも掴み取れない。連続して襲いくる槍先をやり過ごすだけ。それどころか、アビサル・ガルーダの攻撃は先ほどよりも激しくなっているようだった。このままでは、いつ、逃げるタイミングが一瞬遅れてしまうか分からない。いつ、槍先の餌食になってしまうか分からない。

 あと少し、あと少しでいいのだ。恐らくは、ほんの一分も持てばいい。そうすればカレントが仕掛けを完成させることが出来るはずだった。だが、その一分がなんと長いことか。たった一分さえ、恐らく、今の状態のままでは持たせることが出来ないだろう。数十秒もしないうちに、ヴァジュラはエレファントとレジスタンスとを始末して。次は、カレントだ。

 ああ。

 運命よ。

 あと少し。

 あと少し。

 あと少しだけ。

 微笑んでは。

 くれないか。

 そして、エレファントは賭けに出ることにした。いや、違う。成功するかしないかの賭けではない。この方法をとれば成功するということは理解している。間違いなく、あと一分の時間を稼ぐことが出来るだろう。そうではなく……生きるか死ぬかの賭けだ。この方法をとった場合、自分が生き残れるかどうか分からない。確かに、生き残れる可能性はあるが。さほど大きいものではない。せいぜいが半々といったところだ。

 とはいえ、作戦を成功させることが出来るのならば。エレファントには迷いなどという無駄な思考過程は存在していなかった。既にムバクには契約をもって誓わせている。もしもエレファントが死んだとしても、その肉体に埋め込まれている生起金属、そこに囚われた実験体達の生命は、どんな手を使ってでも解放させると。エレファントにとってはそれだけがREV.Mに協力する理由であり、従って生きる意味だ。それならば、REV.Mからの指示を実行すること、作戦を成功させること、そのために自分が死ぬということに、一体なんの躊躇があろうか?

 とにかく、エレファントは、既に手のひらの中に賽を握り始めていた。つまり、どうしたのかというと……今まで、二つ合わせて巨砲となるような構造としていた両腕を。再び別の形に変化させ始めたのだ。

 衛星から衛星へと飛び移りながら。エレファントは、自分の左腕を膨れ上がらせ始めた。疾く、疾く、その左腕は巨大化していって。しかもそれだけではなかった。エレファントは、あちらへこちらへと移動しながら、その先にあった衛星を、次々に自らの左腕の中に取り込み始めたのだ。

 元々の大きさに加えて衛星の質量まで加わって。エレファントの左腕は、エレファント自身よりもずっとずっと大きくなっていく。取り込んだ衛星の数が、数匹から十数匹に、さらには数十匹になると共に。その大きさも、肩の根元から指の先端まで、十ダブルキュビト近い長さになる。

 形に関しても、それは既に砲身ではなかった。二の腕から一の腕までを真っ直ぐに伸ばして。その先にある手のひらは、ぴんと開いている。小指から親指までの指、全てをぴったりとくっつけて。それから、小指の側の手首、親指の方に向かって軽く曲げていて。小指から手首にかけての真っ直ぐな直線が、まるで刃のように見えて……そう、これは刃だった。エレファントは、自らの腕を、一振りの巨大なナイフへと作り替えたのだ。

 その。

 全体に。

 無数の。

 爆弾を。

 埋め込んだ。

 ナイフ。

 ぎりぎりぎりっと音を立てるみたいにして、ナイフの全体に魔法円が刻まれていく。先ほどまでの砲身に刻まれていた魔法円とは、似ているようで少しだけ違う。簡単にその違いを説明するのであれば、先ほどまでのそれは、射出された衛星をセミフォルテア爆弾にするためのものであったが。今回のそれは、このナイフの全体に埋め込まれた衛星を、その埋め込まれた状態のままでセミフォルテア爆弾に変質させるためのものだった。

 発射する必要はない。エレファントの左腕が、このままで巨大な対神兵器となったようなものだ。このナイフでアビサル・ガルーダに切りつければ、間違いなくいくらかのダメージを与えることが出来るだろう。ただし……当然ながら、エレファントも無事では済まないだろう。

 注ぎ込まれている生起金属に関しては、決して破壊されることはないはずだ。これは、いくらイースターバニーの失踪後とはいえ、通称機関がその持てる限りの技術を尽くして作り出したところの「傑作」なのだ。この程度のセミフォルテア爆弾で傷付けられるものではない。

 だが、エレファントの生身の部分は。間違いなく、華奢で脆弱な人間のそれなのだ。エレファントみたいな肉体の持ち主に対して華奢という表現を使うのはちょっとおかしい気もするが、それはあくまでも人間的な視点から見た感覚に過ぎない。神々のような生き物の立場からしてみれば、こんなものは、吹けば飛ぶ土くれとなんら異ならないのであって……そして、エレファントは、今、そういう生き物に対して一太刀浴びせようとしているのである。太刀っつーかナイフだけど。

 例え生起金属によって全身を包み込んでいようとも。そんなものは鋼鉄製の卵ケースに入れた鶏卵をマグマの中に放り込むようなものだ。暫くして引き上げてみれば、鶏卵は見事に茹で上がってしまっているだろう。というか、エレファントには、恐らくそんなことをしている暇さえないはずだ。なぜなら、このナイフでアビサル・ガルーダにダメージを与えるためには、完全な形での形而上臨界を起こさなければいけないのであって。そして、完全な形での形而上臨界が起これば、それは既に手遅れだからだ。たかが人間の反応速度で生起金属の展開が間に合うはずがない。

 いうまでもなく、エレファントに策がないというわけではない。必要ならば自分であれ他人であれ犠牲を惜しむエレファントではないが。とはいえ、サテライトのように、なんの考えもなく取り敢えず突っ込むという低能・オブ・低能というわけでもないのだ。当然ながら、犠牲を最小限に抑えるためのパターン化をある程度行ってから作戦を実行に移す。ただ、実際のところ……その策が、椀の中で笑う賽なのだ。奇数が出るか偶数が出るか、それによってエレファントの生死が決定する博打。

 まあ。

 なんにせよ。

 エレファントは、もう。

 賽を投げた後であって。

 Dice。

 On。

 Your。

 Head。

 引き返すことなど。

 出来るはずがない。

 うっとりと、まるで甘ったるい愛撫のようにして、エレファントの耳に聞こえてくる。「あれあれー?」「エレちゃんは」「何を」「しよーと」「してるのかなあ?」。デニーの声、柔らかい柔らかい蛆虫の腹が、ゆっくりと、ゆっくりと、絞め殺そうとして、絞め付けてくる、そんな感じ。

 そんな声を、完全に無視して。膨れ上がった左腕、空間の上を引き摺っていくみたいにしながらエレファントは衛星を蹴り渡っていく。アビサル・ガルーダの、その怪物じみた体躯からは信じられないほどの速度、あらゆる方向から加えられる攻撃を、避けて、避けて、避けて。そうしながらタイミングを窺っているのだ。自分がこの攻撃を避け続けることが出来る、そのぎりぎりのライン。そして、そのライン上において、このナイフによってアビサル・ガルーダに最も大きな被害を与えることが出来るであろうポイント。エレファントは、それを見極めようとしているのである。

 ナイフは、確かにエレファントからすれば屠獅子刀のように巨大なものであるが。アビサル・ガルーダからすればいい感じの鋏程度の大きさに過ぎない。タイミングを間違えてしまえば、軽くあしらわれてお終いということもあり得ないことではない。

 こういう時にカレントを頼れればいいのだが……こちらから攻撃を仕掛ける場合は、未来の流れというのは不安定なものになりがちだ。なぜなら、相手からの攻撃を防御する場合と異なり、読み取った可能性の流れをbeyondする行動になってしまうのであって。どうしても、そういった流れに干渉してしまう結果になるからである。流れがある程度変化してしまうのは避けられないのだ。カレントほどのスペキエースであれば、そういった変化をさらに勘案して可能性を解き明かすことが出来ないわけでもないが。とはいえ、それは絶対に正確というわけではない。ということで、今のエレファントにとっては、自分の経験しか頼れるものはない。

 ドミナス・マスカの向こう。

 感情というものが凍り付いた。

 暗い。

 暗い。

 眼球。

 聖書の表紙のような暗黒によって。

 エレファントは。

 そのヴァジュラの軌跡を。

 ただ、じっと、観察して。

 ついに、そのタイミングが来た。完璧なタイミング。アビサル・ガルーダのことを引き付けられるだけ引き付けた上で、更に、それなりの一撃を与えられるであろうタイミング。エレファントは、それが来たということを全身で感じ取ると。刹那の迷いさえ見せることなく、すぐさま行動に移す。

 まず、右の手、ナイフに変形させていない方の手で、背中のレジスタンスのことを引っ掴むと。衛星を蹴り飛ばした時の勢いに任せて、到達しうる限り遠くの方に向かって放り投げた。当然ながらこれから行うべき攻撃に際して犠牲になる可能性がある者は最小限に抑えておきたいのであって。つまりそれはエレファントだけでいいのだ。

 それでも、放り投げられる直前に、レジスタンスは――自分が放り投げられるということは分かっていたので――エレファントが作り出したナイフに、絞り出すことが出来るだけの抵抗力を纏わりつかせて。それから、プレッシャーがそれに圧力をかけることによって、爆発の衝撃が襲う方向性を限定するためのシェルを作り出していた。

 このようなシェルは……先ほどまでエレファントが放っていた、十数匹の衛星で作り出された砲弾でさえ衝撃を抑えるのが精一杯だったのであって。時折、亀裂が走り、外に衝撃が漏れてしまっていたことさえあったのだ。これほど肥大化したセミフォルテア爆弾が引き起こす衝撃から、超至近距離にいるであろうエレファントを守ることなど出来るはずがない。とはいえ、ないよりはマシであるし。それに、爆発時に少し離れたところにいるであろう人々、ブリッツクリーク三兄弟とサテライトとを守るためには、やはり必要なものであろう。

 とにもかくにも、レジスタンスは、まさしく文字通りに放物線を描きながら落ちていって。それから、体中の穴から抵抗力を吐き出しうる限り吐き出して、自分の周りに、またもや繭のような構造物を作り出した。これには、墜落時の衝撃を打ち消すという意味と、それに、これから起こるであろう鮮烈なるセミフォルテアの爆発を遮断するという意味。この二つの目的があった。

 これで、もうレジスタンスの心配をする必要はないだろう。そもそもの話として、以前にも少し書いたことだが、レベル6のスペキエースというのはREV.Mの中でも大変貴重な戦力なのであって。確かにエレファントとサテライトと、レベル5のスペキエースも重要ではないというわけではないのだが、それでもその重要性には雲泥の差がある。レベル5は使い捨てにしても構わないが、レベル6は、そう簡単に犠牲にするわけにはいかないのである。だからこそ、プランBを実行する前に、プランAとして、ブリッツクリーク三兄弟の存在を極力明かさないような作戦で様子見をしたわけだが……なんにしても、エレファントは、なんの憂いもなく突撃していくことが出来るようになったというわけだ。

 蹴って。

 蹴って。

 衛星を蹴って。

 空間を上昇していく。

 それから、それから。

 アビサル・ガルーダ。

 見下ろせる場所まで。

 辿り着く。

 高さにして百五十ダブルキュビト程度の位置だろうか。アビサル・ガルーダが少し見上げた先のところだ。そこまで来ると、エレファントは、またもや刹那の逡巡もなく。決してとどまることのない一連のプロセスの一環として、その衛星を蹴って跳んだ。いや、正確にいえば、その衛星を蹴って落ちた。衛星の横腹を蹴り飛ばすことによって、斜め下の方向に……つまり、アビサル・ガルーダがいる方向に。自分自身が砲弾になったかのような勢いで突っ込んでいったということだ。

 全力の上に全力を架し、その上に、更に、掛け金として自らの命を重ねた一撃だ。普通の人間であれば、例えば一匹の獣のようにして叫び声を上げているところだろう。だがエレファントはそんなことをするような女ではなかった。ただ、全身の筋肉を研ぎ澄ますために、はっという感じ、強く強く息を吐き出しはしたが。それだけだった。掠れた声一つ上げることなく、完全な無言さのまま、完全な冷静さのまま、その一撃を振り下ろす。

 アビサル・ガルーダの上方、数十ダブルキュビトの地点から。なんの企みもなく、なんの謀りもなく、単刀によって、直入によって、アビサル・ガルーダの顔面に向かって振り下ろされるナイフ。「あははっ!」「エレちゃんってば」「そんなにまーっすぐこーげきしてくるなんて!」。デニーは、フードの中で軽く首を傾げる。まるで、一匹一匹、兎の耳を切り取っていく子供のような顔をして。「デニーちゃんも」「やっぱり」「まーっすぐに答えなきゃね!」。

 アビサル・ガルーダはそれを軽く受け流したりすることはなかった。あるいは、他愛もなく避けてしまったりすることもなかった。そうしようとすれば出来たかもしれない、それでも、そうすることなく……その代わりに、エレファントがそのナイフを振り下ろして来る方向、自らの頭上に向かってヴァジュラを振り上げた。万物を震わせるような勢いによって、セミフォルテアの槍先を突き上げた。

 ただ。

 光。

 それは。

 炸裂。

 神。

 と。

 神。

 と。

 が。

 割れる。

 世界。

 ぶつ。

 かり。

 合う。

 ように。

 黎底。

 華卵。

 吐玉の絢爛。

 蛾闇の酩酊。

 割れる。

 割れる。

 遠い、遠い、垣間に。

 外の簑解計が見える。

 あらはりか。

 とるけらか。

 光。

 弾ける。

 消える。

 ただ。

 単純な。

 力。

 が。

 暴れる。

 要するに、サテライトでも分かるように一言でいえば、クソやべー爆発が起こったということだ。なら最初からそういえよと思われる方向性もあらしゃいますかもござりませんが、んなこといったらこの物語に出てくる大体の比喩表現は「クソやべー」に置き換えてもなんの問題もないのである。そして、そのような置き換えをしてしまったら、この物語の十分の九くらいは「クソやべー」になってしまうのであって。そうなったらもうサテライトのクソつまらない身の上話と大して変わらないんですよ。あのですね、こう、洒落た言語センスといいますかね、ちょっとは気の利いた自己表出を加えてみなきゃいけないもんなんですよ。物語っていうものはね。まあ、この物語がクソ面白いとはいいませんけれども。それでも、少なくともサテライトのクソつまらない身の上話よりはマシだと断言することは出来る。ということで、ぐちぐちぐちぐちと文句を付けるのはやめて頂きたく候という話なのであって……えーっと、なんだったっけ? ああ、そうそう、エレファントとアビサル・ガルーダとが今まさに切り結んだところでしたね。

 上方から叩き落されるセミフォルテアのナイフ、下方から突き跳ねられるセミフォルテアの槍先。神にさえ傷跡を残しかねないほどの凄まじい力の塊が、互いに互いのことを滅ぼし合おうとして、全力で激突する。

 ちなみに、デニーがなぜオルフォルテアの槍先を使わなかったかといえば。もしも、これほどの勢いでセミフォルテアの爆発とオルフォルテアの奔流とがぶつかり合えば、先ほどヴァジュラによって引き起こしたのと同じような法則根絶パワーが、先ほどとはマジポン比べ物にならない規模で起こってしまうのであって。そんなことになったら、恐らくは、そこにあるアーガミパータ霊道の線路が全く使い物にならなくなってしまうからである。

 今の状態は、線路を囲っていた柵が壊されて、列車が脱線したという程度だから。まあ、まあ、復旧はそれほど難しくない。けれども、法則そのものが完全に掻き消されてしまえば、また一から作り直しだ。そりゃあ範囲は限られたものであるが、とんでもなく面倒な作業になるのは確実だ。そんなことになってしまったら、もうはちゃめちゃに怒られることは間違いないし、しかも、怒られた上に、復旧作業を全部一人でやらされることになる。

 ということで、周囲にあまり影響が及ばないセミフォルテア対セミフォルテアに持ち込んだというわけである。ちなみにのちなみに、エレファントはそういったことを完全に予測した上でこの攻撃を行っていた。もちろん、エレファントは、このアーガミパータ霊道が作られた当時のこと、詳細について知っていたわけではないが。ただ、デニーがこの霊道の脆弱性を利用したことから、恐らくは建設に一枚看板を噛ませていたのだろうということを推測していた。そうであるならば霊道に致命的なダメージを与えるような攻撃はしてこないはずだ。もしも、オルフォルテアの槍先で攻撃してきたら……ほぼ確実に、ここにいる五人のテロリストは、皆が皆、この世界から完全に消滅していただろう。法則根絶パワー(仮)は、レジスタンスの抵抗も、プレッシャーの減圧も、サテライトの根性も、ぜーんぜん通じないレベルのものになったはずなのであって。恐らくそうなる可能性はないだろうという予測がなければ、さすがのエレファントといえども、なんの意味もないスーサイド・ボミングを行うわけがないのである。

 とに。

 かく。

 槍先にぶつかった瞬間に、ナイフは爆発した。セミフォルテア爆弾は形而上臨界点を迎えて、あらゆる方向に終局を撒き散らす。それに対して、それと全く同じ力、全世界における究極の原理のうちの一つ。限りなく無限に近い範囲と強さとを持った作用が殲滅の無慈悲をもって、これを迎え撃つ。

 雷撃と雷撃と……というよりも、純粋な力と純粋な力と。精神力によって方向付けられて、互いに大局的な性質を持たされた作用がぶつかり合う時、当然ながら、周囲には衝撃が引き起こされる。大きなひきうすのような石がこの世界に投げ込まれる。

 音になる前の音、音という概念の最も原初的な世界顕現が現象となって破裂して。光になる前の光、光という概念の最も原初的な世界顕現が現象となって散乱する。一つの銀河さえ飲み込んでしまう星々の大洪水みたいにエネルギーの暴走が放たれる。

 その破壊力は……レジスタンスが予め作っておいたシェルによって、ある程度は抑え込まれて。あるいは、プレッシャーの減圧によって、ある程度は削弱されはしていた。そのため、この戦場にいた「他の四人」、つまりブリッツクリーク三兄弟とサテライトとはなんとか耐えることが出来た。まあ、何が起こるのかということ、教えて貰っていなかったし、馬鹿だから予想することも出来なかったサテライトは。「は? な……がへっ、ずああああああああっ!」とかなんとか間抜けな声を上げながら吹っ飛ばされていきはしたが。とはいえ命に別状あるわけではない。

 しかし、しかし、「当の一人」は。その破壊力の直撃を浴びたところのエレファントは、無事で済むわけがないのだ。エレファントの全身に、エネルギーが、まさに破壊そのものであるところのエネルギーが、襲い掛かってきて。エレファントの物質的な側面は不定子となって、エレファントの精神的な側面は情報となって、それぞれ散り散りに虚空へと消えていく……はずだった。

 だが、そうは。

 ならなかった。

「プレッシャー。」

「行くぜ、姐さん!」

 まさに、そうなるはずだった未来の、一瞬の手前に。戦場の全体に響き渡るような声で、このようなプレッシャーの叫び声が聞こえた。「バアアアア、ラッパアアアアッ!」そして、そのナイフが形而上臨界点を迎えて。埋め込まれていた全ての衛星が強力なエネルギーを開放し始めたまさにその瞬間に。エレファントの全身は、極端な勢いで減圧され始めた。それは、本当に、信じられないほどのスピードであって。見る見るうちに、というか、人間の動体視力では捉えられない時間のうちに、エレファントの姿、完全に消滅してしまったかのようにばらばらになってしまった。後には、爆発し続ける衛星だけが残されて。

 そして、エレファントは、というかばらばらになったエレファントの構成要素は。その爆発の最初の衝撃であっさりと吹っ飛ばされた。それらの構成要素は、あまりにも軽量であるがゆえに、爆発の衝撃が致命的になるずっとずっと手前、というか、その爆発によって押し流された空間のそよ風のような影響力によって、押し流されてしまったということだ。

 飛んで、飛んで、飛んで……それから、それらの構成要素は、速やかに到達する。どこに? その破壊力が、エレファントの肉体に対して致命的なダメージを与えない程度まで弱められる距離に。そこまでくると、プレッシャーは、刹那さえ過たずにこう叫ぶ、「ギッシュッ!」。

 エレファントは、再び加圧され始めて。またもや一個の生命体へと戻り始める。けれども、その過程は、減圧の時ほどには簡単にいかないようだ。エレファントは、ある特定の部分が構成されたり、また分解されたり。あるいは全体が出来上がったらちょっと歪んだ形だったり、どこかが欠損していたり、そのような状態を繰り返して。吹っ飛ばされたその肉体が、大地へと到達する直前に……ようやく完全な形状を取り戻すことが出来た。

 ずど……どっかーんっ!

 どうっ!

 どうっ!

 どうっ!

 ぐずざああああ。

 ぐっ。

 ずっ。

 ずすーん。

 というような音を立てながら。月が落ちてきたかのような勢いで剥き出しの岩肌に激突したエレファントは、その上を凄絶に転がっていった。そして、その巨体が、とうとう停止すると。その周囲に、瞬く間に、錆びた光がドームのようにして展開される。もちろん、レジスタンスが、カレントの読み取った未来に従って予め用意しておいたところの、セミフォルテアの破壊力を遮断するための抵抗力だ。

 それから……横たわったままぴくりとも動かないエレファント、その横に、しゅぱんっ!とでもいうみたいにして一個の肉体が再構成された。もちろん、プレッシャーの肉体である。プレッシャーは、自分自身の再構成が完全に終わらないうちにエレファントに向かって駆け寄ると。その傍らに跪いて、縋りつくようにしてエレファントの肩を両手で掴んだ。ドミナス・マスカに覆われた顔を覗き込みながら、こう叫ぶ。

「姐さん、姐さん! 姐さん!」

「大丈夫だ、プレッシャー。」

 プレッシャーに揺さぶられて揺さぶられて、ようやくエレファントの目が、ほんのうっすらと開いた。その下で開いている口が、付け加えるようにこう言う、「私はまだ死んではいない」。その言葉を聞くと、プレッシャーは、ほとんど何も考えられないといったような表情、夢を見ているみたいに目を見開いて、呆然として口を開けたまま、はっと息を吸った。そして、その息を吐き出すとともに、ぼろぼろと涙をこぼし始める。「良かった……」「俺、失敗しなかったんだ……」。

 プレッシャーのような若者に、他人の命を背負うという重圧は、あまりにも重過ぎるのだ。普段はなんとか気丈であるように振る舞えてはいるが、このようなふとした時に、ちょっと気が緩んでしまうと、すぐに壊れそうになってしまうのだろう。とにかく、そんな風にして、肩を震わせて泣き始めたプレッシャーのこと。エレファントは、横たわったまま――落下時のダメージが大き過ぎてまだ立つことが出来ないでいるのだろう――そっと、元の大きさに戻した手のひらで触れる。「私は大丈夫だ」「お前のおかげでな」。口調に感情は籠もっていないが、とにかくその内容は優しい言葉で、そう声を掛ける。

 エレファントが賭けた可能性とは、要するにこれであった。つまりプレッシャーの減圧を使って爆発を切り抜けるということである。一見すると、そんな危険そうには思われず、エレファントもプレッシャーもなんでこんな決死って感じなのかと思われるかもしれないが。今回エレファントが助かったのは、奇跡的とまではいわないまでも、相当危ない橋を渡ったといってもいいようなことなのである。

 例えばプレッシャーが最初に減圧した時、つまりレジスタンスと自分とを減圧した時は。そこまでぎりぎりのところまで減圧していたわけではなかった、せいぜい目に見えなくなる程度である。けれども、今回は、再構成出来るか出来ないか、そのぎりぎりのところまで減圧していたのだ。

 それに、それだけではない。それらの構成要素がセミフォルテア爆弾の爆風によって吹っ飛ばされるのだ。これは、例えるなら、ばらばらになったパズルのピースを大砲で吹っ飛ばすようなものである。ピース一つ欠けることなく一つ所に集めておくということがどれほど難しいことか。

 しかも、そうしてめちゃくちゃになったパズルを、またもとの形に組み立てなければいけないのである。ピースとピースとをエレファントの形に戻す。気が遠くなるほどに繊細なプレッシャーの圧力加減と、それにカレントの精密な可能性の読み取りがあって初めて可能になることなのだ。

 まあ。

 とはいえ。

 なんにせよ。

 成功したのであって。

 良かった。

 良かった。

 ところで、爆発の現場にいたもう一人の当事者はどうなったのだろうか。もう一人というかもう一羽というか、アビサル・ガルーダのことだ。アビサル・ガルーダには、プレッシャーのような守ってくれる誰かはいなかったのであって。爆発、パーフェクト・アンド・パーフェクトなる直撃をこうむっていた。

 当然ながら無傷というわけにはいかなかった。エレファントの攻撃は、鵬妓級か、それを超えて璧亀級にも達しようというくらいの威力を持った攻撃だったのであって。レジスタンスがシェルによってある程度コントロールしていたから被害の範囲が限定されていたものの、そうでなければ島国の一つや二つや、消し飛んでいてもおかしくないくらいのエネルギーを開放していたのである。しかも、そのエネルギーが、それ以上の破壊力を持つエネルギーとぶつかり合ったのだ。

 ちなみにここまで触れなかったが、アビサル・ガルーダが持っているヴァジュラは凶虎級の対神兵器であり、これは璧亀級と洪龍級との間に位置する威力を持つ等級である。主に公レベルから王レベルにかけてのゼティウス形而上体と戦闘を行う際に使用される物であるが、現在の状態は威力を完全に解放しているというわけではない。

 とにかく、そこまで強い力を持つ者でないのであれば、神にさえダメージを与えることが出来るほどの衝撃だったのである。アビサル・ガルーダがいくら王レベルのゼティウス形而上体であるとはいえ、それなりの損傷を受けることは避けることが出来ない。ということで、アビサル・ガルーダはぐらりとよろめいた。

 引き裂かれたように嘴を開いて。銀河の果てで星と星とが響き合うような、壮絶な絶叫を上げながら。なすすべもなく後ろ向きに倒れていく。その体が、傾いて、傾いて。しかもそれとともに、爆発の衝撃が直撃した体の部位、顔だの胸だの、そういった部分から羽根が舞い落ちていく。今回は一枚だけではなかった。何枚も何枚も、爆風とともに……というか、爆発によって吹き飛ばされた時空間とともにひらりひらりと飛ばされていく。ヴァジュラを岩肌に突き刺して体を支えようとしたのだが、そうするにはあまりにも衝撃が強過ぎた。ヴァジュラは、がりがりがりがりと、大地の内臓を穿つような音を立てて岩肌を抉り取っていって。雨の日にタイルの上を滑る傘みたいにして滑ってしまう。

 なんと。

 なんと。

 アビサル・ガルーダ。

 神にも等しい鳥の王が。

 そのまま。

 後ろ向きに。

 膝をついて。

 しまう。

 いくらスペキエースとはいえ、たかが人間が! まさか、ここまで歯を立て、食らいついてくるとは。正直な話として、デニーにとっても驚きだった。驚きといっても決して予想していなかったというわけではないが、それでも、こんなことが起こるのは驚くほど低い確率であったはずだ。デニーは、その光景を見て……けらけらと笑いながら「わ、わ、すっごーい!」と大喜びしている。

 ちなみに、後ろ向きに膝をつくというのは人間の体ではあり得ないことなのでなかなか想像しにくいかもしれないが。正確にいうならば膝をついたというよりも足首をついたという方が正しい。ちょっと前にも書いた通り、スパルナの身体的構造はそのほとんどが鳥類のそれと同じなのであって。人間でいうところの膝の部分に足首があるのだ。なので、膝をついたというように見えるだけであって、本当は……イメージとしては、こう、爪先立ちになっていたものが踵をつけたような感じである。

 なんにしたってかなりのダメージを負ったことには違いない。とはいえ、それが致命傷ではないということも、また間違いがない。確かに、かなりの枚数の羽根が抜けてしまってはいたが、それでも地肌が見えるほどではなかったし。直撃を受けた部分にひどい火傷を負ったりしているというわけでもなかった。それにアビサル・ガルーダは倒れ込んでさえいないのである。ただ単に、膝(足首)をついたというだけの話だ。はっきりいってしまえば、受けたダメージの全て、十分に回復可能だ。

 ああ。

 それでは。

 エレファントが。

 その命さえ懸けた攻撃。

 全くの無意味だったと。

 いうことなのか?

 いや。

 いや。

 そんなわけがない。

 それは。

 まさに。

 成功していた。

 なぜならば。

「カレント、ちょうど十分経ったはずだ。」

「ええ、そうですね。」


 とはいえ、カレントの話をする前に、たった今起こったちょっとした事件について触れておかなければいけないだろう。確かに、それは大したことがない些細な事件であるが。この世界では、往々にして、発生時点においてごくごくつまらない出来事に思えたことが、後々になって信じられないほど重大な大問題を引き起こすということがあるものなのである。この事件もやはり……いや、とにかく、事件そのものについて話していくことにしよう。

 そもそもの話として、この事件の原因からしてクソほどにどうでもいいことであった。一つ一つの縁起を辿っていき、究極のプラティーティヤ・サムトパーダに到達するとすれば。それは、その根源は、サテライトが馬鹿だったということだ。

 以前も書いたことだが、サテライトは馬鹿なので作戦をしっかりと覚えられない。それに覚えられたとして、人倫に悖るほどに考えていることが顔に出やすいタイプなので、あんまり詳細の部分を教えてしまうと敵方に筒抜けになってしまう。

 ということで、作戦を実行するにあたって、サテライトには「こんな感じでスウィングなジャズを」程度の情報しか与えられないのだ。今回でいえば「エレファントの足場・砲弾として使うための衛星を出来る限り大量に補給すること」くらいしか指示されていない。あとは、何かあった場合の優先順位として、まずは砂流原真昼の捕獲、次にブリッツクリーク三兄弟の保護。基本的に、サテライトが教わっているのはこれだけだ。

 その他のことは、全てサテライトのアド・リブに任されているというわけである。通常であればこれで問題はない。サテライトとエレファントとは、これはもう長い長い付き合いなのであって。サテライトがREV.Mに入った時から関係を持ち続けているのだ。サテライトは、その動物的なほどに鋭敏な直観によってエレファントが何を望んでいるのかということ、そのほとんどを感じ取ることが出来るのであって。まあ、それを実行するかどうかというのはまた別の話なのだが……それはそれとして、何をどうすればいいのかということ、わざわざ言われなくても理解出来るのである。

 とはいえ。

 それは。

 サテライトが。

 人としての。

 最低限のライン。

 保っていられる。

 限りでのこと。

 とにもかくにも、何がいいたいのかといえば。サテライトは全然知らなかったということだ。エレファントが、自分の命を懸けてまでアビサル・ガルーダに一撃を加えようとしているということを。そんなことが起こるなんて、そのあまりにも貧困な脳髄は想像さえしていなかった。

 だから、いざそのことが起こると。いざ、エレファントが、アビサル・ガルーダに、自らの全身を砲弾と化して突撃して、そのために起こった爆発によって跳ね飛ばされると。サテライトには、一体何が起こったのかということが全然分からなかった。

 そして、エレファントの体は……サテライトの視線の先で、あたかも消し飛ばされたかのようにして消え去ってしまったのだ。もちろん、実際は、プレッシャーの減圧によって一時的な構成要素の離散状態となったに過ぎなかったのであって。それくらいのことは、ちったあ考える脳味噌があれば分かるだろってなもんなのだが。サテライトはご存じの通りクソ阿呆だったし、それに、たった今起こったように思えた出来事のせいで、完全に冷静さというものを欠き始めていた。

 「は?」と言った。その口は、ぽかんと開いたままで、「な……」と言った。全身が震え始める。「エ、エルマ?」という声、見捨てられた幼獣の鳴き声のように呟く。「おい」「ちょっと」「ちょっと待てよ」「嘘だよな」「そんな」「嘘だ」「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」。嘘だも何もてめぇの勘違いなのだが、それはそれとして、サテライトの残された目、右目が、大きく大きく、あたかも深海の底に落ちてきた太陽のように見開かれる。叫ぶ、「嘘だああああああああああああああああぁぁぁぁっ!」。

 正直な話、見ていて笑えてくるくらいのすちゃらかぼんちき振りであるが。少し落ち着かれてはいかがですか? とはいえ、本人としては笑うどころの話ではないのである。けだものでさえそんな声は出さないだろうという慟哭の絶叫は、やがて、人間らしさというものを完全に失ってしまって。単なる動物の叫喚になる。またもや理性が飛んでしまったのだ。ただ、今度は……どうも、先ほどよりも手に負えない状態になっているようだ。

 先ほどのサテライトは、いかに人間らしさを手放していたように見えても、それでも、たった一点だけ、人間的感覚と結び付いている部分があった。それはエレファントである。実際のところ、ストリート・チルドレン時代のサテライト、つまり完全な「野生の人間」であったところのサテライトを、ここまでの社会的動物に調教したのはエレファントであった。そのため、エレファントがいる限り、サテライトは、どんなに理性がぶっ飛んでしまったように見えたとしても、エレファントがすぐそばにいるという一点だけで人間的な何かに戻ることが出来るのである。

 しかし、今回に関しては……エレファントは死んでしまったのだ。それどころか跡形もなく消え去ってしまった。いや、まあ、あくまでもサテライトの主観の中でという話であるが、それでも、サテライトの中にあった、エレファントという結び目は断ち切られてしまった。

 ただでさえ不安定だった、ゼリーの上に危なっかしく積み上げられた積み木であったような、サテライトの中の「人間」が。今となっては、完全に崩れ落ちてしまったのである。今のサテライトは、もう人間ではない。サテライトという種類の、知性の欠片もない動物だ。

 夜の海。

 底の底。

 落ちた太陽が。

 全ての。

 全ての。

 海を。

 干上がらせてしまうみたいに。

 サテライトの。

 たった一つの眼球が。

 感情とさえ呼ぶことが出来ない。

 原始的な衝動を。

 青く。

 青く。

 爆発させる。

 「がああああああああああああっ!」という咆哮の、全ての音に濁点をつけて、更にその上にもう一つ濁点をつけたかのような、自らの喉を引き裂くがごとき吠え声をあげながら。サテライトの全身が爆発する。これはもちろん比喩的な表現であるが、それでも、あながち、ただの比喩とはいい切れないところがある。

 サテライトの肉が、骨が、内臓が、ぐちゃぐちゃに膨れ上がって。それが外側に向かって弾け飛んだのだ。「ハハハハッ!」という声を上げながら、サテライトの体内から不気味な衛星がこぼれ落ちていって。しかもそれだけではなかった。

 サテライト自体の肉体も、サテライトであることをやめ始めていたのだ。暴走したヒーリング・ファクターは、本来のサテライトの構造を超えてそれを作り替え始めて。サテライトは、とても、とても、不気味な、怪物へと変化していく。

 がりがりに痩せた少女だったはずの肉叢。虐げられて虐げられて虐げられ続けて、そのせいで成長が止まってしまったかのような、佝僂の姿をしていた肢体。それが、見る見るうちに肥大化していき。人間と呼ぶことが出来ない何かになる。

 そう……そもそも、サテライトは人間ではなかったのだ。もちろん、人間として生まれて、人間として育てられてきたが。だからといってそれが人間であるとは限らないものだ。人間が人間であり続けるためには、人間性というものを学ばなくてはいけない。人間とは果たして何者であるか。人間という生存の、その公的領域におけるルール。それを身に着けて、初めて人間は人間として認められる。ただ、その肉体が人間のそれであり、その形相子が人間のそれであるというだけでは、必ずしも人間と呼べるものではない。

 それにも拘わらず、そういった人間性のようなものはサテライトにとっては邪魔なものに過ぎなかった。空腹で、空腹で、それ以外に食べるものが何もない時に、どうして人間を殺して食べてはいけないのか? なぜ、わざわざ人間の言葉を覚えなければいけない? 他の人間と話すべきことなんて何もないというのに。なんで、なんで、こんなに……争わなくてはいけないのだろう。なんで、全ての人間が、自分の足元に跪いて、ただただ慈悲と贖罪とを求めないのだろう。

 サテライトは、好きなように生きたかっただけなのだ。叫びたい時に叫び、食いたい時に食い、眠りたい時に眠り、殺したい時に殺す。それの何がいけない? もしも、人間性の基準に従って、それはいけないことだというのならば。人間性などクソ食らえという話なのだ。あたしは、あたしの、やりたいようにやる。それがサテライトだ。

 ただ。

 たまたま。

 エレファントという。

 サテライトにとって。

 重要な生き物が。

 人間だったから。

 辛うじて。

 人間であるように。

 虚飾していただけ。

 それだけの話。

 つまり、人間であるように見えていたサテライトの姿形。くしゃくしゃの髪の毛、いつも不機嫌そうな顔、猫背気味の姿勢。成長期にろくに食べ物を食べさせて貰えなかったせいで、いつ見ても初潮前の少女にしか見えないその身体は、サテライトの本来のそれではなかったということなのである。

 サテライトは、サテライトだ。人間ではなくサテライトなのだ。そして、今、サテライトのヒーリング・ファクターは。本当の意味でサテライトを「ヒーリング」していた。つまり、サテライトを、人間という虚偽の器から解放しようとしていたのだ。

 サテライトという生き物はどんな生き物か? もちろん、それは醜い。人間の尺度から見ればというだけの話ではなく、あらゆる自然的な秩序からかけ離れた生き物なのだ。サテライトには均衡、あるいはバランスという感覚が欠けている。食えるなら食えるだけ食う、自らの腹がはち切れても食い続ける。動物的本能の赴くままに、いや、時にはその本能さえ超えて、サテライトが好むのは破壊である。あらゆる構造は、サテライトにとっては檻なのだ。自らを閉じ込める檻。構造の破壊……しかも、新たな創造が、決して伴うことがない破壊。それこそがサテライトの本質である。

 つまり。

 それは。

 膨張する混沌。

 質量保存の法則? 御冗談を。サテライトがそんなものに従うわけがない。科学的な正しさというものは、ただ科学的に正しいだけの正しさだ。それはあくまでも恣意的な正義であり、絶対的な正義ではない。「そうであるところの」真実でもなければ「そうであるべき」真実でもない。だから、サテライトにとって、そんなものは、クリスタルガラスで出来たペーパーウェイトの中に閉じ込められた神様ほどの価値もない。

 サテライトの肉体は、完全な虚無から発生してきた質量によって、信じられないほど醜く醜く変形していく。それは単なる奇形ではない。奇形でさえ、ある程度は自然の法則に従うだろう。そして、その法則によって記述することが出来る。だが、サテライトの肉体は……いや、サテライトの「それ」は、ただただ醜いという表現しか出来ないものだった。

 端的にいえば肉塊である。ただし、それは、人間の肉で出来ていたわけではない。それどころか有機物なのかどうかさえ曖昧な何かで出来ていた。腐敗臭を放っているので、恐らくは有機物に近いとは思われるが。ただ、それにしては展性が高過ぎる。それはあらゆる圧力によって破壊されず、あらゆる打撃によって破壊されず。とはいえ、あたかもゴムのようにしなやかな何かだった。

 そして、その肉塊から、なんだか良く分からないものが大量に突き出しているのだ。その形状から、人間の器官らしい原型から作られた何かであろうことは見て取ることが出来るのだが。ただ、それ以上のことが分からない。例えば、あの部分から髪の毛のように生えている長いものは、恐らく腕の形をした心臓に大量の血管が這い回っている何かなのだろうが。ただ、その腕が、何本も何本も直列して不気味なほど長くなっている。関節の一つ一つが奇妙な球体で出来ていて、よく見ると眼球に似ていなくもないのだが、全体が限りなく濁ったミルクのような色をしているのである。

 あるいは、巨大な骨の塊、前頭骨から頭頂骨にかけての部分のような骨の塊が浮かんでいて。それが、何ものにも繋がれることなく、時計の振り子のようにゆらゆらと揺れている。あるいは、牙らしきもの、のこぎりのようにぎざぎざと尖った牙らしきものが、多関節の脚部の先端、指が三本ある手のひらの、そのそれぞれの指にびっしりと生えている。あるいは、ぶつぶつとした肝臓みたいな物質が、くるくると回転していて。ぷくぷくと膨れては弾けて、そして、その弾けたものが新たな衛星となって吐き出されていく。あるいは、あちらこちらに満遍なく口のような穴が開いていて、べろべろと舌のような肉片を動かしながら、「ハハハハハハハハッ」と笑っている。

 全体的な形としては……何にも似てないな、これ。敢えて表現するとすれば、まだ言葉も喋れないような子供(随分とまあ猟奇的な子供だ)が、画用紙の上に書き殴った良く分からないものを、そのまま立体的に再現したような感じ。

 球体ともいい切れないし多角形ともいい切れない、なぜなら常に変化し続けるからだ。しかも、サテライトという一つの物体があるわけでさえない。その肉体は幾つも幾つもに分裂していて、時に混ざり合い、時に離れ離れになる。これは、そう……銀河だ。銀河に似ている。夜空を見上げて、その先に見えるもの。望遠鏡の向こうに見えているもの。それが今のサテライトだ。ただ、それは星々ではなく肉塊で出来ているが。

 そんなわけで、人間の姿形をしていた頃の面影はほとんど残っていないのだが。ただ、一つだけ残っているものがあった。それは頭部である。これほど生理的嫌悪感を催させる肉の塊になってしまっても、その頭部だけは、人間であった頃のそれとよく似ていた。とはいっても……直径にして一ダブルキュビト程度の球体になってはいたが。

 どろどろとした液体のような髪の毛が頭頂部から流れ出していて、それはどうやら酸性であるようだ。草原の上にでろでろと滴り落ちると、そこに生えていた草が急激に萎れて黒い塊になってしまうことからそれが分かる。鼻が一つ、耳が二つ。それに、真っ直ぐに開いている裂け目は、どうやら口だったものらしい。その頭部は……肉と骨と内臓とで出来た銀河の真ん中に、その銀河がばらばらになってしまわないようにするための、混沌同士が共食いする力の中心点のようにして配置されていた。

 片方の眼窩と。

 片方の眼球と。

 時空の特異点のように。

 青く青く燃えている。

 サテライトの目は。

 その惨たらしい視線を。

 アビサル・ガルーダに。

 向けていて。

 そして……その銀河が、ある程度出来上がると。とはいえ、もちろん混沌が完全になるということはあり得ないことなので、あくまでも暫定的な形状ではあって。依然として、鼓動のように繰り返されるエクスパンションとアントロポファジーとは続いているのだが。なんにせよ、崩れかけた肉塊の舞踏会が始まると、中心部分に位置しているところの頭部が動き出した。

 口らしき切れ目が開いて、その中から、だらだらと、小さな小さな人間の幼虫みたいなものがこぼれ落ちて。頭部の三分の二ほども開かれた大きな大きな空洞からは、あたかも何かを警告するサイレンのような音が鳴り響き始める。これは悲鳴か? 慟哭か? どちらも違うだろう。これは、ただただ衝動的なだけの叫びに過ぎない。「ごばああああああああ」という響き。それは、声というよりも、風の災害といった方が良さそうだ。

 ただ。

 その災害は。

 明確な。

 目的を。

 有している。

 それは。

 もちろん。

 目の前にいる。

 この生き物を。

 破滅させることだ。

 この生き物。エレファントを殺したところのこの生き物。アビサル・ガルーダ。それは、例えば憎悪のような、殺意のような、そんな「理性的」なものではなかった。感情は感情というだけで十分に理性的である。たった今、サテライトの内部で荒れ狂っているもの……感情にさえなり得ない原初の衝動からすれば。

 サテライトの銀河から、巨大な四本の器官が姿を現わす。それは骨に似た構造で覆われた、多関節の棘のようなものだ。関節の数はそれぞれが異なっているが、どれもこれも数十か所はある。長さもやはり異なっているが、おおよそにして十数ダブルキュビトといったところか。太さは直径にして一ダブルキュビト程度で、一本が斜め左上から、一本が斜め右上から。一本が斜め左下から、一本が斜め右下から突き出ている。

 サテライトは、その口から、ごうごうという風の災害を吐き出しながら……大地の上に膝をつき倒れているアビサル・ガルーダに向かって一直線に突っ込んでいった。アビサル・ガルーダは、ほんの一瞬のうちに隙を突かれた形になるだろう。反撃をする暇もなく、四本の器官によって捕らえられてしまった。

 まあ、捕らえられたといっても、アビサル・ガルーダは百ダブルキュビト以上の高さがあるのに対して、サテライトは直径にして十ダブルキュビトから二十ダブルキュビトの間で不安定に変形しているに過ぎないが。とにかくサテライトは、四つの器官を使ってアビサル・ガルーダにしがみ付いたのである。

 胸の辺りにべったりとくっついて、右肩、右脇、左肩、左脇、これらのそれぞれの部分に器官を引っ掛けた形だ。当たり前のことだが、この程度の器官でアビサル・ガルーダのことを貫けるわけもないので、ただただ引っ掛かっているだけではあるが。それでも、ちょっとやそっとでは外れないだろう。

 その状態で、銀河の中心に位置していた頭部が、ぐるんと回転した。それまではアビサル・ガルーダの方を向いていたのだが、戦場の方に顔を向け変えたのだ。そして、その口から、先ほどまでとは異なった咆哮を吐き出し始める。

 なんだか甲高い感じの喚き散らすような音だった。ぎゃーぎゃーというかげぇーげぇーというか、そんな感じだ。それはどちらかといえばコミュニケーション的な色彩を帯びていて……というか、神経細胞と神経細胞との間で交換される化学物質のようなもの。そう、それはシグナルだった。そのシグナルの受け取り手は、もちろん、この銀河を構成する星々だ。

 衛星、衛星、衛星。全ての衛星達がシグナルを受け取った。そして、「ハハハハッ!」という答えを返す。別々の方向を向いて好き勝手に飛び回っていた衛星達は、そのシグナルに従って、ざらりと振り返る……アビサル・ガルーダのことを。

 そして、次の瞬間には。一斉に。一匹の例外もなく。全ての衛星達がアビサル・ガルーダに向かって突進し始めた。「ハハハハッ!」「ハハハハッ!」という幾つも幾つもの笑い声が、まるで外敵に向かって威嚇する蜂の羽音のように響き渡る。

 とはいえ、ただの衛星であれば……こんなこといわれなくても分かると思うが、ただの衛星が何をしようとアビサル・ガルーダになんらかの損傷を与えられるはずがない。所詮は人間だったところの肉体が捻じ曲がっただけの代物なのだから。

 しかしながら、今の、これらの衛星達は。その内側に、飲み込みうる限りの魔学的エネルギーを飲み込んでいる。しかもそれだけではない。サテライトが人間のふりをすることをやめてからは、プレッシャーの圧力によって集められた魔学的エネルギーを、人間の限界を超えて貪っているのだ。

 既に、その形相構造は、ヒーリング・ファクターでさえ再生し切れなくなっていた。衛星のそこここは破綻をきたし始めていた。皮が破れて、その内側からはぎらぎらと現実を蝕む悪夢のような光が漏れていて。全体が奇妙な音を出し始めていた。子守歌に似ているのかも知れない、ひどく静かな音楽。あるいは、形相の全体が立てている軋み音。

 そのような状態で、衛星達は……アビサル・ガルーダに突進していった。文字通りの意味で突っ込んでいって、激突したのだ。衛星は、次々にぶつかって。ぶつかるごとに壮絶な爆発を起こす。内側に溜めていた魔学的エネルギーを一気に解放するのだ。

 無論、その爆発は、セミフォルテア爆弾と比べればごくごく微力しか持たない。アビサル・ガルーダからしてみれば針で刺されたほどの痛みだろう。ただ、とはいえ、問題なのはその量だ。数百の衛星達が、全身で絶え間なく爆発を繰り返している状況。

 これはアビサル・ガルーダからしてみれば針で出来た筵の上を転がっているようなものだ。一つ一つの攻撃であれば耐えられるだろうが、これはもう激痛である。両腕を振り回して襲い来る衛星達のことを払おうとするが、あまりに数が多過ぎる。数十匹を打ち落とすことが出来てもその間に別の数十匹が目標に到達している。その上、打ち落とした数十匹でさえ爆発して手のひらを焼くのだ。

 アビサル・ガルーダは。

 衛星達を対処するのに精一杯で。

 その場から全く動けなくなる。

 立ち上がれなくなってしまう。

 そして。

 ハッピー・ギャラクシーは。

 更に。

 更に。

 別の動きをし始める。

 サテライトの変形後の描写をした時に、ぎざぎざとした牙が生えた手のひらの話をしましたよね? 今、そういった手のひらが、銀河の全体から発芽し始めた。数十本の脚部が生えて、そのそれぞれの先に、そういった手のひらがついている。まあ、脚部ごとに、指の数は三本だったり七本だったりするのだが……とにかく、どれもこれも、びっしりと牙が生えた指先だ。

 それらの手のひらを、しっかりと捕まえたアビサル・ガルーダに伸ばし始めた。それらの手のひらは、見ているこちらがぞわぞわしてきてしまうような手探りによって、アビサル・ガルーダの全身を這い回ってから。見つけ出すべきものを見つけ出す。

 それは、傷口だ。アビサル・ガルーダがアビサる前に、正生命体として生きていた頃。アナンタの軍勢によって損傷を受けた場所。手のひらは、それに触れるや否や、ぐじゃぐじゃとその内側に侵入していった。

 まあ、とはいえ。これだけなら、別に大したことではない。人間だって、細菌が傷口に入ってきてもさして痛く感じない。それと同じように、スパルナにとっては細菌程度に卑小な生き物でしかない人間なのだ。そこに侵入したというだけであれば、大したダメージはない。

 もしも。

 入ってきた。

 だけならば。

 手のひらは、そこに入るとともに、ぐぱぁっという感じで指先を広げた。そして、その傷口から吐き出されているもの。反生命の原理に向かって牙を伸ばし始める。それらの牙は、反生命の原理に触れると……ああ、そんな馬鹿な……その原理の主要なエネルギー源、つまりスナイシャクを貪り始めたのだ。

 つまり、これらの牙はただの牙ではなかったのだ。吸痕牙だったのである。もちろん、普通の吸痕牙はこのようなのこぎり状の形をしているわけではないが。それでも間違いない、スナイシャクを吸収するための器官だ。

 しかし、吸痕牙が生えているのはノスフェラトゥだけであるはずでは? ノスフェラトゥが犠牲者の生命力を吸収する際に使うのがこの器官である。それがなぜ、人間であるはずのサテライトについているのだろうか。

 これは、本当に、全く信じられないことだ。ただし、絶対にあり得ないというわけではない。確かに可能性としてはありうるのだ。真実として、よほど何か特殊な事情があってそのことを知ってしまった者しか知らないことであるが……そもそも人間とは、ケレイズィの実験の結果として出来た失敗作だったのである。

 ケレイズィがフェト・アザレマカシアに対して戦争を仕掛けた時、二種類の生物兵器が作られた。ノスフェラトゥとティターンとである。それぞれ当時は爬虫類の実験動物に過ぎなかった原始的な哺乳類であるケナシザルから作られたのだが。この二種類の生物兵器を掛け合わせて、より強力な生き物を作り出そうという実験がなされた。

 その際に生み出された何種類も何種類もの失敗作が、いわゆるヒト族と呼ばれる一群の生物群なのだ。ナシマホウ界で生き残ったのは結局ホモ・サピエンスだけだったが、それはそれとして、ここでいいたいことは、ホモ・サピエンスには本来的にノスフェラトゥの血が流れているということだ。ホモ・サピエンスは、いわば、ノスフェラトゥが劣化した種族なのである。

 ということは、あり得ないことではない。今も形相子の深層に残っている残骸の中から先祖の特質を引き摺り出して、それを顕現させることは、理論上出来ないことではないのだ。とはいえ、それはあくまでもあり得るというだけの話であって。実際にそれを出来るかどうかというのは全く別の話である。

 サテライト、は、それ、を、した。サテライトにとって、この世界は間違ったものである。なぜなら、自分のような最適者が、このような時代遅れの神に対して、手も足も出ないなんていうことはあってはいけないことだからである。だから、ヒーリング・ファクターを使って、その間違いを「ヒーリング」することにしたのだ。虚仮の一念という言葉で片付けてしまうのは簡単だが、それでも……サテライトは、その低能は、その馬鹿は、その白痴は。この世界の理さえも理解出来ない愚かさは、それゆえに、いとも軽やかにそれを飛び越えていく。

 とにかく、サテライトの吸痕牙はスナイシャクを吸収していく。これは……人間の領域を超えた攻撃である。高等知的生命体であるところの、ノスフェラトゥの方法なのだ。サテライト自体は知的でもなんでもないのだが、なんにしたって、これはスパルナにも十分に通用する。

 必死になって衛星達を退けようとしていたアビサル・ガルーダは、サテライトのその攻撃を受けると……大きく嘴を開いて……ただし、今度は、そこから悲鳴が迸ることはなかった。その代わりに、ごぼごぼっという音を立てて反生命が溢れ出る。もはやこの危機的状況においては声などを上げている場合ではない。

 先ほどまでの攻撃は、命に別状があるものではなかったが。今回のこれは危ない。明らかに危険だ。ノスフェラトゥは、神々さえ殺すことが出来る生命体なのだ。しかも、神々の中の神、当時最も力があった神々の一柱、偉大なるアナンケ王妃を殺害したのである。そのような生命体の方法を用いて攻撃されている。

 衛星達を相手にしていた左腕、速やかに、それらの手のひらが繋がっている脚部を傷口から引き抜くための作業に回して。そして、ヴァジュラを掴んでいた右手は、それを手放してまで同じ作業に従事する。

 スパルナの膂力には、さすがにサテライトも逆らうことが出来ないで、脚部は簡単に引き抜かれてしまうが……とはいえ問題が一つあった。脚部は、引き抜かれる前に、手のひら自体を切断してしまったのである。つまり手のひらは、しかも複数が、傷口の中に残ることになったということだ。

 自分の傷口に指先を突っ込んで、手のひら(複数)を掻き出そうとするが。そんなことをしているうちにも、新しい脚部が、新しい手のひらが、銀河から発芽し始めて。再び傷口の中へと入っていく。これではきりがない、アビサル・ガルーダの全ての行動はそれへの対処に掛かりっ切りになる。

 っていうか……気持ち悪いな……攻撃方法が全般的に気持ち悪い……さすがサテライトだ……アビサル・ガルーダは、とうとうサテライトのことを引き剥がそうとするが。そもそもその銀河は可変的であって、一体どこを掴めばいいのか分からない。それだけではなく、仮に掴めたとしても、四本の爪ががっしりと銀河のことを固定してしまっているため、銀河がぬるんと滑って逃れてしまう前に引き剥がすことが出来ないのだ。

 これでは。

 もう。

 どうしようも。

 ない、ですね。

 そんなサテライトのこと、あり得ない方法で攻撃してきた姿を見て。デニーは……大喜びしていた。なんと、先ほどまでしていた支配者の姿勢をやめてしまって。ずるずるとのたくる反生命の原理の中で、まるで胎児のように全身を丸めたまま、ふわふわと宙に浮かんで。何度も何度も手を叩いて爆笑している。

 きゃははははっ!という笑い声を上げながら「サテちゃん、サテちゃん、サテちゃーん!」だの「んもー、最高! 最高だよ、サテちゃん!」だのと、恐らくアーガミパータに来てから今までで一番ご機嫌な様子で大騒ぎしている。反生命をぼたぼたと滴らせながら、宙に浮き、その場でぐるぐると回転している。

 デニーがそんなんだから、アビサル・ガルーダはサテライトに対してろくに反撃出来ないのだ。今のデニーは、あまりにも愚かなサテライトが自分には理解出来ない現実世界のあらゆる摂理をぶっ壊して暴れまくるのを特等席で見物するのに、すっかり夢中になってしまって。パシュパティのタルパなんてぜーんぜん忘れて、(文字通り)腹を抱えて大笑いしているのであって。そのため、現在のアビサル・ガルーダは、まともに操作して貰えていないのである。予めインプットされていた最低限の生存本能によって、ほんの僅かな抵抗をしているだけなのだ。

 まあ、なんにせよこれが「ちょっとした事件」である。そう、本来であればこんなことは大したことではない。サテライトの暴走にデニーが飽きて、アビサル・ガルーダを使って「はい、おしまーい!」ってしてしまえば一瞬で終わってしまうようなことだからだ。ただ、この事件が、いわゆるプランCと関係し合うと……この戦場にいる、たった一人を除いた関係者達。ここで起こっているあらゆることを仕組んだ張本人であるところのカレントを除いた全ての関係者達が予想もしていなかったことが起こるのだ。

 もちろんそれは、ここまででも何度か書いてきたこと、つまりサテライトが真昼を殺害するということであるが。それでは、一体、どのようにしてそれが起こるのか? 真昼は、デニーが作り出したアサイラム・フィールドの中にいるのであって。そして、それはアビサル・ガルーダの羽搏きによっても破られることがなかったのである。というか……はっきりいってしまおう。今のサテライトであったとしても、これを破ることなど不可能だ。

 その殺害が起こるためには、この戦場においてもう一つの条件が満たされなければいけない。もう一つの変化がなければいけないのである。そして、その変化こそが……エレファントが、そのために十分の時間を稼いだこと。カレントによる「ダウンロード」の結果として発生するはずのことなのだ。

 さて。

 さて。

 それでは。

 エレファントはなんのために。

 命を懸けてまで十分の時間を。

 稼いだのか。

 カレントが、その間に。

 一体何をしていたのか。

 それを。

 見ていこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る